第68話 夜空に浮かぶは導きの星、怨嗟の雷鳴穿ち煌く
月明りさえ届かぬ深い海の底から、僕はぼんやりと海面を眺めていた。
この暗さだ、上を向いていたって何が見える訳でも無い。視界に映るのはただひたすらの闇ばかりで、見上げているこちらの気が滅入るだけ。まるで無意味な行為なのに‥‥僕はもう何時間もそれを続けていた。
「―――」
時折、暗闇と共に心地よい睡魔が僕の感覚を揺さぶって来る。海面を眺め続けている僕を労わるように、もう眠ってしまえと誰かが囁くのだ。確かにそれもいいだろう。こんな静かな海の底で眠ればさぞ気分が良いに違いない。それこそ、二度と目を覚ますことがないほどに。
「―――」
だけど、僕は決して目を閉じない。はっきりとは思い出せないが‥‥僕は海面の向こう側にとても大切な“何か”を置き去りにしたままにしている気がするんだ。それはきっと、死んでも護らなければいけない大切なモノで―――僕にとっての全てだったはず。ここで眠ってしまえば、永遠にそれは戻ってこない。
「―――」
しかし肝心のそれが何だったのかは分からない。空っぽの頭でずっと考えているが、一向に思い出せそうにないのだ。
「何だか‥‥眠くなってきた」
眠い。
そろそろ目を開け続けているのも限界だ‥‥もういい加減に眠ってしまおう。ずっと舟を漕いでいたから、実はもうヘトヘトだったんだ。
「おやすみなさい」
波の流れに身を任せ、深い海を揺蕩うのはとても気持ちがいい。僕は全ての役割を放棄するように、ゆっくりと瞳を閉じた。
「おやおや?こんなところで眠っていると風邪をひくよ?」
静寂の海に突如として謎の女の声が響き渡った。
「誰…?」
僕はけだるげに声の方角へと目をやった。するとそこには、漆のような美しい黒髪が特徴的な一人の女性の姿があった。
「誰でもいいさ、それよりキミ――――こんなところでフワフワしてないで早く目を覚ましなよ」
「目を覚ます?」
何を言っているのだろうこの人は。僕はさっきからずっと起きているじゃないか、眠ってなんかいない。そもそも眠ろうとした時に、彼女に水を差されてしまったのだが。
「さっきからずっと起きているだって?おいおい、馬鹿を言っちゃいけないよ。ここはキミの精神世界‥‥いわば夢のような場所だ。現実世界とはほど遠い」
「だって考えてもみなよ、ここ―――海の中だぜ?こんなところで人間が呼吸できる訳ないだろう、普通に考えて」
確かに、言われてみればそうだ‥‥彼女の言うことは理にかなっている。どうして僕はこの異様な空間の中で違和感なく過ごしていたのだろう。
「ずる賢い悪魔に唆されたのさ、彼に身体の支配権を奪われて―――キミは消えてしまうところだったんだよ。いやぁ良かったねえ、私が夢の中に現れて」
「持つべきものは友、とはよく言ったものだ」
体の支配権―――そう言えば、僕は舟の漕ぎ手を海の中に居た誰かに代わってもらった。思えばあの瞬間からずっと僕はこの暗闇で微睡んでいるような‥‥。
「ほら、ぼやっとしている暇は無いよ」
「今現実世界では、エルネスタとの戦いが最終局面を迎えている。どうやらキミ抜きでも彼女を殺すことはできるみたいだけど―――それでは本当の意味でロンガルクとバドスを救うことではできない。全てを救うには、やはりキミの力が必要なのさ」
「エルネスタ、バドス――――」
彼女たちの名を聞いた途端、冷めた体に熱が灯る。腑抜けた脳は冴え渡り意識ははっきりと覚醒する。
ああ、どうして今の今までこんな大切なことを忘れていたのだろう。皆は死にもの狂いで、現実で戦っているというのに―――。
「こんなところで‥‥いつまでも寝ぼけていられるか‥‥!」
エルネスタと決着をつけるのは、他でもない僕自身だ。僕の体を奪ったアイツにその役目を奪われて、いいはずがない!
