第75話 生贄の少女と大蜥蜴
「おっしゃ全員揃っとるなぁ~?まだ陽も登りきってない早朝やのに叩き起こして申し訳ない、アカネちゃんの笑顔に免じて許してや~!」
にぱー!と笑うアカネさん、もといアカネちゃん。現在時刻は午前4時字を少し回った頃、砂漠と言えどもまだまだ周囲は暗く―――ひんやり気持ちのいい風が吹いている。アカネさんに叩き起こされなければ、さぞ気持ちのいい目覚めを迎えることができただろうに‥‥。
「ほんまはもっとゆっくりしとっても良かってんけどな――――ちょっと事情が変わってしもた。段取りは歩きながら話すわ、とりあえずピレトスに跨ってバシィっとウチの後ついて来てな」
「事情が変わったって‥‥なんか不吉ですね。トラブルでもあったんですか?」
地面を蹴ってピレトスの背に飛び乗りながら、僕は落ち着かない様子のアカネさんに問いを投げてみた。アカネさんのことだ‥‥大した返事は期待できないが聞かないよりはマシだろう。
「べべべべ別にトラブルなんかあらへんよ!?急な予定変更なんて旅行先ではよくあることやし、一切問題無しや!分かったな!?よし、分かったらさっさと行くで!時間は有限、無駄に浪費すんのはアホのすることや!」
「なるほど、何かトラブルがあったということはよく分かりました」
彼女のボロが出まくりの慌て方から察するに、一刻も早くこの砂漠を抜けなければならない理由が突如として発生したのは間違いないようだ。問題発生という展開そのものはよろしくないが、早々に砂漠から立ち去ることができるというのはこちらとしても好ましい。
僕はそれ以上アカネさんに追及することなく、彼女に続いてまだ陽も昇っていない静かな砂漠へと一歩を踏み出した。
「・・・」
休息所を発ってから約1時間が経過した。移動のスピードも上げているし、かなりの距離を進んでいるはずなのだが―――一向にゴールが見えてこない。360度どこを見渡せども周囲は殺風景な砂の世界が広がっている。本当にこの砂漠に終わりがあるのか不安になってしまうほどだ。
「暇だなぁ」
同じ景色を見続けるのにもいい加減飽きてきた。アカネさんは険しい顔のままだし、後ろにいるヘイゼルに話しかけようにも昨夜の件で何となく気まずいし。こういう時、エイミーが近くに居たら少しくらいは気が紛れるんだけどな。
「チッ、こんなトコで出くわすなんて最悪や――――止まれ、テラーホーン!」
黙りこくっていたはずのアカネさんが愚痴を吐いたかと思うと、唐突に足を止めた。彼女の号令に影響されたのか、僕たちが騎乗しているピレトスもピタリと動かなくなってしまったようだ。
「どうかしたんですか?」
「アレ見てみ」
アカネさんに促されるまま前方を確認すると、そこには巨大な祭壇のようなモノに祈りを捧げる大勢の人間の姿があった。
「なんか人がいっぱいいる‥‥けど、おかしいな。さっきまであそこに祭壇なんて無かったはず」
1時間以上まっすぐ前を向いて歩いて来たが、あんな数十もある巨大な建造物なんて一切確認できなかった。あのサイズなら遠くからでも簡単に視認できたはずだ。それなのに―――この祭壇は、一切の前触れなく突如としてその姿を現したというのか。
「‥‥魔物除けの結界よ。外敵から姿を隠すため、結界内の対象を“そこに存在しないもの”として周囲に認識させるの。一定の距離まで近づかなければ姿を視認することすらできないわ」
ヘイゼルは僕の疑問に対する答えを淡々と口走った。
「そういうことや、今あそこでは神聖な儀式が行われようとしている。よそもんが近づいたら何されるか分かったもんちゃうで」
「あの人たちは何なんですか?」
「この大砂漠を支配する砂塵の王国――サン・クシェートラの民や。その辺については追々話したるから、今はとにかく迂回すんで。見つかったらちょっと面倒なことになるからな‥‥」
