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なるこ

作者: コルシカ

なるこ

                                コルシカ


 ここは、都心から離れた大学病院の一室である。閑静な住宅街の中だけあって、室内は患者の精神的安定を保つための条件を備える空間といえた。

 この精神内科で月曜日と木曜日に診察を担当するのは、鳥居恵。三一歳の医師である。大学に在学中からきわめて優秀な成績で、人当たりも良く、この年齢で週に二日も診察を任されることは、異例の抜擢といっていい。

 「鳥居先生、笠井様という方からお電話です」

 看護婦の呼びかけに、鳥居は座っている椅子から少し腰を上げたが、

 「いいわ。後からかけ直すと伝えてちょうだい」

 と笑顔でそれに答えた。看護婦は、意味ありげな微笑を残して診察室を出て行った。

 一人になったとたん、鳥居は立ち上がって無機質なリノリウム張りの室内を、うろうろ歩き始めた。

 (あと三日しかないのか……)

 右手親指の爪を噛みながら、鳥居は頭の中に七月のカレンダーを思い浮かべていた。右手親指の爪を噛むのは、彼女が幼い頃から焦りを感じたときに出る癖である。

 「先生、次の患者さんに入っていただいてよろしいですか」

 漠然とした気持ちで書棚の医学書のページをめくっていた鳥居は、にわかに我に帰ると、「入ってもらって」と看護婦にいった。

 やがて、ぎこちないノックの音が室内に響く。

 「どうぞ」

 鳥居は、つとめて明るく弾む声で応じた。月曜の午後二時三十分。いつも通りの時間だ。

 ドアが開くと、スーツを着た二十代なかばのサラリーマン風の男が、思いつめた犬のような表情で立っていた。

 男は軽く一礼すると、重たい足取りで診察室に入ってきた。そしてようやくといった様子で、診察席の向かい側の椅子に腰掛けると、小さくため息をついた。

 「立花さん、具合はどうですか。発作の頻度は、少なくなってきましたか」

 鳥居は、これまで何度となく繰り返してきた質問をした。それは、この立花という男に対する時候の挨拶的な意味合いを持っていた。

 「どうもこうも、ないですよ……」

 立花は、情けない声で答えた。

 「また起きちゃったんですよ、発作が。大事な商談があるってときに……もう、僕は破滅だ」

 この種の大げさな表現が、立花の慣習のようなものであることを差し引いても、今日は彼がひどく消耗していることは伝わった。

 カルテをめくりながら、患者の顔色を観察する。いつになく定まらない彼の視線は、充分に鳥居を満足させた。

 「立花さん、この病気はですね、お薬による治療を粘り強く続けるしかないんですよ。気をしっかり持ってください」

 「そんな。いつまでこんな思いを……よく効く新しい薬は、まだ開発されないんですか?」

 鳥居の言葉は、嘘ではなかった。立花の「病気」を完治させる治療法は現在なく、薬物治療により発作を予防しているにすぎない。


 ここで、立花の病気について言及せねばならない。

 病名は「ナルコレプシー」。睡眠障害の一種である。

 その症状は、日中に突然眠り込んでしまうというショックングなものであり、仕事中や食事中、さらには車の運転中にいたるまで、発作は時と場所を選ばない。

 病気について無知な者にとっては、ただの「怠け者」との誤解さえ受ける、危険な病気である。

 二十世紀初頭には、ナルコレプシーは「過度のストレスや欲求不満がもたらす精神反応」と考えられており、精神療法中心の治療が行われていた。

 しかし、脳波の測定法が確立されるにつれ、ナルコレプシー患者の睡眠の異常が発見されたのである。

 つまり、正常な人の眠りは、始めにノンレム睡眠(浅く不安定な睡眠状態)が約九十分続いた後、レム睡眠(深く安定した睡眠状態)に入るのに対し、ナルコレプシー患者は、これらが逆の順番であらわれるのだ。