「いいね、意識が強くなり始めてる。あと数秒もすれば体の支配権を取り戻すことができるだろう」
「だけどそれも一瞬だけだ。キミの意識が覚醒したことを知れば、ヤツは更に強い負荷をかけてキミを再び暗闇へと引きずり込む。だからキミが先手を打つんだ、身体を取り戻した一瞬の間に、ヤツへと強い負荷をかけてやればいい」
「負荷って、そんなのどうやって‥‥」
「手取り足取り教えてあげたいところだけど―――残念ながら私が助言できるのはここまでのようだ」
そう言い放った途端、彼女の体が次第に半透明になっていく。目を凝らさなければ見失ってしまうほど、姿形が薄れてしまっていた。
「とにかく意志を強く持つんだ。体の主はこの僕だと、現実で好き放題しているアイツに思い知らせてやればいい」
「分かった、ありがとう―――名も知らない人」
「礼なんていらないよ、私とキミの仲じゃないか」
「?」
「さぁ目覚めだ―――祷くん、もう一度あの世界へ行っておいで」
彼女の言葉を聞いた途端、暗闇ばかりだった世界は眩い閃光に包まれた。
・ロンガルク・
「ほう、大したもんだ―――まだ息があるとはな」
「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ‥‥‥」
苦しそうに呼吸を繰り返すエルネスタ。自らを守護する鎧は粉々に砕け、体中には生々しい傷跡が絶えず刻まれている。鮮血公バドスに加え、乱入者たちとの連戦に次ぐ連戦―――さらには魔力の消費が激しい魔族形態での戦闘。そんな激しく消耗した彼女にとどめを刺さんと放たれたイヴの破格の斬撃。
いま立っているのが不思議なほどに、彼女の命は風前の灯火であった。
「ジル、待ってくれ!彼女は―――彼女は私の娘なのだ…!!どうかスレインの命だけは‥‥」
「黙れ!!!」
「汚らわしい魔族の分際で――――その名を口にするな‥‥!!」
喉が裂け、血を吐きだしながらもエルネスタはバドスへと食い下がった。体は既に限界を超えている。だけど彼女の不屈の精神だけは―――まだ、確かに生きていた。
「私は貴様の娘などでは無い‥‥!私の母はとうの昔に魔物どもに殺された!!」
「スレイン‥‥」
「剣をとれ原種もどき、私はまだ生きているぞ‥‥!!」
彼女はそう吐き捨てると…血濡れた体に鞭打って、イヴを力強く睨みつけた。
「―――チッ」
執念。
なんという執念か。
もはや一種の呪いのようにさえ思えるこの憎しみは、世界中から魔物が居なくなるまで消え去ることは無いのだろう。どれだけ血を流そうと、どれだけ死体の山を積み上げようと‥‥彼女の戦いは終わることは無い。見果てぬ夢と知りながら、それでも足掻き続けるというのなら―――。
「今度は首を獲る。覚悟しろ―――外征騎士」
ここでオレが、お前の苦悩を終わらせてやる。
「待て!駄目だジル‥‥!お願いだ、やめてくれ!!」
もはや誰の声も彼には届かない。
血濡れの悪魔と、超常たる原種は互いの首を求めて剣を振るった。
「スレインーーー!!!!」
かつて母だったモノの絶叫が、ロンガルクにこだまする。
エルネスタへと振り下ろされるイヴの刃。彼の攻撃速度は手負いのエルネスタを優に超え、確実に彼女の首を捉えていた。もはや‥‥誰にも彼を止めることはできない。
もっとも―――もう一人の体の主である僕を除いて、だけど。
「ぐうああああッ!!!」
「な、なんだ‥‥?何が起こった…?」
自身の理解の範疇を超えた惨状に、エルネスタは思わず声を漏らす。エルネスタに振り下ろされたはずの刃は彼女に触れることすらなく――あろうことかイヴ本人の腹部へと深々と突き刺さっていたのだ。
「返せ―――僕の体を!」
“ごはッ‥‥もう目覚めやがったか‥‥!クソが…覚えてやがれ‥‥ジルフィーネ!”
