第67話 少女の死んだ日
「目が覚めたか?」
冷たい女の声を目覚まし代わりに、私は暗闇から目を覚ました。
見慣れない小奇麗な天井に、寝心地の悪い高級そうなベッド。部屋にあしらわれた大層豪華な窓からは、どこか知らない街の夜景が鮮やかに見て取れる。まだ覚醒しきっていないぼんやりとした脳でも、ここが自分の家ではないことは哀しいほどによく分かってしまった。
「ここはどこ‥‥?」
「聖都グランエルディアにある私の自室だ」
窓から聖都の夜景を見下ろしながら、女は静かに呟いた。
「聖都‥‥?私の町は?」
「お前の住んでいた町は、もうない」
「跡形も残らないほどに焼き尽くされ‥‥今は焼け野原が広がっているだけだ」
8歳の少女に告げるにはあまりに残酷すぎる現実を、女は全く躊躇することなく口にした。そして、町でおこった全ての出来事をありのまま‥‥包み隠さずに語り聞かせた。
灼熱公の炎によって、町の住人は全員焼け死んでしまったこと。黒幕である魔物は仕留めることが出来ず、今もどこかで生きていること。彼女の所有していたモノは全て焼失してしまったこと。
そして――――彼女の父、レオナールが魔物との戦いの中で命を散らしたこと。
「お前の町を救えなかった責任は、全てこの私にある。私にもっと力があれば‥‥レオナールを救うことが出来たかもしれない」
そう言って、女は己の非力を詫びるようにベッドに横たわる少女の前へと跪いた。
「本当に、すまなかった」
頭を下げたまま、女は微動だにしない。その外征騎士にあるまじき不名誉な行為は、どのような罵詈雑言も甘んじて受け入れんとする彼女なりの覚悟の現れであった。
「――――」
まるで時が止まってしまったかのような静寂。
刻々と時を告げる振り子時計の音が、今が取り返しのつかない現実であることを無慈悲に訴えかける。進み始めた時はもう戻らないと、何度も何度も音を刻んでいるのだ。
「‥‥そっか」
「ありがとう、お姉さん。お父さんを殺した魔物達を殺さずにいてくれて」
「なに――?」
沈黙を破ったスレインの一言は、あまりに衝撃的なものであった。
「そいつらが生きているのなら‥‥私にも復讐の機会があるもの」
ああ、そうだ。行かなきゃ。
今すぐ町を襲った魔物どもを殺しに行かなくちゃ。
「待っててねお父さん、私が―――必ず仇を取ってあげるから‥‥!」
「どこへ行く、娘」
ベッドから飛び降り、ふらふらとした足取りで部屋の外へと向かう少女を引き留めるように、女は囁いた。
「決まっているでしょ?お父さんの仇を取りに行くの、まだ町の周りをうろついているかもしれない!」
「行けば死ぬぞ」
「放っておいてよ!!お父さんもお母さんもいない世界で生きていたって仕方ないじゃない!!私はもう―――死にたいの!!」
目を真っ赤に泣き腫らし、あまりに理不尽な現実に対する心の裡を―――スレインは声の限りに叫んだ。
家族が死んで、友達が死んで、故郷が死んで‥‥遂には心までもが死にかけている。もう人として大切なモノなんて何一つ残っていない。こんなに辛いことばかりなら、生きるという行為そのものを、どこか遠くへと投げ捨ててしまいたいのだ。
「そうか――なら、望み通り殺してやろう」
悲しみに喘ぐ少女の絶望を、女は静かに受け入れた。
「え?‥‥きゃっ!」
女は片手で軽々とスレインを持ち上げると、勢いよく壁に放り投げた。
「こほっ、かはっ…!」
苦しい‥‥息が出来ない‥‥。
「魔物達に挑んで殺されるのも、今ここで私に惨殺されるのもどちらも同じことだ。そうは思わないか?レオナールの娘よ」
「どちらにせよ死ぬのだから、誰に殺されようが関係あるまい」
鋭い凶器を手に、女はうずくまるスレインを氷のような瞳で見下ろした。
「やめ‥‥て‥‥」
嫌だ‥‥死にたくない‥‥怖いよ‥‥お父さん‥‥。
「安心しろ、私はこう見えても死神の外征騎士だ。人を殺すのは誰よりも慣れている」
女はスレインの言葉に一切聞く耳をもつ素振りが無い。
手に持った刃を淡々と振り上げると、なんの躊躇いもなく一直線にスレイン目掛けて振り下ろした。
「いやッ!!」
しかし、女の刃はスレインに命中することなく彼女の眼前でピタリと制止した。
「え‥‥?」
攻撃を止めた―――?