 覚醒状態から、突然レム睡眠へ。

 これこそが、ナルコレプシーの主症状「日中の居眠りと睡眠発作」の原因だといわれる。患者に多く見られる五つの症状は、次のとおりである。


(1)日中の居眠り 歩行中や食事中にも繰り返し居眠りが起こり、数分眠

          るだけでもすっきりする。


(2)情動脱力発作 喜怒哀楽の急激な情動が生じた際、数秒間全身の力が            

         急激に抜けてしまう。


(3)入眠時幻覚 急激なレム睡眠への移行により、患者の意識レベルの高      

         さから、普通の夢よりも鮮明な、幻覚に近いものを体験     

         する。


(4)睡眠麻痺  覚醒と睡眠の移行期に、全身に筋緊張喪失が続き、金縛  

         りにあったように身動きが取れなくなる。


(5)夜間熟眠困難 夜間頻繁に目が覚め、熟睡できず、夢を多く見る。


 この全ての症状を併せ持つ患者は、全体の約五〇~六〇%。立花の場合、(1)・(3)・(5)の症状が発症している。

 ナルコレプシーは、十代の年齢で発症するケースが最も多く、初発年齢のピークは一四~十六歳。立花も、症状に気付き通院を始めたのは十八歳のときだった。

 最近の研究において、患者の全員がある種の遺伝子をもっており、それに何らかの条件が加わることで、ナルコレプシーが発症する可能性が認められた。しかし、その原因は未だもって解明されずにいるのが現状である。


 「お昼休みには、お昼寝をしていますか。二十分程度でも」

 鳥居は、カルテに目を落としたまま、立花に質問した。

 「できるだけ寝るようにしていますが……営業の外回りが多くて、思うように睡眠がとれません」

 カルテの上に、繊細なドイツ語の筆記体が流れるように書き込まれてゆく。患者は、通常二十分の睡眠で二~三時間の間、発作が抑えられるのである。

 先週末の午後、立花は得意先との大事な商談のため、昼休みの睡眠をせずに会社を出たのだった。もちろん、彼とて自分の病気のことは誰よりよく承知している。商談の一時間前に、相手商社の事務所へ到着し、隣のビルの喫茶店で待機していた。

 ところが、そこで発作が起きたのである。

 厳密にいえば、立花はランチを食べ終え、食後のアイス・ミルクティーを飲んでいる最中に、突然の深い眠りに落ちたのだった。

 彼が目を覚ましたのは、約束の時間の一時間後だった。幸いにも相手先商社からの電話により、立花の会社から別の営業マンが現場に急行し、商談は壊れずにすんだ。

 皆、立花が商談先の目と鼻の先で眠りこけているとは露知らず、慌てて相手商社のオフィスに駈け込んだ立花は帰社後、営業課長に「おまえなど、死ね」と課員全員の前で、さんざん罵られたという。


 「立花さん。前から提案していたことなんですが」

 職場の皆さんに病気のことを打ち明けてはどうですか、と鳥居は心配げにいった。ナルコレプシー治療は、患者周辺の人々の理解なしには非常な困難を伴う。鳥居の提案は、正論であった。

 「とんでもない!」

と気色ばんで立花が叫んだ。自分は会社で常に大きなプロジェクトを任されているし、上司や田舎の両親にも将来を嘱望されている。病気のことが周囲に知れたら、必ず仕事の第一線から外されることになる。だから、そのような弱音を吐くような真似は、誰もが望まないことだ、といった。

 驚くべきことに、立花はナルコレプシーの発症から約十年の間、誰にも病気のことを話していないのだった。

 鳥居は、自分でした提案が患者に受け入れられるとは思っていない。立花のようなエリート意識が過剰なほどに高い男に正論をぶつけることが、彼女の中のサディスティックな欲求を満たしたし、同時に医師としての義務感すらも果たすのだから、このうえない充実感を味わえるのだ。

 どうしても首を縦に振らない立花に、鳥居はレム睡眠を抑える三環系坑鬱薬と、夜間の不眠に対しての睡眠導入剤を処方した。患者の希望で、いつもより強力な効果を持続する薬だ。

 (ほら、また逃げた)

 いそいそと鞄を抱えて診察室を出て行く立花の背中を見て、鳥居は優越感に浸る。彼女とて、始めからこの患者に対して、悪意を持っていたわけではなかった。しかし二年間という長期にわたり、鳥居の制限された中での最良と思われる治療プランを、立花は自己のプライドにかけて拒否し続けた。