脳内でやかましく鳴り響くヤツの声を無視して、僕は意識を強く肉体へと集中させた。次第にヤツの声は聞こえなくなっていき…体の支配権がゆるやかに、しかし激烈に“ヤツ”から“僕”へと移り変わっていく。
「くっ―――」
しかし‥‥身体の感覚が戻るということはヤツの意識を飛ばすためにつけたこの傷の痛みが、体全身を駆け巡るということだ。
激痛なんてレベルじゃない。体に突き刺さった刃は骨ごと臓器を抉っており、かぎりなく致命傷に近いほどの重傷だ。ヤツだけでなく、僕の意識が飛ぶのも時間の問題だろう。
だが―――ここで全てを投げ出す訳にはいかない。
「ぐッ!!」
僕は剣の柄をしっかりと握ると、そのまま力いっぱい傷口から引きぬいた。
「ハァ…ハァ‥‥ハァ‥‥」
やばい、死ぬ‥‥。
「貴様――いったい何のつもりだ。自らの腹を抉るなど…私を侮辱しているのか…!」
「侮辱なんかする余裕あるかバーカ‥‥邪魔者が入ったから、ハァ…退場してもらっただけだ―――」
呼吸‥‥とにかく落ち着いて息を吸うんだ。
腹の傷は考えるな。今は脳へとひたすらに酸素を回せ―――!一瞬でも気を抜けば死ぬ、今はただ目の前の彼女を―――エルネスタを倒すことだけを考えろ‥‥!
「先ほどとは比べ物にならぬくらい魔力が低下しているではないか。理解できんな、さっきの形態を維持していれば‥‥勝利は貴様のモノだったやもしれぬというのに」
「それじゃ意味ねぇ」
「なに?」
「アンタみたいな頑固者には一度きつい灸を据えて痛い目にあってもらう。殺してハイ終わりだなんてふざけた結末じゃ―――意味がないんだよ…!」
「それは私より上に立つ者にのみ許されたセリフだ、貴様如き羽虫が口走っていい言葉などでは断じてない!」
怒りと共に放たれたエルネスタの斬撃。その一撃を―――ジルはいとも簡単に自らの刃で防ぎきってしまった。
「馬鹿な?!」
「そこだッ!!」
動揺している彼女の隙をつくように、ジルは渾身の一太刀をエルネスタへとブチ込んだ。しかし、素人同然の少年の一撃など外征騎士にとってはそよ風にも等しい矮小な一撃。太刀筋を一瞬のうちに先読みされ、いとも簡単に防がれてしまった。
「‥‥!」
だが、“今のジル”はもはや素人同然の少年などではなかった。
「はあああああ!!!!」
自らの剣に全身全霊の魔力を集め、爆発的に火力を高めた捨て身の一撃。その圧倒的な“威力”を彼女は完全に見誤っていたのだ。
「受け止め切れない‥‥だと!?」
手負いのエルネスタに、もはやジルの全力を受け止め切れるだけの余力は残されていない。周囲の建物ごと吹き飛ばす絶大なジルの一撃が正面から炸裂し、彼女は瓦礫の海へと無惨に沈んでいった。
「ハァ…ハァ‥‥」
体力の消耗が激しい―――思っていたよりも腹の傷が深いみたいだ。一刻も早く回復しないと僕の意識どころか“この肉体”そのものがもたなくなってしまう。
「なめるな‥‥小僧!!」
獅子奮迅―――いや、そのような言葉だけでは生ぬるい。とうに体力の限界を迎えているはずの彼女はたった一撃で周囲の瓦礫を粉砕し、再び僕の眼前へと舞い戻った。
「この世全ての魔物を殺し尽くすまでは‥‥私の歩みは誰にも止められぬ!それが正義の外征騎士として剣を振るうと誓った私の使命であり矜持――貴様如きに阻まれてなるものか!!!」
「お前の正義は間違っているエルネスタ!」
咆哮する二人の鋼と鋼が激しくぶつかり合う。両者の肉体は目も当てられぬほどの傷に溢れているが、二人の剣戟は苛烈さを極めるばかりであった。一進一退のせめぎ合い、少しでも眼を逸らせばその瞬間に即死は免れない。体を蝕む激痛に耐えながら集中力を保ち続けるという苦行を前にしても、両者の剣が鈍ることはなかった。
「蛮族風情が正義を語るか‥‥!貴様は地獄を見たことが無いからそのような戯言を吐くことができるのだ!」
「ああそうだ!僕は地獄なんか見たこと無いし、お前の過去に何があったのかも知らない!けれど‥‥罪のない人々の命を奪うお前の正義が間違っていることくらいは分かる!」
「愚か者が―――魔物は生きているだけで皆が大罪人だ、このユフテルに存在すること自体が許されない!この町に住む害虫共も、バドスも、貴様も、そしてこの私すらも‥‥魔に連なる全ての存在は、神の雷によって葬られなければならぬ!!」
「ぐっ!」
急に力が強まった!?このままでは斬り負ける…!
