第92話 強襲!ネクロマンサー
「集え!死霊ども!!」
ネチェレトの呼び声に呼応し、宙を埋め尽くすほどの霊が僕とヘイゼルを狙うように集結し始めた。月明かりを覆いつくすほどの悪霊の大群は、見るものに底知れぬ恐怖と絶望感を募らせる。この数を使役できる死霊使いは、世界広しと言えどそう多くはないだろう。
「下がってなさい、ジル。コイツは私一人でやるわ」
「何言ってんだヘイゼル、相手は親衛隊だ。二人がかりの方が良いに決まってるだろ」
「そう?なら、あの悪霊を斬ってみくれる?」
「え?」
意味の分からない質問と共に、ヘイゼルはいきなり僕の背中を蹴飛ばした。
「うおっ!?」
完全な不意打ちを喰らい、僕はみっともなく地面に倒れこんだ。そうして隙だらけになった僕の命を狙うかのように―――一匹の悪霊が宙から舞い降りて来た。
「くそ!」
僕は反射的に剣を抜き、迫りくる悪霊を真っ二つに切断した。
した、つもりだったのだが――――僕の剣はまるで空気を斬ったかのように、スルリと悪霊の体をすり抜けてしまった。
「斬れない!?」
「はい、アグニル」
僕の眼前に迫った悪霊を、間一髪のところで焼き殺すヘイゼル。その平然とした彼女の横顔を見て―――僕は彼女の心理をようやく理解した。
「実体をもたない悪霊には、物理の攻撃が通用しない。アンタと死霊使いは、致命的に相性が悪いのよ」
分かってもらえたかしら?と、ヘイゼルはいたずらに微笑みかけて、倒れこむ僕に手をかした。
「べ、勉強になりました‥‥」
「それを知ったところで―――この数の悪霊を相手に勝ちの目があるのかしら?」
一連のやりとりをつまらなさそうに見ていたネチェレトは、挑発するかのようにヘイゼルへ言い放った。その問いかけに、ヘイゼルは堂々とした答えを用意した。答えと言っても言葉ではなく――――行動で、だけれど。
「爆ぜろ、アグロボス」
空を埋め尽くす大量の悪霊を見上げて、ヘイゼルはそう口にする。その瞬間、彼女の杖の先端から小さな火の玉がゆるやかに放たれた。
「馬鹿が、そんな小さな火で何が―――」
ネチェレトが言葉を紡ごうとした瞬間、突如として空で巨大な爆発が巻き起こった。いや、爆発なんてレベルではない、周囲の建物がまるごと消し炭になるほどの大爆発だ。上空に放たれたから良かったものの、高度がもう少し低ければ―――僕たちも無事では済まなかっただろう。
「アタシの悪霊を、一瞬で‥‥?!」
空を見上げても、もうどこにも悪霊はいない。夥しい数で溢れかえっていた悪霊たちは、ヘイゼルの魔法によって一瞬で死滅してしまったのだ。
「まだ開発中の魔法だけど―――悪霊を消し飛ばすには充分すぎたみたいね」
「面倒だ、お前は後でゆっくり痛ぶってやる」
「後で?そんな悠長なこと言っている余裕があるのかしら?」
「ふふ、その様子だとお前は―――まだ周囲の状況を理解できていないようだな」
不敵に笑うネチェレト。しかし、どれだけ周囲を見渡してもおかしなところは見当たらない。
「気にすんなヘイゼル!どうせ悪霊がやられたことが悔しくて強がってるだけだ!」
「いや―――どうやらただの強がりじゃないみたい」
「え?」
「ジル‥‥」
突如として背後から僕を呼ぶ声が聞こえた。慌てて振り返ると、そこにはパーリが立っていた。そして彼女の首元では―――悪霊が鎌を突き立てていたのだ。
「パーリ!?どうして外に―――!」
「動くな、神獣殺し。それ以上勝手に動けばすぐにでもその女の首を刎ねるぞ」
「くそ、人質かよ‥‥!」
「その女だけではない、この町に居る全ての人間の首元に私の悪霊は潜んでいる。実体のない悪霊は建物の壁をすり抜け、ベッドで眠る女子供ですら容易に手をかけることができるのだ」
「私がその気になれば、この町の人間全員の首を今すぐにでも斬り落とせるし―――死んだものを悪霊として使役することも可能だ。どうだ、お前達の置かれている状況がどういうモノか、よく理解できたか?」