 立花は、最新の強力な薬物を自分に投与することだけで、この恥ずべき病状を隠蔽し、何食わぬ顔で社会復帰できることを信じていた。

 鳥居は次第にこの患者の性格を嫌悪するようになり、今では立花が自らの偏狭な視野に溺れて、彼に相応しい自滅を遂げることを期待している。

 「先生、また笠井様という方からお電話ですけど……」

 思わず、鳥居は椅子から立ちあがった。職場まで電話を掛けられるようになったのだ。もう、引き延ばしも限界だろう。

 「わかったわ。今出ます」

 自然の動作を装って、額ににじむ汗をハンカチで押さえる。

 「あんまり待たせちゃ、悪いですよう」

 けばけばしい茶髪に、ど派手な化粧を顔面に施した見習看護婦は、どうやら「笠井」という男を鳥居の交際相手と信じ込んでいるらしい。

 「わかっているわ。あなたはもういいのよ」

 この低能、と鳥居は心の中で付け加えながら、彼女を診察室から追い出した。このような感情に囚われるのは、一日に一度や二度のことではない。


 ここで、鳥居恵の隠れた性癖について言及する。

 彼女は女性としては極めて普遍的で、かつ依存性の高い性癖を持っている。それは、簡単にいえば「消費癖」である。

 消費癖は思春期以後の女性の多くに発症し、原因は自意識の過剰や欲求不満等多くが数えられるが、ナルコレプシーと同様特効薬は発見されていない。

 鳥居は、静岡県の農家に生まれた。自宅付近の傾斜のある茶畑では日本茶を栽培しており、幼少時から農業の暦に則った禁欲的な日常生活を強いられてきた。学生時代も厳格な両親と祖父母のもと、学業に専念し地元の国立大学に進学した。

 ところが彼女の所属する医学部は、ほとんどの学生がブルジョア階級といえる境遇の子女ばかりであった。自然彼らとの交際には何かと出費がかさみ、鳥居の両親も愛娘に恥をかかせまいと、高価な洋服やアクセサリーを買い与えるようになった。

 だが悲しいかな、そこは日本茶の生産農家である。資金援助の軍資金が途絶えがちになり、ついには授業料を滞納しないのがやっとの状態に陥った。学友たちの実家とは、基礎体力が違ったのだ。

 しかし、鳥居は変わってしまっていた。勤勉さは失っていなかったが、今更ブランド・グッズを捨てる気などなく、夜に水商売のきわどいアルバイトなどして、かろうじて私生活の水準を維持してきたのだった。彼女が身につけた社交性は、学生時代のアルバイトに培われたものといえた。

 卒業間近の鳥居は、実地研修とアルバイトとの狭間で飛び続ける「瀕死の白鳥」に他ならなかった。正式に医師となってからも、彼女の給与はほとんどブランド品の購入につぎ込まれた。白の輸入車やプラチナの指輪、モダンな空間をもつアパートまで、すべてが鳥居のものである。重要なことは、それらグッド・センスを選択できる権利を彼女が有している点であり、その権利を持たない一般人は鳥居にとって蔑むに値する人種であった。

 この病院の神経内科には、心の病を得た人々が救いを求めて鳥居を訪れてくるが、彼らはこの女医にとっては人間としての水準にさえ満たない連中だった。病院での診察は、完全なビジネスと割り切ってもいたし、元気のない観葉植物に肥料を与える一種のガーデニング作業にも思えた。この認識は裏を返せば鳥居に患者を治療する能力が欠如していることを示しているが、彼女自身そのことをよく承知している。

 医師失格である。そして現在彼女を打ちのめしつつある出来事が、より明らかな烙印としてその証拠を残すであろう。ついに、債権者からの督促の電話が、職場にまでかかるようになったのだ。先程から繰り返し鳥居に電話をかけてきた笠井という男は、他でもない信販会社から鳥居の債権譲渡を受けた「取立て屋」だった。


 翌週の月曜日、どうにか期限までに借金を返済して胸を撫で下ろしている鳥居の診察室に、立花が訪れた。もちろん時刻は、午後二時三十分である。彼は、もつれるような手つきでネクタイの結び目をいじっていた。鳥居は、その動作から立花が彼女に何を期待しているかを察知した。

 「何か、病状に変化が起きたんですね。隠さずにおっしゃってください。恥ずかしいことは、ありませんから……」

 「そ、そうですか。実は、先週の木曜日にですね」

 立花は、猫背気味に丸めた姿勢のまま、上目遣いで鳥居に許しを乞うように、新たに発症した病状の説明を始めた。

 先週の木曜日は残業がなく、立花はアフター5に渋谷へ立ち寄った。彼は熱烈なプロレス・ファンであり、プロレスショップ『ボンバイエ』に注文してあったグッズを受け取りに行ったのだ。

 そのグッズとは、レスラーである「タイガーマスク」の着用していたマスクのレプリカ品だった。付け加えて、立花の頭部にフィットするように製作されたオーダーメイドである。