「ジル様あああああ!!」
「エイミー!?」
突如として背後からこちらへ迫って来るエイミーの手には、シュレンとの戦いでも使用した爆炎の杖が握られている。その慌ただしい姿を一目見ただけで彼女が何を考えているのかはすぐに理解できた。
「っ!」
僕は傷だらけの肉体に鞭打って大きく身体を翻してエルネスタから距離をとる。その瞬間エルネスタの足場を中心に巨大な爆炎がエイミーの持つ杖から発動された。
「ごほっごほっ‥‥くそ、無茶苦茶だ‥‥」
巨大な爆発音のせいで、キーンという不快な音が脳内にうるさく響き渡る。爆炎の大きさから推測するに、シュレンと戦った時に放った時よりも威力が倍増しているようだ。数m先は爆発で発生した土煙に覆われて視認することすらできない。
「ご無事ですか、ジル様!」
肩で息をしながら、エイミーは慌ただしく僕の元へと駆け寄ってきた。
「ご無事な訳あるか!」
「本当に元のジル様に戻ってる―――良かった‥‥!」
心の底から安堵したように、エイミーは暖かな雫を美しい瞳から滴らせた。僕がこの肉体の主導権を取り戻すまでの間に何があったのかは知らないが、きっと彼女にも心配をかけてしまったのだろう。僕が不甲斐ないばかりに‥‥申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
「エイミー、他の皆は?」
「今は意識を失っていますが‥‥ヘイゼルさんたちは無事です」
「そうか―――」
「それより今はジル様です!腹部の傷を早く治療しないと死んでしまいます!ほら、早く傷口を見せてください!治療しますよ!」
エイミーのもつ回復魔法の杖によって、腹部の抉れた傷口が半ば強引に癒されていく。杖の先端から発せられる暖かな光が傷口を照らすたびに、全身を駆け巡っていた激痛が和らいでいくのが分かった。傷口こそ完全に塞がらないものの、この逼迫した状況での応急処置としては十分すぎるほどの効能だ。
「ありがとう、エイミー」
これでまだ…戦える。
「ふふ‥‥ははははは!!」
土煙の中から響き渡る女の嗤い声。その渇いた肉声からは喜びも悲しみも、一切の感情を感じ取ることはできない。顔には笑みを浮かべているのに、心の底は燃え盛る怨嗟で煮えたぎっているのだ。
こんな怪物が‥‥正義の騎士であるはずがない。
「お前達は私自ら一人一人無惨に殺してやろうと思っていたが、もうやめだ。全てを滅ぼす雷神の一撃で、この穢れた町ごと消し飛ばすとしよう。喜ぶがいい害虫ども‥‥貴様らのような虫ケラ風情が神の威光をその身に受けることができるのだからな!!」
「来たれ、パログストゥスの天雷よ!!!」
エルネスタの叫びに呼応するように、空が割れる。大気はピリつくほどに張り詰め、大地を照らす太陽は雷鳴を運ぶ暗雲によって消え去っていく。黒い雲は雨雲となって雷鳴とともに大地を濡らし、世界を漆黒の嵐で塗りつぶした。まるでこの世の終わりのような天変地異を前に―――小さな僕たちはその圧倒的な力をただ見ていることしかできなかった。
ここまできて、まだこれほどの隠し玉を持っていたとは。
「何なんですかこれ‥‥自然そのものを従えるとか、もうヤバイとかそんなレベルじゃないですよ!!」
「逃げましょうジル様!!私達はできるだけのことはやりました!副団長を倒し、あの外征騎士に傷をつけた‥‥だけど、ここが限界です!これ以上はもうない、今逃げても文句を言う人なんていません!!」