最悪の状況だ。たった一瞬にして―――いや、最初から僕たちは詰んでいた。このハビンに居る全ての命が、ネチェレトの人質。いくらヘイゼルが強くても、この町に潜んでいる全ての悪霊を一瞬にして全て殺すことはできない。
「そこの魔女、杖を捨てろ」
「・・・はいはい」
ヘイゼルは命令されるがまま、自らの杖を地面に置いた。その瞬間、彼女の首元にも悪霊が姿を現し、首元に鎌を近づけた。
「ふん、これで邪魔は入らないな」
「お前の望みは何だ‥‥?」
人質をとるということは、何か交渉をしようとしているに違いない。虐殺が目的なら、こんな回りくどい方法を取る必要なんてない。まぁ、彼女が生粋の愉快犯なのであれば話は別だが。
「隊長を殺したヤツをぶっ殺すこと。そのためだけに、私はこの場所へ来た」
「‥‥」
「私はハビンとの戦いには参加していなかった。だから隊長が誰に殺されたのかは知らない―――だが、あの戦場で散った悪霊たちが教えてくれたんだ。メリアメン隊長を殺したのは砂塵の牙のリーダーたち、そして―――神獣殺しの少年だって」
憎しみに溢れた眼で、ネチェレトは僕を睨みつけた。
「決闘だ、神獣殺し!お前の首元には悪霊はいない、隊長を倒した時と同じように全力で挑んで来い。お前の死体をサン・クシェートラに持ち帰れば―――少しは彼も浮かばれるだろうさ!」
「!」
まずい‥‥何か来る!!
「よけてくださいジル様!」
「分かってるよッ!」
エイミーに指図されるまでもなく、僕はネチェレトから距離を取るようにバックステップした。それとほぼ同時に、僕が立っていた地面から無数の悪霊たちが飛び出した。あと少し判断が遅ければ、今頃僕は爪先から脳天まで悪霊どもに喰らいつくされていただろう。
「ジル様の鎧はある程度の攻撃なら受け流すことが可能ですが、相手は実体のないゴースト。恐らく鎧すらも通り抜けて容易く生身に攻撃してくるはずです!」
「厄介過ぎる‥‥!」
「剣も鎧も、アタシの術の前には意味をなさない。どうあがいても拭えぬ絶望に苦しみながら、無様に死ぬがいい!」
「エイミー!何か手は!?」
「そんなのある訳ないでしょう!自分の実力分かってます!?」
「わ、分かってるけどさ!」
僕の力だけじゃ勝ち目がないのは分かり切っている。だが、人質をとられていては、おめおめと逃げ出すこともできない‥‥!
「距離をとっていても埒があきません!突貫しましょうジル様!悪霊を倒せないなら、術者である女を直殴りすればいいんです!」
「そうか!頭いいなエイミー!」
そうだ、初歩的過ぎて忘れていた。死霊使いや召喚士のような使役系のジョブと戦うときは、真っ先に術者を潰すのが常套手段だった。どれほど強力な使い魔を使役していても、術者を押さえてしまえばどうにでもなる。
「行くぞッ!!」
大地を蹴り、一直線にネチェレトの元へと距離を詰める。しかし、僕の行く手を阻むように悪霊の群れが鋭い爪や鎌を武器に襲い掛かって来る。多少の傷は我慢するしかない、とにかく最速最短で斬り込んで―――一撃で終わらせるんだ。
「くっ!」
だが―――あまりにも数が多い。僕の運動能力で回避できるのにも限界があった。ネチェレトに一歩近づくにつれて、体中に生傷が増えていく。主を守ろうとする悪霊どもが、攻撃の激しさを増しているのだ。
「エイミー!バックアップ頼む‥‥!」
「言われなくてもさっきからずっと治癒魔法かけ続けてます!そうじゃなければ今頃ジル様は血まみれの死体になって転がってますよ‥‥!」
今だって血まみれだ。幸運なことにまだ死体にはなっていないが―――それも時間の問題かもしれない。
「回復はもういい!俊敏さが欲しい‥‥!スピードを上げられないか?!」
「カインさんレベルとはいきませんが、風の加護なら私でも扱えます!ですが、回復の手を止めれば、ジル様の体力が―――」
「頼む!やってくれ!」
滅茶苦茶怖いけど、他に方法はない!