アカネさんの乗るテラーホーンがぐるりと進路を変更する。僕はなるべく音をたてないように細心の注意を払ってその後に続いた。面倒事は絶対に避けたい、抜き足差し足忍び足でこの場を立ち去るとしよう。
「なんかヤバイ部族のヤバイ習慣を覗き見ちゃった気分だ」
「ヤバイヤバイしか言ってないじゃない‥‥」
コソコソと小声でヘイゼルは呆れるように呟いた。
「仲ええのは分かるけど、お喋り厳禁やでお二人さん。連中に感づかれたら砂漠渡るどころの騒ぎや無くなるからな。頼むから静かにしてや」
「え‥‥」
なにそれ怖い。サン・クシェートラって完全にヤバイ王国じゃん‥‥。
「魔力の波長を抑える魔法をかけるわ。気休めにしかならないけど―――無いよりはマシでしょ」
「ありがとう、ヘイゼル」
息を殺し、ゆっくりと迂回ルートを進む。遮蔽物の無い環境だ‥‥少しでもヘマをすれば一瞬で僕たちの存在がバレてしまう。結界を張ってまで見られたくない儀式なんだ、もし捕まりでもすればどんな目に合わされるか分かったもんじゃない。
「もう少しや―――辛抱してくれよ」
アカネさんは消え入るような声で、慎重に歩を進めるテラーホーンをなだめた。
もう少し、もう少しで‥‥。
「ッウァァ!!!」
「!?」
静寂に包まれた空間に、何者かの締め出された叫び声がこだました。
「あー、びっくりした!!階段から落ちる夢を見てつい叫んでしまいました‥‥」
そしてその声の主が、あのポンコツ妖精だと気が付いた瞬間。僕の怒りは頂点に達した。
「ばか!!エイミーお前!!」
「何やってくれてんだよボケ!アカネさんの話何も聞いてなかったのか!?」
「はい、だって私――さっきからずっと寝てましたから!」
「ドヤ顔で言うんじゃねえよぶっ飛ばすぞ!!」
今までの苦労が水の泡じゃないか!!!
「ちょ、ジル静かに―――!」
「うっせぇリリィ!エイミー寝てたんなら起こせよキミも!!」
「だって仕方ないだろ!?あんなに気持ちよさそうに眠っているのを無理やり起こすなんて‥‥!」
それは、あまりに突然の出来事だった。
「助けて―――――誰か!!!」
耳をつんざくような何者かの悲鳴が、僕たちの会話を遮るように―――突如として大砂漠中へと響き渡ったのだ。
「何だ今の声‥‥?」
祭壇の方から聞こえたような‥‥。
「滅茶苦茶やんけ、クソ。よし‥‥こうなったら隠れんぼはもうお終いや!全員全力でダッシュ!とにかく走れ!!」
「待ってくださいアカネさん!いま悲鳴が―――!」
「関係あるかいそんなもん!ウチは面倒事はごめんや、気になるんやったら一人で行ってき!」
「はい、そうします!」
「は!?ちょ、マジか!?」
僕はピレトスから飛び降りると、祭壇の方へと走り出した。どこの誰の声かは知らないが‥‥助けを求めている相手を無下にはできない。困っているなら、手を差し伸べてあげないと‥‥!
「めんどくさいなホンマに‥‥!誰か!どついてでもアイツ連れ戻せ!」
「ああなったら止まんないわよ、ジルは」
「せやから力づくでも連れ戻すねん!!今あっこに行くのんはマズい、彼まで一緒に喰われてまうで‥‥!」
「あれは――――」
一目見ただけで、僕は完全に状況を理解した。
ひと際高い祭壇へと縛り付けられている一人の少女―――アレは間違いなく生贄だ。悲鳴を発したのもきっと彼女で間違いない。
「神様に命捧げるとか―――悪習にもほどがあるだろ‥‥!!」
僕は盲目的に祈りを捧げる人々を押しのけて、祭壇へと一気に駆け出した。
「くそ、どけよ―――!」
祈りに夢中になっていて、僕がどれだけ押そうがまったく人々は気にしない。だが数が多すぎる‥‥だだっ広い砂漠で満員電車状態とか意味分からねぇ‥‥!
