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視界が徐々に晴れていく。
足裏に感じる、心地よいヒンヤリ感。
視界には、馴染みのある石床が飛び込んできた。
無事、迷宮に戻ってこれたようだ。
「……なっ!? 」
それなのに、オニオーは、絶句した。
まず、片膝立ちで跪く、己に。
そして、その周りで頭をたれる、魔衆たちに。
何より、目の前で平伏す高位悪魔に、絶句した。
彼の圧倒的な強者でさえ、片膝立ちの体勢から前傾姿勢をとっているのだ。いや、取らされている、と言った方が良いのか。
床面に浮かび上がった黄金に輝く円陣が、彼の悪魔を縛り付けているようだった。
腕を付いたその左手には、食器が握られたままだ。咄嗟に手首を曲げることで、床に叩きつけられるのを防いだようだ。
流石は、執事である。
「……如何に体が支配されようとも、心は冥王様とともに」
憎々しげな視線と共に、体をワナワナと震わせながら、魔執事が吐き捨てた。
「……そう。……仕方ないわね」
アクヤがそう答えると、指輪から短剣が出現する。
流れるような所作で、刃先を左手の親指に当てると、血が数滴滴った。すーっと、円陣に吸い込まれていく。
「あっ、ああっ……」
瞬く間に、魔執事の目の色が変わった。その表情から怒りが消え、漏れ出る吐息と共に、だらし無く頬を緩ませ身悶え始めた。
「うっ、美しい……」
うっとりそう呟くと、アクヤの左手を取った。
「ひゃっ」
止める間もなく頬擦りをし、指に残る血痕をペロリと舐めた。既に癒えている傷口を名残惜しそうに眺め、嫌らしくしゃぶろうとする。
「ひっ、控えなっ」
カンッ!
アクヤの叫び声に被せるように、シェフが魔執事に殴りかかった。
魔執事はそれを、相変わらずの銀盆で受け止める。
その間も、アクヤの手を離そうとしない。必然、魔執事に引きずられ……なかった。
まるで、ダンスでも楽しむかのように、シェフの攻撃を躱していくのだ。
右に左にステップを刻みつつ攻撃を流していく。時にアクヤを引き寄せ、また、泳がせ、シェフを翻弄していった。
アクヤは、その動きに身を任せる他なかった。
ドッカーーーーンッ!
迷宮に轟く轟音が、ダンスの終わりを告げた。
「ふっ。
何人たりとも、私たちの愛を分かつことはできません」
アクヤを抱きしめながら、魔執事が言う。
吹き飛ばされたシェフは、大の字で壁にのめり込んでいた。
「……あの」
「こっ、これは失礼しました」
胸に抱かれたアクヤが物申すと、魔執事が慌てた様に跪く。
相変わらず、左手から手を離してはくれない……。
「貴方、この私を騙そうとしたのよね? 」
「もっ、申し訳ございません。アクヤが、こんなにもお美しいとは、気付きませんでした……」
「ひゃっ」
見てくれで靡いたような言いっぷりに、不満げなアクヤを、魔執事が制する。
左手への頬擦りを再開したのだ。
そのままの状態で、これまでの経緯を説明する。
上層階が騒がしかったこと。
中層階の死霊ノ王が撃破され、看過できなくなったこと。
冥王、ひいては、魔晶石の意思により、妖精蜂を脅し囮にすることで、騒動の根源の排除に乗り出したこと。
一切包み隠さず、魔執事は語った。
「いい加減、手を離しなさい」
魔執事が名残惜しそうに手を見つめ、そして、そっと離した。
「で、貴方は私に忠誠を誓うのよね」
「もっ、勿論でございます。
この、左手に誓いまして」
魔執事が、ずいっと、左手の甲を突き出してきた。そこには、クレイ公爵家の紋章が刻まれている。
無事、契約が成立したようだ。
「何なりとお申し付けください。身も心も、アクヤ様の意のままに。必要とあらば、床をも共にする所存にございます」
(コイツ、馬鹿だ。ぶっ飛ばされやがれ)
オニオーが、ほくそ笑む。
……。
おかしい。
アクヤが動く気配は無い。
そっと盗み見ると、火が出そうな程顔を真っ赤に染めた我らの女王が、恥ずかしそうに俯き佇んでいた。
(……かっ、かわゆい)
オニオーは、不覚にも、絶句した。
その背後では、壁から這い出した中位悪魔が、自らの手の甲を眺めながら人知れず項垂れていた。