「もう‥‥!絶対死なないでくださいね!」
投げやりな様子のエイミーが、そっと僕の肩に手を触れた。その瞬間、まるで魂だけが肉体から抜けてしまったかのように体が軽くなった。しかし、その代償としてエイミーの回復の手が止まり―――僕の体には凄まじい勢いで悪霊たちからの傷が刻まれていった。鋭い爪や牙、そして死神の如き悪霊の鎌が肉体をかすめる度に、叫びたくなるような痛みが全身を駆け巡る。意識が飛びそうなほど辛い‥‥だがこの速度ならいける!!
僕は圧倒的なスピードでネチェレトへと一気に距離を詰めた。その距離、実に3m―――近接戦闘を得意としない死霊使いにとっては致命的な間合いである。
「はあああ!!」
高く振り上げた刃を、力いっぱい振り下ろす。相手は格上‥‥致命傷を避ける余裕なんてない。
「フフ、舐められたものだ」
しかし―――そんな身の程知らずの僕の心配は、ただの杞憂に終わった。あろうことかネチェレトは、涼しげな顔で僕の剣を素手で受け止めてしまったのだ。
「嘘だろッ‥‥!?」
「貴様の動きは悪くなかった―――そこらの死霊使いなら今の一撃で勝負はついていただろう。だが生憎と、アタシはクヌム王に認められた一流の死霊使いだ。自らの弱点を補う術くらい、いくらでも用意してある!!」
「身体強化系の魔法か‥‥!ジル様!はやく距離を取ってください!!」
「逃がすか!!お前はすでにアタシの間合いに居るんだよ!!」
ネチェレトはジルの剣をぐいっと引き寄せ、力いっぱい彼の腹部へ正拳突きを炸裂させた。
「ごばッ‥‥!!」
ネチェレトの拳が触れた瞬間――――めきめきと砕ける肋骨と、張り裂ける内臓の気持ち悪い感覚が同時にジルを襲った。彼女は身体強化の魔法によって、自らの筋力を何十倍にも強化していた。彼女の突きは、もはや人間のそれではなく巨人の一撃。ネチェレトは近接戦に持ち込むため、ジルをあえて自らの近くへ誘い出したのだ。
「もう一発!」
痛みに喘ぐ今すら与えず、ネチェレトは続く第二撃を繰り出した。
「がはッ!!」
大量に血の混じった吐瀉物が湯水のごとく逆流し、身の体に風穴が開いてしまったのではないかと錯覚するほどの激痛が全身を駆け巡っていく―――やばい、死にそうだ。
「ジル様!!」
「もう見てられない―――!アグニ‥‥!」
「―――待って」
早まろうとしたエイミーとヘイゼルを、僕は消え入りそうな声で制止した。ヘイゼルがネチェレトに手を出してしまえば、人質の命が危険にさらされる。それだけは‥‥絶対にダメだ。
「何言ってんの!?アンタもう死にかけじゃない‥‥!」
「いいから‥‥お願いだ‥‥」
「もはや立っているのも辛いだろう?早くその剣を離せ、さもなくば貴様本当に死ぬぞ?」
ネチェレトは僕の剣を握ったまま決して離そうとしない。だが、僕もこの剣を手放すわけにはいかない。剣を手放してしまえば、僕は同時に最後の希望を手放す羽目になる。
「―――答えは無し、か。ならば望み通り死を与えてやる!!」
今度は正拳突きではない、手刀だ。想像を絶する破壊力を持つ彼女の腕は、無慈悲に僕の首元へ振り下ろされた。その衝撃は周囲一帯の窓ガラスを悉く吹き飛ばし、人間の体を真っ二つにしてしまうほどの威力を誇った。だが――――。
「‥‥!?」
僕はまだ、どうにか二本の足で大地を踏みしめていた。
「この剣だけは――――死んでも離さねーよ」
「馬鹿な!まだ立っていられるのか!?」
僕だって何で自分が立っていられるのか不思議だ。体全身の感覚は痛みに支配されてほとんど感じないし、気を抜けばすぐに吐血するし―――もう死んでいるんじゃないかと錯覚してしまうほどだ。だけど僕はまだ‥‥確かに生きている。
「はッ!!」
動揺するネチェレトの隙を突くように、ジルは回し蹴りを超高速で繰り出した。しかし相手は親衛隊。咄嗟に両腕を組み、決死の一撃はガードされてしまう。だが、その瞬間彼女はジルの剣を離してしまった。