「はぁ、はぁ‥‥!」
肩で息をしながら、僕は祭壇へと続く階段を駆け上がる。そしてようやく―――もみくちゃになりながらも、僕は何とか生贄の横たわる祭壇へと辿り着いた。
「大丈夫か、キミ‥‥」
「―――は、はい」
少女は目を丸くし、心底驚いた様子で僕を見上げている。本当に助けが来てくれるなんて思ってもみなかった―――と言ったところだろう。
「ごめん、折角助けに来てもらったのに悪いんだけど‥‥早く私から離れた方がいいと思う」
「それはキミを安全なところまで連れて行ってからだ」
こんなカルト集団みたいな連中のところに少女一人を置き去りにできるはずがなかった。どれだけ神聖な儀式かは知らないけど、こんな物騒な真似は見過ごせない。
「いま鎖を解いてやる、じっとしてくれよ」
僕は剣を抜き、少女の身動きを封じている鋼鉄を一撃で切り裂いた。
「これでよし‥‥さ、立てるか?」
「立てるけど――――」
少女は心配そうに周囲を見渡しながら、恐る恐る僕の手を取って立ち上がった。華奢な体には鎖の跡が痛々しく刻まれている‥‥相当長い時間をこの灼熱の太陽の下で拘束されていたに違いない。
「とにかく逃げるぞ!」
ここから先はノープランだ。ひとまずはアカネさん達に合流して、全力で逃走するしかない‥‥!
「賊が、上がりこんだか」
しかし―――この場から侵入者を逃がすまいと、背後から野太い男の声が聞こえた。
「誰だよ、アンタ」
振り返るとそこには、2mほどの体躯を誇る男が冷たい瞳で僕を見下ろしていた。鍛え上げられた肉体や右手に握られた槍のような武器から推察するに、衛兵か何かだろう。
「親衛隊長‥‥!キミ本当に殺されるって!私のことはいいから早く逃げて!!」
少女は僕の身を案じ、今すぐ逃げろと必死に叫ぶ。親衛隊長か‥‥確かに強そうな響きだが、それだけでは僕が逃げ出す理由にはならないな。
「生贄とか捧げものとか、そういうの時代遅れだからやめた方がいいんじゃねーの」
「賊に語る言の葉は持たぬ、去らぬというならここで死ぬがいい」
来る!!
「ッ!」
親衛隊長と呼ばれた男は眼にもとまらぬ速さで僕の心臓を貫かんと槍を穿つ。
「くッ!!」
咄嗟に剣で攻撃をガードするが―――その一撃はあまりにも重すぎた。
「受け止め切れない‥‥!?」
衝撃を完全に殺し切れず、僕は祭壇の下へと軽々と吹き飛ばされてしまった。
「いてて‥‥」
何て威力だ、クソ。片手で軽く突いただけでこの衝撃かよ‥‥いきなり全力で攻撃されていたら絶対に即死だった。
「とにかく上に戻らないと――――ん?」
祭壇へ戻ろうと上を見上げた瞬間、視界に衝撃的な光景が飛び込んできた。
「ちょ、やば!受け止めてえええ!!」
生贄の少女だ、彼女も祭壇から蹴落とされたのか―――高速でこちらへ落下してきている!