「―――」
女は手に持った刃を乱雑に放り投げると、怯えるスレインを何も言わずに抱き寄せた。
「!?」
「いま私が斬ったのは‥‥絶望に沈んだお前の心だ」
「この瞬間から、お前はもうスレイン・エレアノールではない。新たな命として、真新しい幸せに満ちた人生を歩み始めるのだ」
自分が隻腕であることを忘れそうになるほど、彼女は力強くスレインを抱きしめる。絶対に見られまいと隠していた泣き腫れた目を恥ずかしげも無く晒し―――自身の額をスレインの額へと優しく触れさせた。
「無理だよそんなの‥‥私こんな世界で生きていたくない‥‥!もう私には居場所が無いんだよ?!」
「居場所なら―――私が作ってやる」
「え‥‥?」
「欲しいものがあれば何でも用意しよう、可愛い服が欲しければ直ぐにでも腕利きの職人を手配してやるし、母の温もりが恋しければ‥‥私が共に眠ってやってる」
「お前を幸せにするためなら―――私はどんな苦労も厭わないと誓おう」
「どうして‥‥?」
意味が分からない、どうして彼女はここまで私に優しくするの?私は彼女の素性どころか、名前すら知らないのに‥‥。
「貴女はどうしてそこまでするの‥‥?」
こんなのっておかしい。きっと何か裏があるに決まってる、私を騙して何か悪いことを企んでいるに違いない。
「どうしてか。それはレオナールに娘を頼むって最期に託されてしまったのが一番だが、でも何より―――キミが彼と私とを繋ぎとめてくれる最後の存在だから‥‥かな」
そう言って、女は静かにほほ笑みを浮かべた。本当に穏やかな―――屈託のない素敵な笑顔だ。
「‥‥!」
しかし、彼女の笑顔があまりにも美しかったから‥‥それが虚栄だと、スレインは気が付いてしまった。
彼女はきっと、今もずっと心の中で泣いている。本当は声の続く限りに叫び、慟哭してしまいたいに違いない。だけど彼女は‥‥そんな自分の気持ちを押し殺してまで私に手を差し伸べている。私がレオナールの娘であるというたったそれだけの理由で、彼女は本物の母親のような慈愛を差し向けてくれているのだ。
「お姉さん‥‥」
ああ、そっか。
死にたくなるほど辛い思いをしているのは‥‥私だけじゃなかったんだ。
・10年後・
「ぐはあああぁッ!」
「隊長がやられたぞ!?」
「もう駄目だ!こ、降参だ!降参する!」
優れた騎士たちが無数に駐屯する聖都グランエルディアでは、各地の修練場で毎日のように血のにじむ過酷な鍛練が行われている。聖都を守護するために時代と共に考案され続けてきた数多くの鍛練方法。優れた実戦効果と確かな技術の向上が認められる点、近隣の国々の軍部でもこぞって取り入れられている点からも、その秀抜さが窺い知れる。
そんな聖都の騎士たちの鍛練の中でもとりわけ危険度が高いとされているのが“血肉研鑽”と呼ばれるモノだ。
血肉研鑽とは実戦形式で行われる一対一の果し合い形式の鍛練で、その大きな特徴としては“一切の防具を用いてはいけない”“どちらかが死ぬ、若しくは戦闘不能に陥るまで鍛練を続けなければならない”という二つのルールが挙げられる。
その過酷さゆえに、平和となった今の時代ではごく一部の地域でしか行われていない過去の遺物となっていた鍛練方法なのだが――――。
「何を言っている?血肉研鑽はどちらかが戦闘不能になるまで終わらぬ、貴様らはまだピンピンしているだろう?勝負をやめる理由がない」
そのあまりに危険な鍛練を、好んで行う規格外の騎士がいた。5年前に流星のごとく現れたその騎士は、民を守護する騎士としてはあまりに若く、強者揃いの聖都の騎士の中では異質な存在であった。しかし、その圧倒的な実力から誰も彼女の在り方に口を出さなくなり―――ついには次代の外征騎士と評されるほどの存在へと成り上がったという。
千を超える血肉研鑽を勝ち抜き、全て無傷無敗。
もはや化物とでも言うべき強壮なるその騎士の名は――――。
「エルネスタ!」
戦いに敗れ、助けを請う騎士に刃を振り下ろさんと立ち尽くす彼女を何者かが呼び止めた。
「‥‥カトリーン?」
その声を聴いた途端、エルネスタはまるで相手に興味が無くなったかのように刃を納めた。彼女の圧倒的な実力を前にして怯える騎士達を横目で冷たく眺めながら―――彼女に声をかけた一人の女の元へゆっくりと歩いていく。
「今日は聖都の外で任務があったのでは無いのか?」
「そうなんだけど‥‥それよりもっと大事な用を思い出してしまってね。暇そうなヤツに代わってもらったのさ」
そう言って、隻腕の女騎士は無邪気にほほ笑んだ。
「あ、アンタは死神の外征騎士カトリーン‥‥!?」
「エルネスタって、カトリーンさんと知り合いだったのか‥‥」
突然の外征騎士の登場に、鍛練に集まった騎士たちは驚きを隠せずにいた。死神のカトリーン‥‥聖都に君臨する22の英雄たち“外征騎士”の一角であり、10年前に片腕を失ってからも死神の座を守り続ける不滅の騎士だ。