「!!」
ようやく自由になった剣で、ジルは再びネチェレトを一直線に斬り伏せる。身体強化の魔法を使用している彼女の体を矮小なジルの攻撃で傷つけることはできない。そのはずだったのだが――――ジルの剣が触れた彼女の両腕からは、夥しい量の血が溢れていた。
「死にかけの癖に、アタシの腕を斬りやがった―――?!」
「ハァ‥‥ハァ‥‥まずは一発‥‥!」
良く分からないが、さっきは斬れなかったヤツの体を今になって斬ることが出来た。身体強化の魔法を解除したようにも見えないが‥‥今なら僕の攻撃も通用するのか?
「だが―――がっかりだな。決死の一撃が、腕にかすり傷を負わせる程度とは」
「ハァ‥‥ハァ‥‥」
「メリアメン隊長はこんな雑魚に負けるような男じゃない。お前‥‥まだ何か隠しているだろう?早く全力を出せ。隊長を殺した技で、このネチェレトを殺して見せろ!」
「‥‥」
隠している訳ではない。ネチェレトの言う通り、僕には原種の力という強力無比な切り札がある。だが、その力を今の体力で使ってしまえば、僕は僕のままでいられる自信がない。自我を失ってエイミーたちに危害を加えたり、イヴとかいうこの体の持ち主を呼び起こしてしまう可能性だってある。
だが、このままでは僕は間違いなく殺される。皆を救うには僕は―――僕はいったいどうすればいい‥‥?
「やってみなさい、ジル」
「ヘイゼル‥‥?」
「もしアンタの力が暴走したら、その時は私が何とかしてあげるから」
そう言って彼女は強く、優し気に微笑んだ。そんな彼女の表情を見た瞬間―――僕の脳裏にこびり付いていた余計な疑念は、嘘のように溶けていった。
「‥‥ありがとう」
「何をブツブツと話している」
「別に何も―――ただ、お前を倒す算段がついたってだけだ」
「ははははは!何を言い出すかと思えば、アタシを倒す算段がついただと!?ようやく本気を出す気になったか‥‥いいだろう!」
「貴様は特別にアタシのとっておきで殺してやる!!」
ネチェレトは興奮した様子で、自らの血を利用して地面に召喚陣のようなものを描いた。
「起きろ、プライド・ファントム―――しばしの間、お前を現世で暴れさせてやる」
彼女に呼応するように、召喚陣が紅く光りを放ち始めた。大気が震え、空気中の魔力が召喚陣の中央に吸い寄せられている。何を呼び出すつもりかは知らないが‥‥途轍もなく厄介な存在が姿を現そうとしているのは間違いない。
「‥‥」
原種化を相手が待ってくれる保証はない。僕は静かに胸に手を当て、原種の力を緩やかに解放し始めた。一気にギアを上げては体がもたない、丁寧に、慎重に、内なる悪魔を呼び起こさないよう集中する。次第に剣は大太刀へと変化し、僕の肉体も原種のそれへと変貌を遂げた。
「―――よし」
「何をボーっと突っ立っている?戦いはもう始まっているぞ?」
「っ!?」
ネチェレトがそう言い放った瞬間のことだった。まるで見えない何かに殴りつけられたように、ジルが途轍もないスピードで吹き飛ばされた。
「ジル様!?そんな、いきなりどうして‥‥?!」
「プライド・ファントムは不可視の悪霊―――ヤツの剣では斬れないばかりか、その姿を捉えることすらできないのさ!!」
悪霊という性質上、純粋な物理攻撃ではダメージを与えることができない。さらには相手の動きが見えない故に、攻撃を回避することも命中させることも不可能。親衛隊ネチェレトが誇る最強の使い魔―――それがこの不可視の悪霊、プライド・ファントムと呼ばれる存在なのである。
「膨大な魔力は何となく感じる‥‥でも、揺らぎがひどくて位置までは探知できない‥‥」
「無駄な考えはやめときな、魔女。貴様がいかに優れた魔法を扱えようが、当てることができなければ意味はない」