「くッ!」
僕は痺れる両腕に鞭打って、なるべく痛くないように彼女を受け止めた。いくら少女といえども相手は数十kgの質量をもつ人間、それが10m以上の高さから勢いよく落ちてくるのだ。当然―――僕の体全身に駆け巡る衝撃は想像以上のものだった。
「あ、ありがとう―――大丈夫?」
「なんとか‥‥」
そっと彼女を降ろし、再び祭壇を見上げてみる。するとそこにはこちらを見下ろす親衛隊長の姿があった。
「喜ぶがいい。太陽の威光を受ける価値のない賊風情が、サン・クシェートラの礎として死することができるのだからな」
そう言い残すと、男は祭壇から姿を消した。
「おい待て!どこへ行くんだ!」
「無駄だよ‥‥この穴に落とされたら、もう二度と生きて出られない」
心底絶望したような声色で、少女は呟いた。
「ここは生贄が太陽の贄として死ぬ場所、アバジャナハルの間だよ」
「あ、あばじゃな‥‥?どういう意味?」
「アバジャナハルだよ、知らないの?太陽の御遣いにしてサン・クシェートラの神獣、生贄を喰らう聖なる存在――この儀式の主役みたいなものだね‥‥」
「生贄を喰らう‥‥?」
ということは、つまりこの場所は―――。
「ォォォォォォォ‥‥!」
突如として―――大地の揺れと共に、不気味な唸り声が地中より鳴り響く。
「何だ…!?」
砂漠の下で何かが‥‥巨大な何かが這いずり回っている。
「ああ、偉大なる太陽の御遣いアバジャナハル!その美しき姿をどうか私達にもお見せください!」
「輝かしきサン・クシェートラの守り神‥‥まさかこの目で見れる日がこようとは!!」
「太陽に光あれ!デンデラの大蜥蜴、砂漠の支配者に小麦色の生贄を!!」
祭壇の方から、祈りを捧げる人々の大爆発のごとき歓声が聞こえてくる。穴の底に居る僕にも熱気が伝わってくるほどの興奮具合だ―――上の状況は壮絶なものだろう。
そして――――。
「グゥゥゥゥゥゥゥ‥‥」
観客の声援に応えるかのように、遂に神獣が地中深くよりその御姿を現した。
「‥‥嘘だろ‥‥」
蜥蜴だ。巨大な、あまりにも巨大な蜥蜴のような魔物が僕たち二人をギョロギョロとした目玉で見つめている。体長約30m、尾まで含めると40mは超えるに違いない。触れるだけで皮膚が切り裂かれてしまいそうなとげとげしい鱗に、直視するのがイヤになるほど鋭く伸びた爪。
その生物は、まさしく神獣と呼ぶに相応しい規格外の生命体であった。
魔物と言うよりはむしろ、竜種に近い存在だろう。
「ごめんなさい旅人さん、こんなことに巻き込んじゃって。でも‥‥助けに来てくれて本当に嬉しかったよ」
どうする。
この化け物を相手に、僕はどうすればいい‥‥!?
「キミは僕の後ろに隠れてるんだ、決して前に出るんじゃない!」
大地を蹴り、一気に怪物へと―――アバジャナハルへと距離を詰める。ヤツと対面して戦うのは自殺行為だ。戦うなら、ヤツの懐に潜りこんで視界に入らないように立ち回る‥‥!
「はッ!!」
魔力も、筋力も、全ての力をフル稼働させてアバジャナハルの胸部に刃を突き立てる。目覚めたばかりで油断している今が最大の好機だ。攻撃の機会は限られている、この一撃でヤツの臓器を損傷させるほどのダメージを負わせなければ勝ち目はない‥‥!
「!?」
しかし―――僕の刃が、アバジャナハルの肉体を傷つけることは無かった。
「なんて堅さだよ‥‥」
鱗の無い部位を狙ったというのに、かすり傷さえ入らない。まるで巨大な岩をおもちゃの剣で斬っているかのような感覚だ。
「ゥゥゥ‥‥」
「!?」
ベチン、と。体全身に耐えがたい激痛と衝撃が走り抜けた。
アバジャナハルにとっては、腕でゴミを払いのけた程度の動作だったのかもしれない。だけどその矮小な一撃は―――僕と言う一人の人間を戦闘不能にするには十分すぎる一撃であった。
「がッ‥‥!」
軽々と吹き飛ばされ、無様に大地に伏せる。痛すぎてもう何が何だか分からない。ヤツの腕にびっしりと生えた鱗に弾かれたせいで、体全身が切り傷だらけだ。血まみれで前が良く見えない‥‥僕はまだ、生きている、よな。
「はァ…はァ‥‥」
視界がぐるぐる回っている‥‥いや、そればかりか足元までふらついてやがる。
流石にこれはちょっと‥‥厳しいな。
「旅人さん、もういいんだよ。私は怖くないから―――」
「声‥‥震えてるだろうが」
「旅人さん―――」
ああ、そうか。