 立花は、興奮に震える手で店長からマスクを受け取ると、荒い息遣いでマスクを試着した。トップ・ロープから華麗なドロップキックを放つ「タイガーマスク」と立花は一体になったような気がした。そして胸の鼓動が高鳴るのを楽しむ間もなく、立花はその場に卒倒し、気を失ったのである。

 店長は、むろん立花の病気のことを知らず、慌てて救急病院に連絡を入れた。店に到着した救急隊員たちは、スーツ姿のタイガーマスクが店内で気を失っている姿を見て、最初にここでレスラー同士の乱闘騒ぎがあったものと勘違いしたらしい。『ボンバイエ』の前には、失神したタイガーマスクを一目見ようと救急車を大勢の野次馬が取り囲んだ。

 立花は運び込まれた病院で手当てしてくれた看護婦にも、彼から剥ぎ取ったタイガーマスクを片手に「まぎらわしいことは、しないでください」といわれのない説教を受けたという。

 「すいません、ちょっと失礼」

 そういって、鳥居は立花を残して席を立った。数分して鳥居は、平然とした表情で診察室に戻ってきた。

 「先生あの、笑ってたんじゃないでしょうね」

 図星である。しかし鳥居は顔色一つ変えず、それに答えた。

 「まさか。それより立花さん、その症状は『情動脱力発作』であると考えられます。これまで見られなかった症状ですからね。深刻に受け止めた方がいいでしょう」

 立花は頭を抱えて、こんなに恥ずかしい思いをした上に、五つの主症状の内四つまで引き受けてしまうとは、もう人間を止めてしまいたい、といった。

 「できるだけ、感情をコントロールするよう心がけてください。心の均衡からはみ出す波を小さく保つように……あとはお薬でサポートしますので」

 「平穏な時だって、発作を気にしているんですよ。そのうえ笑うな、泣くな、怒るな、なんて!僕は人造人間に改造されたほうがましだ」

 今日の立花は、いい。ここ数ヶ月でも一番の出来だ、と鳥居は冷たい視線を患者に向けた。

 (ワクワクさせてくれるじゃないの、この絶望感ときたら)

 それから、失神したスーツ姿のタイガーマスクの話。医師たちとの食事会では、最高に笑える話題となるに違いない。それにつけても患者たちときたら、自分のプライバシーが本気で守られると思っている。そういうバカはバカにされて当然だ、というのが鳥居たち医師のインフォーマルな見解である。

 「先生、僕、治りますよね。このままつらいことばかり、続くはずがない」

 鳥居は、目を細めていった。

 「そうですよ、立花さん。根気良く治療を続けましょう。そのために、私たちはここにいるんでしょう」

 立花は、肩を落として茫然と鳥居の前に座っていた。

 (そうよ。あなたは、もっと私を楽しませてくれる男よ。だから、こんなことでへこたれてちゃダメ)

 間違いなく、二人はお互いを必要としていた。


 立花が、ふいに鳥居の診察室を訪れたのは、もう秋も深まった十一月の木曜日の早朝だった。柔らかそうなセーターを着て眼鏡をかけた立花の普段着と思われる外観は、鳥居の知る神経質なサラリーマンの彼とは別人のようだった。

 鳥居は胸騒ぎを覚えて、言葉を発することを戸惑った。今日の立花は、どこかおかしい。まず今日は月曜日ではないし、その落ち着いた雰囲気はどうしたことか。いきなり相手にペースを掴まれることを、鳥居は極度に嫌っている。そうなれば脆弱な自我を相手に露呈しないための、理詰めの論陣を張ることができなくなる自分を、鳥居本人がよく知っているからだった。

 「どうしたんですか、立花さん。いつもの診察は月曜だったでしょう。会社をお休みして来られたんですか。生活のリズムを変えることは、けっして病気によくありませんよ」

 いきなり饒舌になった鳥居は、内心焦って立花の顔色をうかがった。立花の表情に特別な変化は見られなかった。ありきたりな挨拶を交わした後、立花は自分のセカンドバッグから、新聞の切抜きを取り出して鳥居に差し出した。


 中央区の郵便局で強盗未遂

 四日午後一時ごろ、中央区の郵便局でピストルを持った男が侵入、職員に「金を出せ」とおどした。職員は現金約百五十万円を、男が出したバッグに入れていたところ、男は「もっと早くしろ」とピストル一発を発射。その際音に驚いた客の一人が床に倒れ、それに気を取られた男に男子職員が体当たりし、数人で取り押さえた後、警察に通報した。