「知り合いもなにも‥‥エルネスタは私の家族だ」
「家族だって!?もしかしてエルネスタって、外征騎士の娘だったのか!?」
「なるほど、それならこの強さも納得だぜ‥‥!」
「お、おい!カトリーン!?」
「良いじゃないか別に、隠すことでもないだろう?それより鍛練はそこまでにして、今日は早く家へ帰ろう!」
カトリーンはいつになく高いテンションでそう言い放つと、がっちりとエルネスタの腕をつかんだ。彼女の登場によって掻き乱され修練場の空気などまるで眼中にないように、人目も憚らずに動揺するエルネスタの腕をぐいぐい引っ張ってどこかへと進んで行く。
「分かった、今日はもう家に帰る!分かったから腕を離してくれカトリーン!」
「そうかい?」
エルネスタはカトリーンの腕を優しく振りほどくと、やれやれと溜息をこぼす。
10年前のあの日、カトリーンの元で暮らすようになってから私達は家族になった。同じ場所に帰り、同じものを食べ、同じように生活する。物心ついた時から母親のいない生活を送って来た私にとって、彼女は“本当の母”と呼べるただ一人の存在。こうして立派な騎士になることが出来たのも、全て彼女のおかげだ。“エルネスタ”という新しい名前も今では割と気に入っている。
「それより‥‥どうしていきなり修練場にまで姿を現したんだ?家の外では私と関わらないと約束しただろう!?」
カトリーンとの関係を、私は誰にも口外していない。外征騎士の縁者であると他の者に知られてしまえば誰も私の本当の実力を見てくれなくなってしまう。ここまで築き上げてきた地位も名誉も、全て親の七光り―――ましてやコネなどと噂されるのは我慢できない。
だから、家の外では一切関わりをもたないと約束したはずだが…。
「約束を破ったことは謝るよ、すまなかったエルネスタ」
「だけど今日はどうしてもキミと一緒に過ごしたかったんだ」
「どうしたんだ改まって‥‥」
「キミ、今日が何の日か知っているかい?」
「知らん。何の日だ?」
「誕生日だよ誕生日!!!エルネスタが家に来てから、今日でちょうど10年目だろう!?」
「ああ‥‥」
誕生日か。カトリーンの所に来たばかりの頃は毎年一日中共に過ごしていたが‥‥確かにここ数年はおざなりになっていた。共に過ごすどころか、ケーキを食べることすら忘れていたな。まぁ、遠征ばかりで家に帰らなかった私が悪いのだが。
「去年や一昨年は逃げるように家に帰ってこなかったけど、今年という今年はそうはいかない。観念して18歳の誕生日を私に祝われるんだな」
ニヤニヤといたずらな笑みを浮かべながら、カトリーンはエルネスタの頭を優しく撫でた。背はとっくに抜かされてしまったが‥‥それでも彼女にとってエルネスタは愛らしい我が子そのものなのだ。
「や、やめてくれ―――誰かに見られたらどうするんだ」
「別に構わないけど?」
「私が困る」
「全く、いつからキミはそんな反抗的な不良娘になってしまったんだ‥‥昔は私に撫でられただけで飛び跳ねるほど喜んでいたというのに」
「いつまでも飛び跳ねて喜ぶわけないだろう‥‥」
結局その後、私はカトリーン共に帰路についた。
家ではカトリーンお手製の豪勢な食事が用意されており、どれもこれも私の好物ばかりの大変栄養の偏ったアンバランスな食事だった。控えめに言って最高だ。今夜ばかりは、普段はあまり嗜まない酒にもついつい手が出てしまいそうになる。というか、がっつり出てしまった。
流石にケーキはお手製では無かったが、聖都で一番のパティシエに特別に作らせた逸品らしく―――筆舌に尽くしがたいほどに美味であった。
二人だけの時間は煌くように流れていく。
とても幸せで、楽しい時間。私と彼女はお堅い騎士であることも忘れ、節操なく笑い合った。まるで絵に描いたような幸せな家族のひと時だと言うのに―――彼女の瞳は、どこか浮かない色をしていた。
「何かあったのか」
「え?」
「さっきからずっと‥‥どこか虚ろな目をしているではないか」
私の誕生日を祝うだとか言っていたくせに、他のことに気を取られているのは少し気分が悪い。今日くらいは私だけを見て欲しいというのに‥‥。
「やっぱり、エルネスタに隠し事はできないね」
隠し通すのを観念したように、カトリーンは呟いた。
「キミが聖都の騎士として剣を取ってから今日で10年。まだ年端もいかぬ少女だったキミに、私は毎日過酷な鍛練を課した。生まれながらに人を殺すことだけを教え込まれてきたこんな私だ‥‥普通の女の子の生き方なんて知らない。私は聖都の騎士になるという辛い選択肢以外、キミに教えてやることができなった」