見え透いた嘘をつかれるというのは―――こんな気持ちなのか。そりゃあヘイゼルも怒る訳だ。昨夜の件は、どうやら僕に非があったようだ。戻ったらちゃんと謝らないと。
「ォォォォォォォ」
巨大な怪物はようやく一歩を踏み出し、生贄を喰らわんとこちらに迫って来ている。
「さて、どうしたもんかね」
全力でぶつかっても傷一つつかない。
哀しいけど‥‥これはもう、勝てないな。
「降り注げ!アグルウェル!!」
それは―――突然の出来事だった。
「ォォォォォォ!!!」
巨大な炎の玉がまるで豪雨のように、アバジャナハルへと降り注いだ。
「この魔法は‥‥!」
間違いない、彼女が来てくれたんだ。
「少し目を離すと死にかけてるとか―――ほんと、意味わかんない」
「ヘイゼル!」
「手加減して勝てる相手じゃないでしょ、早く奥の手を使いなさい」
僕の方を見向きもせず、ヘイゼルは魔法をぶっ放しながら冷たく言い放った。
「奥の手‥‥原種の力のことか」
確かに―――あの力を使えばこの状況をどうにかできるかもしれない。でも、あれは本来僕のもつ力ではなく、この体の真の持ち主“イヴ”と名乗る存在のモノだ。力を使いすぎると、ロンガルクの時みたいに体を再び乗っ取られてしまうリスクがある。
もしそうなれば、僕には僕自身を止める手段がない。
「あの力は‥‥使えないんだ」
「使えないんじゃない、使いたくない。でしょ」
「え‥‥!?」
「ロンガルクで私達が意識を失っていた間のこと―――全部バドスから聞いたわよ」
「ヘイゼル、キミは‥‥」
それを知ったうえで、僕にあの力を使えと言うのか‥‥?
「世界を救う勇者サマがそんなことでビビってんじゃないわよ。余計な心配なんかしてないで、ドドーンと本気を出しなさい。もしまたアンタがおかしくなったら、その時は殴ってでも―――私が元に戻してあげるわ」
「‥‥!」
彼女のその一言だけで―――僕の心は救われた。
「ォオオオオオ!!!!!!!」
「しまった‥‥!」
炎の雨に打たれながら、アバジャナハルは狂ったようにヘイゼルへと襲い掛かる。僕を弾いた時とはワケが違う完全なる殺意のこもった攻撃―――それは牙も爪も尾も全てを駆使した“外敵”を打ち倒すための命を懸けた行動であった。
このままではヘイゼルも生贄の少女もみんな死んでしまう。
だからここは‥‥僕が立ち上がらないと。
「グォオオオオオオオオ!!!!!!!」
鼓膜が張り裂けるほどの獣の咆哮が、大砂漠へと響き渡る。神獣の呼び声に歓喜し、より歓声を強めるサン・クシェートラの民達であったが―――彼らは一つ、大きな勘違いをしていた。
「驚いた―――蜥蜴ってそんな風に鳴くんだな」
アバジャナハルは獲物を喰らい、勝利の雄叫びを上げたのではない。
切り裂かれた腹からドロドロと溢れ出る自らの臓物に怯え、苦悶の悲鳴を上げたのだ。
「ありがとう、ヘイゼル――――今度は僕がキミを救う番だ」
「旅人さんが一撃でアバジャナハルの腹を‥‥うそ、信じられない‥‥相手はサン・クシェートラの神獣だよ‥‥?」
「神獣なんかじゃ彼は止められない、なんたってアイツは世界を救う勇者なんだから」
生贄が放り込まれる祭壇の穴、本来ならそこは骨すら残らぬアバジャナハルの縄張りだが――――今日だけは違った。
地獄の如き穴の底に居たのは、驚愕のあまり恐怖すら覚える少女と、暖かく男を見つめる魔女。
そして‥‥。
「ふぅ―――」
ズタズタに切り刻まれて肉片となった大蜥蜴と、その惨状を作り出したジルだけだった。
「お疲れ様、ジル。気分はどうかしら?」
「大丈夫‥‥今は何ともないよ」
ゆっくりと、ガスを抜くように僕は全身に有り余っている力を脱力させた。豹変した肉体も徐々に元の姿へと戻っていく―――大太刀へと変化していた剣も元のサイズへと縮み、あるべき姿へと還っていった。
「解除完了っと」
「旅人さん、めちゃくちゃ強いんだね‥‥それだけ強いなら親衛隊長ともいい勝負できたかも」
「まぁ、今のはズルみたいなもんだよ。それよりキミ怪我とかしてない?」
「うん、大丈夫」
少女はくるんとその場で回って、自らが無傷であることを体全身を使って証明して見せた。
「キミはどうして生贄に‥‥?」
「‥‥不吉をもたらす存在だから、かな」
そう言って彼女は小麦色に輝く髪をなびかせながら、静かに視線を落とした。
あまりこの話題については探りを入れない方が良さそうだな。
「とにかくここから出よう。良かったらキミも―――」
ドゴオオオオオオオオオオオ!!