 男は都内に住むパチンコ店勤務、東田厚朗(38)。取調べによると借金で生活が苦しく、遊ぶ金目当てで犯行を思いついたという。


 「この『客の一人』というのは、僕のことです」

 と恥ずかしそうに立花はいった。

 「まさか、情動脱力発作が……」

 鳥居は、先日この患者に発症したばかりの症状が、ショッキングな事件の結末に結びついたことに、少なからぬ興奮を覚えた。

 「仕事で郵便局に行っていたところで、ワケもわからず気を失ってしまいました」

 さらに事件をきっかけに、彼の病気も会社や田舎の両親の知るところとなり、立花は観念して全てを彼らに打ち明けたのだった。会社は彼が想像していたよりも寛大で、立花の実家に近い福岡支社に転勤を命じた。そして一ヶ月の休暇を与え、復帰後は総務職として営業の後方支援をするよう取り計らってくれたという。

 「だから今日は、先生にお別れをいいに来たんです」

 立花は残念そうにいったが、その態度は少しも湿っぽいところがなかった。鳥居は話を聞いている間、無意識のうちに噛んでいた右手親指の爪をあわてて口から離して、

 「残念ですね、今まで営業トップの成績だったのに……これからも、お仕事は続けられるんですか」

 とあてつけのようなことをいった。その言葉自体には立花は反応しなかったが、言った本人である鳥居自身を不快にしただけだった。

 「会社も両親も、最初は僕が病気を隠していたことをひどく責めました。そして、どうして黙って一人で苦しんでいたのか、ナルコレプシーのことを知っていたらこんなに苦しませはしなかった、といいました。

 そのとき僕は、まだ諦めきれない思いがありました。まだ病気を隠し通せたのではないか、仕事も第一線から外され、社会的地位も形無しになることに耐えられるのか、とあがいてばかりいた時期だった」

 鳥居はすでに、今の立花が当時ほど苦しんではいないことを察していた。ただどうしても、彼がこの異常事態を平静でいられる理由を知りたかったので、

 「でも、よかったじゃないですか。仕事を失うこともなかったし、ご実家で生活できるなら精神的肉体的負担も減ります。状況はみんないい方へ向かっているじゃないですか」

 と鎌を掛けてみた。すると立花は言いにくそうに、

 「ただ、女が去っていきました」

 とはにかんで笑った。鳥居は、お付き合いしておられた女性ですか、と聞いた。立花は頷いて、

 「別れたからいうわけではないですが、ひどい女でした。気位が高くて、何でも完璧でないと気が済まない性分で、僕は彼女に従うだけだった。

 たぶん彼女は、僕の学歴とか勤めてる会社が気に入って、付き合い始めたんだと思います。僕は彼女の……たぶん見た目がかわいかったからかな、今思うとどこが好きだったかなんて、思い出せませんよ」

 と自嘲気味にいった。乾燥したような話し方が、その女への愛が過去のものであることを示していた。

 「その女性と別れたのは、病気のことが周囲に知れたからですね」

 鳥居は断定したような口調でいった。立花のもとを去った女性が、自分と性格的に同じ人種であることを嗅ぎ取ったからだ。

 「彼女が、ナルコレプシーのことを知ったとき、まず気持ちが悪い、といいました。それから堰を切ったように、僕への不満をぶちまけだしたんですね。

 優柔不断だとか、田舎者だとか、洋服がイケてないだとか、それはもうありとあらゆる要素を……罵り続けました。あげくのはてには、変な病気をもってるサイコ野郎とはもう付き合えない、とまでいわれましたよ。僕は、ただ黙ってそれに耐えていたんですが、最後に我慢できなくなりまして、『おまえだって、くさいじゃないか』と一言だけ反抗したんです」

 「くさいって、何がですか?」

 鳥居の素朴な質問に対して、「体臭ですよ」と立花は答えた。ああ、と鳥居も納得した。これも多かれ少なかれ全女性の悩みの一つである。

 「いくら外見がよくて口の達者な女でも、こればっかりはどうしようもありません。かなりくさかったんですが、僕はこれまで不満をいわなかった。いや、そんなことは言う必要もないと思っていました。だから、うっかり変な口をすべらせたんでしょうね。