「そこらの町娘とは比べ物にならぬほど麗しい美貌を持つキミのことだ‥‥世が世なら、聖都に暮らす多数の貴族たちからも、引く手あまただったろうに―――その輝かしい未来を、他ならぬこの私が閉ざしてしまった」
「カトリーン‥‥?」
「だけどキミはもう立派な大人だ。自ら生きる道を選択し―――歩んでいく権利がある」
「何が言いたいんだ」
「今日この日をもって、私とキミの家族関係を解消する」
「!?」
頭を力いっぱい強打されたような鈍い衝撃が、脳みそを揺らす。あまりに唐突な別れ話に、エルネスタはかつてないほどに動揺した。
「な、何を言っているんだカトリーン!つまらん冗談なら‥‥」
「私は本気だよ、エルネスタ」
冷淡な―――まるで感情の無い死神のような佇まいで、彼女は堂々と言い放った。
「キミに怨恨飛び交う騎士の戦場なんて似合わない―――広く美しい外の世界を知り、自由に生きるべきなんだ。私に気を使って騎士であり続ける必要はない。キミはキミのやりたいことの為に生きていいんだよ」
「こんな死神の元で縛り続けられる人生なんて‥‥そんなことはあってはならない。実はね、ずっと前から決めてたんだ‥‥キミが大人になったら―――自由に生きてもらうって」
「‥‥カトリーン」
今さら何を言い出すかと思えば、全く―――彼女は本当に大バカ者だ。10年の時を共に過ごしたというのに、私の本心すら見抜くことが出来なかったとは。
「何か勘違いしているようなので先に断言しておくが‥‥私は今まで一度もカトリーンに気を使ったことなど無いぞ」
「エルネスタ‥‥?」
「ここまで育ててくれたことに恩義を感じて私が貴女と同じ騎士を目指したと思い込んでいるようだが、それは違う。過酷な騎士の道を歩むと決めたのも、貴女と共に生きると決めたのも―――他の誰でもない私自身の意志だ」
魔物どもを殺すためには、騎士となって力をつけることは必要不可欠だった。それも大きな一因だが、それ以上に私は偉大なる父とカトリーンの背に憧れて騎士を目指したのだ。恩人である彼女の顔色を窺って騎士になったのでは断じてない。
「いつの日か言っていたなカトリーン、私に夢はあるのかと。あの時の私はまだ幼く、明確な答えを持っていなかったが‥‥成長した今ならばはっきりと言える」
「私の望みは世界中から魔物を滅ぼすこと、そして――――いつか貴女の跡を継ぎ、死神の外征騎士として民の平和を守ることだ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ!私の跡を継ぐって‥‥本気で言ってるのかい!?」
「冗談でこんな大それたこと言えるわけないだろう」
「まさか今までの過酷な鍛練も、私と同じ外征騎士になるため‥‥?」
「そうだ‥‥わ、悪いか」
少し頬を赤らめながら、エルネスタは消えるような声で反論した。
「そ、そうか―――本気なのか」
「・・・」
ああ、ついに言ってしまった。本当はもっと鍛えて100%自信がついてから打ち明けようと思っていたのに‥‥彼女が家族関係を解消しようだなんて言い出すものだから、つい勢いに任せて話してしまった。
外征騎士は聖都を守護する最も優れた騎士たちだ―――ただ強いだけではいけない。英雄たる資格がなければ、彼らと肩を並べて戦うことは許されないのだ。現に、父であるレオナールが外征騎士を脱退してから約20年が経った今も、“正義”の座は空席のままだ。彼の跡を継がんとする実力者達は数多くいたというが、誰一人として正義の座に輝くものは居なかったという。
そんな本物の強者のみが足を踏み入れることを許された世界を、カトリーンは生き抜いてきた。私のような若造には務まらないと、彼女は笑うだろうか。それとも未熟者のくせに思い上がった思想をもつ私を叱るだろうか。
まぁ、正直言ってどちらでもいい。その答えは目の前にいる彼女に聞けばすぐに分かることだ。
「キミが私の後釜か―――ふふ、存外悪くないかもしれんな」
「いいだろう。キミには一週間後、私の選抜した10人の騎士と血肉研鑽を行ってもらう。もしその全員に連続して勝つことができれば―――キミを次の死神の外征騎士として推薦しようじゃないか」
しかし、エルネスタの予想に反してカトリーンの返答は好ましいものだった。
「な!?本当か!?」
「本当だとも、私も片腕を失ってから体力の消耗が激しくてね。もう昔ほど自由に戦場を駆け回るのは難しい。そろそろ次の代に死神の座を譲らなければと思っていたところだったんだ」
「それを他でもないエルネスタが担ってくれるというのなら‥‥こんなに喜ばしいことはないよ!」
屈託のない笑顔を浮かべながら、カトリーンは優しくエルネスタの頭を撫でた。
「ああ、何としてでも私は死神の外征騎士になって見せる!」
カトリーンが私に期待をしてくれている。死神の座を私に継いで欲しいと微笑みかけている。彼女は―――私を騎士として認めてくれているんだ…!