雨に濡れ、涙と雨粒の見分けがつかなくなったエイミーが必死に僕へと訴えかける。僕の腕を握りしめ“死にたくない”と心の底から叫んでいる。
「外征騎士に挑むなんて、やっぱり無謀だったんです‥‥!彼らは聖都を守護する最高峰の騎士―――強さの次元が違いすぎる!」
「‥‥エイミー」
「私の魔力を全て使えばジル様を連れて遠くへテレポートすることができます、それで私達だけでも―――」
「エイミー!」
「!」
「それ以上先は言わないでくれ―――お願いだ」
他の人たちを見捨てて僕たちだけで逃げる。そんな軽率な言葉を、他でもないエイミーの口から聞きたくなんてない。
「‥‥じゃあどうするんですか」
「‥‥」
「このままじゃここにいる全員エルネスタによって殺されてしまいます!!」
「――なぁ、エイミー。今のこの景色って、何だか闇夜の海によく似ていないか?」
「は…?」
「分厚い暗雲に覆いつくされてるせいで、まるで夜みたいに暗いし…激しく降り注ぐ雨は荒れ狂う海の波みたいでさ」
「エルネスタに頭を貫かれた時、そんな海の真ん中で一人ぼっちで舟を漕ぐ夢を見たんだ」
「‥‥何を言ってるんですか?」
「漕いでも漕いでも暗闇ばっかりで―――自分がどこに居るのか、どこへ行きたいのかも分からないひたすらの孤独。そんな死ぬよりも辛い暗い海へ、どうやって僕は漕ぎ出したと思う?」
「知りませんよ―――そんなの」
「星だよ」
「星?」
「僕はきっと、夜空に浮かぶたった一つの星を頼りに海を進んでいたんだ。辛くても、寂しくても、怖くても―――僕はその星が煌く限りは必死になって進み続けることができる‥‥こんな僕をずっと導いてくれる光があったんだよ」
そして今も、僕はその星を頼りにここにいる。
「僕にとってその星は、エイミー―――キミ自身だ」
「え?」
心底驚いたような顔で、エイミーは僕の次の言葉を待った。
「人類を救う目的の為とはいえ、キミは滅んだ世界にたった一人取り残された僕を導いてくれた。僕がここに立っていられるのも全部エイミーのお陰なんだ」
「だから僕が前へと進めるように、もう一度力を貸してほしい。漆黒の闇が覆う夜空でも見失うことのない煌きで―――僕の剣を導いてくれ」
「ジル様‥‥」
しばらく僕の瞳を見つめた後、彼女は少しはにかんだ様子で口を開いた。
「もう、貴方という人は――私がついていないと本当にダメダメ勇者なんですね」
そう言って彼女は照れくさそうに僕の手をぎゅっと握りしめた。雨でずぶ濡れになった僕の体を、彼女の手の温もりが穏やかに癒していく。エイミーめ、さっきまで酷い顔をしていたというのに―――今は見違えるほどに晴れやかな表情じゃないか。
「ああそうだ、僕はエイミーがいないとダメダメだ‥‥今もこうして手を握られただけで凄く気持ちが楽になったよ」
「‥‥あんまりそういう気恥ずかしいコト言わないでください。というか、本当にどうするんです?原種の力も、仲間の力も全てエルネスタには通用しない‥‥彼女を打ち倒すほどの手段はもう残ってないでしょうに」
「そうだな―――僕たちこのまま死んじゃうかもしれないな」
実を言えば、僕にも策なんてない。考えうる限り最善の策を全て出し尽くしても、エルネスタを倒すことはできなかった。完全に力量を見誤っていた、外征騎士がどれだけ強いかルエル村でもイヤというほど目にしたというのに―――心のどこかで勝てると思い込んでしまった。ヘイゼルやリリィ達を僕のエゴで巻き込んでしまったことが心の底から悔やまれるが、後悔はしていない。