刹那――ジルの言葉をかき消すように、何の前触れもなく背後から巨大な轟音が鳴り響いた。
「な、なにごと!?」
「何かが降って来た‥‥?」
僕は少女を後ろに隠し、再び剣を抜く。まさかあの親衛隊長とやらが戻って来たのか‥‥?かなり手練れっぽいし、できれば戦いたくないけど――――ヘイゼルがいるなら勝機はある。
「チッ、遅かったか‥‥そこの魔女っ子ならぶん殴ってでもソイツを連れ戻してくる思うてんけどなァ。まさか原種化の後押しするなんて思いもせんかったわ、ホンマ餓鬼一人に熱くなるとかどうかしてんでキミら」
砂煙の中から現れたのは親衛隊長ではなく―――どういう訳か僕たちのガイドであるはずのアカネさんだった。
「アカネさん?どうしてここに‥‥?」
「ジル!気を付けて…何か来る!」
「遅いわ、ボケ」
ほんの瞬きの一瞬。肉眼はおろか最先端の電子機器類の眼でも捉えることが困難なほどの超高速でアカネさんはヘイゼルへと距離を詰めると、手刀の一撃で彼女と近くにいた生贄の少女の意識を暗闇へと飛ばした。
バタリ、と力無く倒れこむ二人を見て僕はアカネさんを―――完全に“敵”だと認識した。
「普段は実力を隠しとるけど本気をだしたら異世界無双ってか?いつの時代のラノベ主人公やねん。今どき流行らんで、そんなベッタベタな設定」
「アンタは何者だ、どうして僕たちを襲った」
「ウチが何者か?そんなん今この瞬間ではっきりしたやろ―――キミと同じや」
「‥‥そうか」
間違いない。彼女はこの世界の人間ではなく僕と同じ、現実世界の人間だ。
この世界で目を覚ました人間は―――僕一人では無かった。
「あん?なんやもっと驚くかと思ってんけど‥‥意外と冷静やな。自分一人が選ばれた勇者や思うて自惚れてたんちゃうのん?」
「別に、勇者を名乗れるほど強くもありませんから。それより今はアンタが裏切ったという事実で脳みそがいっぱいだ」
「はっ。一つ言うとくけどな、ウチは別にキミらに暴力振るうつもりはなかったんやで?こんなクソったれな状況になったんはキミがサン・クシェートラの大蜥蜴をミンチにしてしもうたからや」
「アバジャナハルは太陽の御遣いとしてこの大砂漠では崇拝されとった生きもんや。それをよそもんのガキがブチ殺してしまった。こんな大問題引き起こしたら、砂漠を渡るどころの騒ぎやない‥‥直ぐにでも親衛隊がやって来てキミら全員皆殺し。ボスにはキミを無傷で連れてくるよう言われとるけど―――予定変更や」
「キミをサン・クシェートラへと連れていく。そこで死ぬような腑抜けやったらそれまで、這いつくばって生き残ったなら―――ウチらの仲間へ加えたる」
「やれるもんならやってみろ。逆にアンタをとっちめて、仲間の情報を吐かせてやる」
僕は全ての意識を、目の前の女へと集中させる。
ここから先は瞬き厳禁だ。一瞬一秒でもヤツから目を離せば、ヘイゼルたちの二の舞になってしまう。
「実力差を推し量るだけの知能もなし、か。ホンマにキミがあのエルネスタを倒したんかいな」
「‥‥!」
瞬きもしていないのに視界が暗闇に包まれる。それが彼女の掌で、僕は既に頭を鷲掴みにされているという現実に―――最後まで気が付くことが出来なかった。
「ほな、さいなら」
アカネは勢いよく腕を振りかざし、ジルの後頭部を凄まじい衝撃と共に地面へと叩きつける。人間を超越した彼女の力は容易く少年の意識を飛ばし―――暗い闇へと葬ってしまった。