「だけど用心するんだよエルネスタ、当日キミと戦う相手は生半可な騎士じゃない。各々が外征騎士の副団長クラスに匹敵する猛者たちだ。少しでも気を抜けば、その時点で勝負は決まる」
「問題ない、私は相手が誰であろうと常に全力を出すだけだ」
どこの誰とも知らぬ者どもに、決して死神の座を譲りはしない。
「そっか」
どこか哀しい眼をした彼女は、そう言ってエルネスタの体を優しく抱き寄せた。
「絶対に、負けるんじゃないぞ」
「カトリーン‥‥?」
大好きな彼女の髪の香りが、ふんわりと鼻腔をくすぐる。いつもは何も感じないのに、今日この瞬間だけは―――その香りがとても愛しく、尊いものに感じられた。
~一週間後~
「昨日はよく眠れたか?寝不足になってはしないか?もし体調が優れないなら日付を変更してもいいんだぞ?」
「大丈夫と言っているだろカトリーン。そこまで言われると、逆に調子が狂いそうになる」
10人の騎士と血肉研鑽を行うため家を出ようとするエルネスタと、彼女を心配そうに見つめるカトリーン。そのありさまは、新たなステージへ旅立とうとする娘とそれを見守る心配性な母親そのものであった。
「それでは―――行ってきます」
「行ってらっしゃい、カトリーン」
最低限の装備だけ持って、エルネスタは普段と何ら変わらぬ様子で修練場へと出かけて行った。今から10人の猛者と決闘をするとはとても思えない―――涼しげな顔で。
「ありがとう、エルネスタ。こんな私に‥‥憧れを抱いてくれて」
一人取り残されたカトリーンの目から、ひとすじの雫が零れ落ちた。
「お前がカトリーン殿の言っていた女だな」
修練場につくと、そこには厳格な衣装を身に纏った複数人の男たちがいた。彼らの名は聖政官。命のやりとりを行う戦場には似合わない、聖都の政と権力争いに精を出している上層部の人間だ。
「はい。エルネスタ・エレアノール、カトリーン様の選抜した10人の騎士と戦うために参りました」
「エレアノール?そうか、貴様がレオナールの‥‥」
「‥‥?」
「まぁいい、ではエルネスタよこちらへ来なさい」
聖政官の男は大袈裟な仕草で踵をかえすと、修練場の中心部にあるひと際大きな闘技台へとエルネスタを案内した。
「お前には今回、1時間で10人の騎士全員と戦ってもらう。一人倒せばすぐに次の騎士が闘技台にあがってくる‥‥一切休む暇のない連戦という訳だな」
「1時間で10人‥‥?」
「クク、恐ろしかろう。実力者揃いの猛者どもを、一人当たり約5分のペースで仕留めなければならんのだ。だが安心しろ、そんな化物の如き戦果を上げることが出来たなら、必ずや――――」
「いえ、別に。1時間も猶予があるのかと、少し驚いただけです」
全員一撃で仕留めればものの数分で終わることだ、外征騎士クラスが相手でも無ければ恐れる理由などどこにもない。
「フン、若造の分際で大口を叩きおるわ。精々殺されんようにうまく立ち回ることだな」
「ご忠告、感謝します」
有象無象の騎士など私の相手ではない。さっさと片付けてカトリーンの元へ帰るとしよう。
「よう、待ってたぜ命知らずのお嬢ちゃん。兜もつけずにくるたぁいい度胸じゃねえか」
闘技台の上から、一人の男がエルネスタへと声をかけた。
「お前が私の相手か」
身長約3m、体重は鎧もふくめて250kg以上といったところか。恐らく純粋な人間ではない、獣人や鬼人あたりの種族の混血か?得物は手に持った特大サイズの大剣か‥‥なんて分かりやすい。
「おうとも、俺の名は――――」
「名乗りは入らぬ、時間の無駄だ」
そう吐き捨てると、エルネスタはけだるそうに闘技台へと上がった。
「おい待てエルネスタ!まだ開式の儀が終わっておらんぞ!!」
「ならば私が戦っている間に隅っこで執り行っていて下さい」
「なんだと貴様‥‥!」
「そこにいると巻き込まれますよ聖政官殿、命が惜しくば私から離れた方が賢明かと」
形式だけの儀式など要らぬ。お前達は指をくわえて私が勝利するさまを見ていればいいのだ。
「はっはっはっは!!いいぜ、そういう分かりやすいのは大好きだ!!」
「どいてな聖政官殿!勝負はもう始まってるぜ―――!!」
その言葉を皮切りに、男は大きくエルネスタの間合いへと踏み込んだ。
「遅いな」
次の瞬間、互いの刃がぶつかり合う甲高い金属音が鳴り響いた。半ば不意討ちに近い騎士の斬撃を、エルネスタは片腕でいとも簡単に受け止めたのだ。