「だがまぁ、当たるまで試すというのも一つの手だな?この町が火の海と化すのが先か、貴様がファントムを仕留めるのが先か‥‥それはそれで面白い見世物だ」
ヘイゼルの思惑を見透かし、嘲笑うかのようにネチェレトは吐き捨てた。
「不可視の怪物―――なるほど、そういうことだったのか」
瓦礫の山をかき分けて、原種化したジルが軽快な足取りで舞い戻って来た。完全なる不意打ちだったというのに、その体には傷一つ見当たらない。
「ほぉう、その魔族の力が神獣殺しの真実ってワケか‥‥確かに桁違いの魔力を感じるな。だが、ファントムを見ることも斬ることもできぬ貴様に勝ち目はないぞ」
「ファントムってのは、このデカい化け物のことか?」
「なに‥‥?」
「さっき殴られた時は見えなかったけど――――今ではそのブサイクな図体が良く見えるぞ」
プライド・ファントムとか言ったか?巨大な蛇の下半身に屈強な戦士の上半身、顔面には巨大な目玉が一つだけ。‥‥なんだか悪霊というよりも神話の怪物のような姿形をしている。全長は20mくらいはあるだろうか。
「た、叩き潰せファントム!仮に姿が見えていたとしても、ヤツにお前は殺せない!」
けたましい叫び声を上げながら、巨大な悪霊が再びジルへと襲い掛かる。絶望的な状況下であるというのに―――ジルはぼーっとした表情のまま、面倒そうにファントムを見上げていた。
「―――いけそうだな」
僕は大太刀を天高く掲げ、一直線に振り下ろした。実体を持たないファントムに、純粋な物理攻撃は通用しない。本来なら、するりと空振りするはずなのだが―――刃は怪物の体を真っ二つに斬り裂いていた。
モノを斬ったという物理的な感触は無かった。あったのは何かを殺したという直感的な感覚だけだ。ファントムの肉片は禍々しい光と共に霧散してしまい、もはや見る影もない。残されたのは切り札を失って呆然と立ち尽くす術者のネチェレトだけだ。
「プライド・ファントムを一撃で―――?あり得ない‥‥だって、そんな‥‥」
「・・・」
「貴様の剣は肉体だけでなく、魂をも滅ぼし尽くすというのか?!」
「そんなこと、僕が知ってるわけないだろ」
切り札を破られ、隙だらけになった今が好機だ。僕は一気にネチェレトへ距離を詰めると大太刀の柄で彼女の項を小突いて気絶させた。術者が無力化されたことにより、町全体に蠢いていた悪霊たちの気配が消えていく‥‥。人質が犠牲になるという最悪の結果は、どうにか避けることができた。
後は、この女の首を刎ねれば全て解決だ。
「・・・」
はやく。
今すぐに。
早急に―――殺さなきゃ。
「お疲れ様、ジル」
ポン、と温かな手が冷たい僕の手に触れた。ふと後ろを振り返ると、そこには僕の眼を真っ直ぐに見つめるヘイゼルの姿があった。
「‥‥ヘイゼル」
「ええ、私よ」
ヘイゼルか。
何だか、とても、久しぶりに会った気がする。
「待ってて、すぐこいつを殺すから」
ヘイゼルは大切な仲間だ。
彼女を殺そうとしたこの人間を‥‥生かしておく訳にはいかない。
「殺す――ね。私の知ってるジルは、そんな物騒なセリフ言いそうもないんだけど?アンタ、誰?」
「誰って‥‥」
そんなもの決まっている。僕は――――俺は、イヴ。今更問いただされることでもない。
「違う‥‥僕は‥‥」
僕は。
僕の、俺の。
名前は、いったい――――何だったっけ。
「戻って来なさい、ジル。アンタは、悪魔に魂を呑まれるほどヤワな奴じゃない。世界を救う勇者様でしょう?」
「!」
ヘイゼルの言葉が鼓膜を通り抜けた瞬間、溶けだすように原種の力が抜けていく。気が付けば、ジルの体はいつもの人間状態に戻っていた。
「・・・ヘイゼル」
「何かしら?」
「僕、今なにか喋ってた?」
何故だかここ数分間の記憶がない。ネチェレトを倒して、それで――――。
僕はいったい、何をしようとしていたんだっけ?