例え死ぬことになろうとも、僕はこのロンガルクを見捨てることなんてできなかった。勇者とか使命だとかそういう大層な思想は抜きにして、一人の人間としてエルネスタと戦うことを選んだのだ。だからここで死ぬことはきっと、無意味なんかじゃない。
「そんなこと言って‥‥まだ心は折れてないでしょう?私がついていてあげますから―――勇者に相応しい最高の逆転劇を見せてください。」
「エイミー‥‥」
「私がジル様を勇者として選んだことは間違いではなかったと‥‥証明してくれますか?」
「―――ああ、勿論だ」
今の僕は世界を救う勇者だ。
勇者なら奇跡の一つや二つくらい華麗に起こして見せるとも!
「お喋りは済んだか?」
万里を震わす轟音と共に天から一筋の雷がエルネスタの剣へと降り注ぐ。その瞬間、さっきまであんなにうるさく鳴り響いていた雷鳴がピタリとやんでしまった。その様はまるで、雷雲に眠る全ての雷を彼女の剣へと結集させたみたいだ。
「わざわざ終わるまで待っててくれたのか?意外と優しいんだな」
「戯言を、強大な技を放つには時がかかる上に隙もできる。貴様らがそのチャンスともいえる時間を無駄に浪費したということを教えてやったまでだ」
「そうかよ、ならついでに聞かせてくれ。アンタの言う正義ってのは‥‥いったいなんだ」
「私の正義はユフテルに蔓延る全ての魔物の殲滅。かつて私が見た地獄を、全ての魔物に味合わせて殺すことだけだ」
「――哀しいな。地獄を見る苦しみを知っているアンタ自身が、今度は地獄を与える側にまわるなんて‥‥それじゃアンタと同じ境遇の魔物が増えるだけじゃないか」
「それでいい、全ての魔物に等しく絶望を与えるのが私の宿命であるが故に」
「それでアンタ自身は救われるのか?」
「――これ以上の問答は不要、これより消える命に語ることなど何もない!」
エルネスタの体から、閃光の如き稲妻が大気中へと迸る。具象化するほどに高濃度の魔力で覆われた今の彼女はまさに“雷神”そのもの。彼女がその剣を僕へと振るった時、恐らく全ての戦いに決着がつくだろう。
「エイミー」
「ジル様、私はここにいますよ」
固く、強く―――二人は手を結ぶ。もはや自然そのものとも言える超常たる存在を、ちっぽけな少年と妖精は正面から堂々と見据えている。どうあがいても勝てぬ強敵を前に、恐怖と絶望を抱いて立ち尽くしているのではない。闇夜に現れた荒れ狂う雷神をこの手で討ち果たさんと―――死の覚悟と共に必死に向かい合っているのだ。
「聖王エルディアの名のもとに、今こそ第八の騎士が正義を為そう!!」
きっとこれで―――全てが終わる。
「滅びよロンガルク!魔物の楽園はこの私の手によって滅ぼし尽くす!」
「“白光神威弐式――天雷神”」
エルネスタの剣から放たれる最強の一撃。町一つを消すには余りある絶大な閃光は、ジルとエイミーの命を奪うためだけに今、解き放たれた。
「行こう、エイミー」
「はい、どこまでもお供します―――ジル様」
少年は妖精の手を取り、最期の一撃を繰り出す。
「―――」
相手を滅ぼすような強い力はいらない。殺意とか憎しみとか、怒りとか正義感とか――そういう感情だって不要だ。エルネスタを倒すのに必要なのはヤツを上回るほどの魔力でもなければ卓越した戦闘技術でもない。いま本当に必要なのは、彼女の放つ圧倒的オーラに呑まれない冷静さと、片手いっぱいの一握りの勇気だけなのだから。