「馬鹿な!そんな小さな体で‥‥!?」
「倒れろ」
エルネスタは大きく重心の揺らいだ男の体を、眼にもとまらぬスピードで切り裂いた。
「ッ!」
わずか一秒間の間に四肢を制御する健を全て切断され、男は糸の切れた人形のように力無くその場に座り込んでしまった。まさに絶技――閃光の如きスピードである。
「さぁ、次の相手は誰だ」
そこから先は、本当にあっけないものだった。氷の槍を持つ騎士、空を飛ぶ騎士、砂を操る騎士―――様々な強者どもが闘技台へと上がったが、その全員がエルネスタに一太刀も浴びせられずに敗れ去っていく。もはや勝負というより蹂躙に近い。彼女の持つ圧倒的な実力の前には、外征騎士の副団長クラスでは相手にならなかったようだ。
もっとも、最後の一人を除いての話だが。
「何なんだコイツは―――今までの連中とはレベルが違いすぎる‥‥!」
10人目にエルネスタの前に立ちはだかった謎の黒騎士。ヤツと戦闘を開始してから既に50分が経過しているが、彼女は一撃も攻撃を当てることが出来ずにいた。何度剣を振るおうと、黒騎士は常人離れした身のこなしで攻撃を回避し、エルネスタを上回るスピードで反撃を仕掛けてくるのだ。
「もう時間がない‥‥!」
このままでは私に傷が増えるばかりで、時間が無駄になる。一撃、二撃程度なら耐えられるはずだ。これから先は防御や回避などは一切考えない‥‥どれだけダメージを喰らおうとも、とにかくヤツの懐へ斬り込む!
「ッ!」
捨て身の覚悟で、エルネスタは黒騎士へと突撃する。しかし、そんな彼女の決意を見抜いていたかのように、黒騎士は彼女の攻撃をいとも簡単に見切ってしまった。そして隙だらけとなったエルネスタの両肩に得物である銀色の双剣を両手で振りかざし、勢いよく突き刺した。
バリバリと骨ごと肉を抉りながら、黒騎士の剣は深く―――深く突き刺さる。大量の真っ赤な血が傷口から吹き零れ、びちゃびちゃと大地を汚した。大怪我なんてレベルではない。どうしてまだ胴体と両腕が繋がっていられるのかと不思議になるほど、傷口は深い。もはやこの傷では二度と剣を握ることはおろか、両手を使って生活をすることすら困難だろう。
完全に―――勝負ありだ。
「とったァ!!」
そう油断した黒騎士の隙を、エルネスタは見逃さなかった。
わずかに感覚が残っている左腕で、彼女は動きの鈍った黒騎士の胴体を大きく切り裂いた。
「ッ!?」
いままで一言も発しなかった黒騎士が、わずかに苦悶の声を漏らす。エルネスタの斬撃はヤツの下腹部から鎖骨当たりを広範囲に引き裂き、相当なダメージを与えていた。
「はァ、はァ、はァ‥‥」
ようやく一撃浴びせることができたが―――状況は最悪だ。ヤツにダメージを与える代償として、こちらは両腕をもっていかれてしまった。何故か左肩の傷は右肩よりも浅かったので、左腕なら少しは動かせそうだが‥‥出血が多すぎて体全身に力が入らない。ヤツを斬るにしても、あと一度が限界といったところか。
「急がれよエルネスタ、制限時間は残り僅かだぞ」
耳障りな聖政官の声などに興味は無い。今はこの黒騎士以外のことを考えている余裕などあるはずがない。
「―――ふぅ」
小さく、静かに呼吸を整えるエルネスタ。
焦った時、苦しい時はこうすればいいと、彼女は遠い昔にカトリーンに教わったのだ。がむしゃらに斬るのではなく、呼吸を整え火照った脳をよく冷やす。そうすれば思考が冴えわたり、より勝利に近い選択肢を選ぶことができるのだと。
「―――」
落ち着けエルネスタ。
勝機はまだある、思考から逃げるな。
あの恐ろしく強い黒騎士にも、何か付け入る隙はあったはずだ。
例えば―――私の左肩。右手はほぼ動かないのに対し、左肩の傷は比較的浅い。つまり。ヤツの右腕の力が左腕よりも弱いということだ。
「‥‥よし」
覚悟は決まった、後は――――勝つだけだ。
「はッ!!」
再び間合いを詰めるエルネスタ。鬼気迫る彼女の姿を見ても尚、黒騎士は怯むことなく正面から彼女へと斬り込んだ。
「!」
エルネスタの首筋を抉るような斬撃を、使いものにならなくなった右腕で直接ガードする。
「ッ!!」
痛い。叫びたくなるほど痛いが―――これでヤツの左腕からの斬撃は防ぐことが出来た。ヤツの刃は私の腕の骨に深く突き刺さっているから、そう簡単には抜けぬ‥‥!