「別に何も話していないわよ。アンタずっとぼーっとしてたじゃない」
「そ、そうだっけ」
「そうよ?それより、どうすんのよコイツ」
ヘイゼルは心底面倒くさそうな顔で、足元に転がるネチェレトを指さした。
「この親衛隊は―――殺さない」
恐ろしい力を持った彼女をここで始末すれば、王国軍は大きな戦力ダウンになる。親衛隊の死は士気の低下にもつながるだろうし、こちらとしては良いことづくめかもしれない。でも、ネチェレトは結果的に誰も傷つけなかった。
彼女の力なら、わざわざ姿を見せずとも僕たちを奇襲して皆殺しにすることもできたはずだ。だというのに、彼女は僕との決闘の身を望んだ。復讐心に苛まれても、関係のない人々を手にかけるという選択は選ばなかったんだ。
彼女のその気高さに、僕は報いたい。
「ま、アンタがいいならそれでいいんじゃない」
「あれ?何かヘイゼルちょっと笑ってない?」
「待ってくれジル、ネチェレトはここで殺しておくべきだ」
鋭い針のような声色で、パーリが僕に反論した。
「親衛隊が我らが軍勢に及ぼす被害は計り知れない‥‥明後日の作戦を成功させるためにも、彼女にとどめを刺すんだ」
「ネチェレトは戦争をするためにここへ来たんじゃない、僕との決闘のためだけに乗り込んできたんだ。殺す必要はないよ」
「だが‥‥」
そこまで言いかけて、パーリは口をつぐんだ。
「見逃すのはこの一度きりだけだ。もし次戦場で会うことがあれば、その時は僕も覚悟を決めるさ」
パーリの指摘通り、ネチェレトの力はサン・クシェートラへの侵攻で脅威になる。同じ親衛隊であるヨミと同じく、彼女の力は最優先で警戒するべき事柄だろう。だが、ここで身動きもできない彼女を殺すことだけはしたくない。
「その言葉、信じているからな」
そう言って、パーリは部下を2,3名呼びつけてサン・クシェートラの近くにネチェレトを送り返すよう指示した。夜が明ければ、きっと彼女は目を覚ます。もし起きなくても通りがかった通行人が、然るべき行動をとってくれると信じたい。
~サン・クシェートラ王国・近郊~
「‥‥‥‥ん‥‥」
気持ちのいい日の出を体全身に浴びて、ネチェレトは郊外の涼しげな木陰で目を覚ました。体の上には一枚の毛布が優しくかけられており、ご丁寧に魔物除けの護符まで握らされている。昨晩、アタシは力を解放した神獣殺しにプライド・ファントムともども敗北した。敗北したハズだ。
「どうなってる‥‥」
身ぐるみを剥がれるどころか、傷一つ見当たらない。心の底からあり得ないが、この状況で考えられる可能性は一つだけだ。
「―――命までは奪わない、か」
ふざけた連中だ。ただの一兵卒ならともかく、親衛隊であるアタシの身柄を拘束や拷問にかけるでもなく、そのままサン・クシェートラにまで送り返すなんて。思わず心配になってしまうほどの愚かさだ。
だが―――その愚かさに、アタシは救われた。
「この借りは必ず、血を以て返すとしよう―――神獣殺し」