「怨嗟に喘ぐ雷神よ―――鎮まれ、今こそ僕は勇者としての矜持を示す!」
今はただ、そっと星の祈るように剣を振るえ。
きっとそれだけで―――僕はアイツに勝てる。
「“全てを照らす奇跡の星”!!」
二人の力によって繰り出された光。脆弱な魔力の輝きに思えたそれは、次第に威光を増し―――外征騎士の魔力すら包容する強力な一撃へと変化を遂げた。
「馬鹿な‥‥私の一撃を正面から受け止めただと!?」
正面からぶつかり合う互いの最高の一撃、決着の時はすぐそばにまで迫っていた。
「あの小僧と妖精にこれだけの魔力は残されていなかったはず!ヤツらの力は一体どこから‥‥!?まさか本当に奇跡を起こしたとでもいうのか?!」
分からない、何故だ。矮小な虫ケラ風情に何故この私が…?!
「見てママ!パパがまた大きな怪物をやっつけたよ!!」
「タイタンワームの成体か‥‥全くどこで見つけて来たのやら」
「ねぇママ、どうしてパパはあんなに強いのかな?」
「護る為に戦っておるからだ」
「まもるため?」
「そうだ」
「だれを?」
「そりゃあママとスレインに決まっておろう?良いかスレイン、人間とは大切なモノ護る為に戦う時が一番力が漲ってくるものなのだ」
「そうなの?」
「ああ、妾が聖都を襲った時の人間どもの決死の抵抗ときたら――――」
「おいおい、子どもになんつう話しようとしてんだよ‥‥」
「???」
「いいか、スレイン。パパみたいに強くなりたかったら、絶対に相手を殺す為に戦っちゃダメだ。俺たち騎士の剣は相手を殺すものじゃあない、民の命を護るモノだ。そう強く心に誓うだけで、力なんてものは腹の底からモリモリ湧いて来るんだぜ?」
「うーん、よく分かんない」
「ははは!そうだろうな!まぁ今は分からなくても、いつかお前に護りたいと思えるものができたとき―――パパとママの言っていたことが分かる日がくるさ」
「えぇ?本当かなぁ」
「ああ―――本当だ。もしお前がパパと同じように剣を取るというのなら、その時は何かを護るために戦いなさい。大切なモノを護る為に強大な敵と戦っている人が居たなら、他でもないお前が力を貸してやるんだ」
「そうすればスレインもパパみたいな立派な騎士に―――いや、パパよりも強くてかっこいい騎士になれること間違いなしだ!」
「‥‥‥‥ふ」
全く、どうして今になって忘れたハズの記憶が忌々しく蘇って来るのか。これではまるで―――今の私の在り様を父が叱っているようではないか‥‥。
「ジル様!!今です相手の力が弱まったこの隙に―――!」
「いっけええええええええええ!!!!!!」
ああ。
私の雷が、刃が、正義が―――ヤツらの光によってかき消されていく。
そうか、私は―――――負けるのか。
「やはり私は―――パパみたいにかっこいい騎士にはなれなかったよ」
勇者の光がうねりを上げながら、遂にエルネスタの体を一直線に穿った。
視界が霞むような眩い閃光はやがて空へと広がってゆき―――永遠に晴れることはないかと思われた分厚い黒雲を影も残さず払いのけた。雷鳴も、雨も、外征騎士の怨嗟の刃も、全てが勇者の光の前に消え去ったのだ。
最早ロンガルクのどこにも戦いの気配は無く―――空にはただ、あくびが出るほど美しい晴天だけが明々と広がっていた。