そして次の右腕からの斬撃。これは確実に仕留めるために、私の首を狙ってくるはずだ―――!!!
「ッ!!!」
ガギン!!と異様な音と衝撃が闘技台に鳴り響く。黒騎士によって繰り出された右腕からの斬撃を、エルネスタはあろうことか“口と歯”で受け止めたのだ。
「なんと―――」
「ッァァ!!!!」
獣のような唸り声を上げながら、エルネスタは左腕にもった剣で黒騎士の心臓を貫いた。
「そ、そこまで!!」
聖政官の男たちが、慌てた様子で口々に勝負の終わりを告げた。心臓を貫かれ、力無くその場に倒れこんだ黒騎士の元へと駆け寄っていく彼らの様子を見て、エルネスタはようやく極度の緊張状態から解放された。
「―――」
そうか―――ようやく終わったんだな。
誇らしげな安堵感に包まれた瞬間、彼女の体に痛覚がより鮮明に戻って来る。どこもかしこも血まみれだ‥‥これでは当分ベッドに寝たきり状態だろう。
「ふふふ‥‥見事だエルネスタ。まさかここまで強くなっていたとはね」
エルネスタの勝利を祝福する愛おしいカトリーンの声。外野で見ていると思っていた彼女の声は不思議にも―――エルネスタの背後から発せられた。
「!!!!」
嫌な予感がじわりと彼女の脳裏によぎる。
エルネスタは慌てて黒騎士の元へ駆け寄ると、近くに居た聖政官を無理やり払いのけて―――その兜を取った。
「そんな‥‥どうして!?」
まるで“死神”の潜む暗闇のような漆黒で彩られた鎧の下にあった素顔は‥‥信じがたい人物のものであった。
「カトリーン!!」
カトリーンだ。今まで私と戦っていた黒騎士の正体は、他でもないカトリーン自身だったのだ。
「やっぱり急ごしらえの義手じゃ全然パワーでないね‥‥エルネスタに見抜かれた上に口で刃を止められてしまうなんて思わなかったよ」
枯れた声で、彼女は笑う。
そうか―――黒騎士の右腕の力が弱かったのは、隻腕であるカトリーンが義手を使っていたからだったのだ。私の町を救うために負った傷を狙うなんて‥‥クソ、私は最低なことをしてしまった。
「もう喋るなカトリーン!すぐに治療を‥‥」
「それは駄目だね‥‥死神の外征騎士たる資格は最も愛するモノの命を奪うこと。私が死ななければキミは外征騎士になれないんだ」
「そんな馬鹿な資格があるものか!ならば私は死神の外征騎士になんて―――」
「まさか、今更取り消すだんて言うんじゃないだろうね‥‥私はキミをそんな意気地なしに育てた覚えは無いよ‥‥」
「意気地なしでも構わない!私にとっては貴女との時間が全てなんだ‥‥!」
「そうか‥‥ならばいいことを教えてあげよう」
狼狽えるエルネスタの手をとり、カトリーンは優しく話をつづけた。
「キミの――母親のことだ」
「母さんの‥‥?」
今この状況と何の関係が…!?
「キミの父、レオナールが外征騎士を抜けた本当の理由は依願ではなく、彼女との駆け落ちだったんだ」
「母さんとの駆け落ち‥‥!?どうしてそれで外征騎士を辞める必要が――――」
「レオナールが愛した女の名は鮮血公バドス。かつて魔王ルドニールに仕えていた恐ろしき大悪魔だったんだよ」
「私の母親が‥‥魔物だと言うのか!?」
「私はね、レオナールのことを心の底から愛していた。だから‥‥彼を連れて行ってしまったあの女のことが大嫌いだった。憎くて憎くて憎くて憎くて―――本当に気が狂いそうだった」
「バドスさえいなければ、娘であるスレインさえいなければ―――彼は魔物達に殺されることなんてなかった‥‥今日という日まで、生きていられたんだ」
「カトリーン‥‥?」
「まだ分からないのか?」
「私はずっと、キミのことが大嫌いだったんだよ」
「!」
「髪の色や容姿まで、バドスそっくりで憎らしい。あの女の娘と暮らすなんて吐き気がする。父を失ったキミを家に置いた10年前のあの日からずっと―――いつか無惨に殺してやろうと思っていた。だけど‥‥結局私はキミを殺すことが出来なかった」
血の滲んだ紅い涙が、ゆっくりとカトリーンの瞳から滴り落ちる。今はきっと、声を発するだけでも死にそうなくらいに辛いはず。けれど彼女は震える声で、己の心の裡を―――誰にも言えなった“本当”を、他でもないエルネスタに伝えようとしていた。
「どうしてだろうね―――キミは、私の世界で一番嫌いな人間のはずなのに。愛しちゃいけない仇のはずなのに‥‥どうしてこんなにも‥‥愛おしいと感じてしまうのかな…?」
血に濡れた腕で、カトリーンは儚げにエルネスタの頬を撫でる。
彼女の心は、既に限界だった。
胸を締め上げるような憎悪と、エルネスタへの愛。その両方に蝕まれ―――心が悲鳴を上げているのだ。
「鮮血公なんて知らない!魔物を愛した父なんて知らない!!」
「私の名はエルネスタ‥‥カトリーンのただ一人の娘だ‥‥!!母親が娘を愛しく感じるのは―――当然のことだろう!?」
そうだ、何もおかしくなんてない。スレイン・エレアノールは10年前に死んだ。今の私はカトリーンの娘エルネスタ。孤独な彼女のたった一人の家族なのだから…!