 そうしたら、泣くわ叫ぶわ……もう狂ったようにそこらへんのものを僕に投げつけるんです。殺してやる、とか物騒なこともいってましたし。何だか一方的に僕が悪者になって、別れてしまったんですが。

 その後、僕はたくさんの友達に電話で、ナルコレプシーのことを打ち明けてみました。そうしたら、みんなそれぞれ悩みを持っているんだなあって初めて分かりました。身長が低いこと、太っていること、学歴がないこと、小さな会社に勤めていること、異性と話もできないこと、貧乏なこと……で驚いたことに、みんなそんな悩みと同居して毎日暮らしているんです」

 立花は、それならば自分だけが特別に苦しんでいるのではない、苦しみは形を変えて誰もが抱えているということを知った、と淡々と語った。

 「僕は、もう自分に帳尻を合わせることに疲れてしまいました。こんどの強盗事件で、もう流れに逆らうのはやめにしようと思った。風のゆく手に、光の差すほうに、ただ歩いていこうって、そのなかでベストを尽くせばいいじゃないか、と。先生にいわせれば、これはただの現実逃避に過ぎないのかもしれませんね」

 (行くな、私をおいて一人で先に行かないで)

 鳥居は、虚像を脱ぎ捨てて去って行こうとする立花を、引留めたいと願った。私たち二人にとっては、その虚像こそがすべてなのだと口に出せない自分がもどかしかった。いや、その思い込みにこそ自分は囚われ続けているのだと、認めてしまうことが怖かっただけかもしれない。

 「そうだ。先生に、お礼をいうのを忘れていました。これまで、長い間お世話になりました」

 やや青ざめた表情の鳥居に、立花はぺこりと頭を下げた。

 「お礼だなんて。私は医師として当然の……」

 ことなどは一つもできなかったな、と鳥居は恥じ入るように言葉を切った。

 「とんでもない。この三年間、先生に病気のことを話しているときだけ、僕は素直だったように思います。僕の悩みをただ一人引き受けてくださって、本当にありがとうございました」

 立花の感謝に、鳥居は言葉が出なかった。ただロボットのように、頭を下げただけだった。

 「それから僕、休暇中に『なるこ会』に入ったんです。インターネットで、ナルコレプシー患者を支援する組織があることを知って、患者自身がそれを運営しているところが気に入ったんです。これまで病気について目を背けてばかりいましたから」

 鳥居は、もう立花が自分のところへ戻ってこないことを理解した。そのときわずかに、彼女の心に化学反応のようなものが起こった。

 「立花さん、最近よく夜眠れるようになったんじゃないですか」

 立花は驚いて「その通りです」といった。薬の量も何も変えていないのに、いつのまにか夜ぐっすり眠れるようになってきたのだという。

 「相変わらず、発作は何度も起きているんです。でも最近変わってきたのは、眠くなるという感覚を思い出したことです」

 鳥居は、カルテを書く手を止めて、

 「立花さん、サリンジャーの『エズミに捧ぐ』という小説で、『本当に眠くなる人には、無傷のままの人間に戻れるチャンスがある』という一節があります。あなたは、きっとそのチャンスをつかめる人ですよ」

 といって微笑んだ。立花も笑顔を見せて、

 「やっぱり、先生は名医だ」

 といった。紆余曲折を経たが、初めて二人が本当の医者と患者の関係を築くことができた時間かもしれなかった。

 「『なるこ会』でお嫁さんを見つけてはどうですか、このさい」

 鳥居のあまり上手ではないジョークに立花は、

 「やめてくださいよ。僕に必要なのは、僕を目覚めさせてくれる女性です。一緒に眠ってしまわれては、かないません」

 といった。彼が部屋を出て行ってからも、その言葉は鳥居の心に残っていた。

 (この男は、もう目覚めているのではないか)

 鳥居は、これまであまり気にもしなかった窓の外の景色を眺めた。鮮やかだった木々の緑もすっかり色褪せて、行き交う人々も落ち着いたモノトーンのたたずまいに見えた。

 (それに比べてこの私は)

 鳥居は、愛用の輸入万年筆を掌で玩びながら、次の患者の入室を待っていた。

 「先生、あのう、また笠井様からお電話ですけど」

 しかし入ってきたのは、例の見習い看護婦だった。鳥居はため息をついた。

 (それに比べてこの私は……まだまだ目覚めることができそうもない)

 白衣の皺を気にしながら、この有能な女性精神内科医は診察室を出てゆくのだった。今晩も、睡眠薬なしに眠れそうもない。

                                 終


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