「だから私を嫌わないでくれ‥‥貴女に見捨てられてしまえば、私にはもう帰る場所がない‥‥貴女だけが、私の唯一の家族なんだ‥‥」
死神の外征騎士になりたいだなんてもう言わない。貴女より大切なモノなど、もう私には何一つ残ってはいないんだ。
「そうか‥‥人を殺すことしか能が無いこんな私を‥‥キミにひどい言葉を投げかけた私を‥‥キミはそれでも愛してくれるというんだね―――ならばもう、思い遺すことはない」
「強く生きろ、エルネスタ。この先どれほどの逆境がキミを苛もうとも、恐れるものは何もない。なんたってキミは‥‥私の自慢の―――」
私の自慢の、“何”だったのか。そこから先を、彼女の口が告げることは永遠に無かった。
「待て!カトリーン逝くな!!お願いだ死なないでくれ‥‥私を一人にしないでくれ―――!!」
どれだけ叫ぼうと、エルネスタの声はカトリーンに届くことは無い。底なしの絶望に狂乱する獣の慟哭はやむことを知らず―――絶えず聖都に響き続けた。
エルネスタがカトリーンと出会ってから10年と一週間が経った日。
彼女は外征騎士の地位と引き換えに、憎しみ以外の全ての感情と唯一の“家族”を失った。
「おい―――そこの聖政官」
「こ、これは!ルミナス様!いらしていたのですか!!」
「たまたま通りがかっただけだ。それよりあの桃色の髪の騎士は何者だ」
エルネスタの血肉研鑽を遠くより眺めていた謎の女。ルミナスと呼ばれた彼女は、聖政官を自らの元へ呼び寄せると事の顛末を詳しく聞き出した。
「そうか、ヤツが死神の拾った幼子か‥‥えらく大きくなったものだ」
「新たな死神の外征騎士の拝命の儀はこれより一月の後、聖王の御前にて執り行われる予定です」
「いや、その必要はない。拝命の儀は私が直接行う」
「で、ですがルミナス様‥‥外征騎士の拝命は聖王直々に行うものと古くからの伝統が‥‥」
「聖王には私から申し上げておく、貴様たちは一切手を出すな」
「し、しかし―――」
「私に二度同じことを言わせる気か?聖政官風情が、思い上がった口をきくな」
「はっ―――も、申し訳ございませんでした。無礼をどうかお許しください…」
深々と頭を下げる聖政官。外征騎士とほぼ同格の地位をもつ彼らでさえ、彼女の前では奴隷同然の扱いを受けていた。そんな規格外の言動を許されるだけの“何か”が彼女にはあるのだろう。
「あの騎士に伝えておけ。三日後、リブラの神殿に一人で来いと」
そう言い残し、ルミナスはどこかへと去っていった。
・三日後・
カトリーンが死んでから、今日で三日。天下の外征騎士様が亡くなったというのに、家には親しかった知人が数人尋ねてくる程度で―――彼女の死を憂う人間の数はあまりにお粗末なものであった。聞けば死神の外征騎士とは外征騎士の中では一番疎んじられている役職らしい。死神に与えられる仕事は“要人の暗殺”や“公にはできない汚れ仕事”がほとんとだ。その毒牙は、仲間の外征騎士に向くときもあったという。
その騎士とは思えぬ特異性から、爪はじき者にされているという訳だ。カトリーンが天涯孤独の身であったのにも頷ける。彼女が死神の騎士として聖都で生きると誓った時に、親族や友との関係は全て断ち切ってしまったのだ。もはやカトリーンという名が生まれ持った名前なのかすら定かではない。生まれた場所も、年齢も、心の在り方すらも、全てが偽りだらけの彼女だったが、それでも――――。
最期の最期に、彼女の唯一の“本当”を私は知ることができた。
カトリーンの居ない生活は相当に堪えるが、それでも私は進み続けるだろう。貴女の跡を継ぐに相応しい死神の騎士として―――全ての魔物どもを滅ぼし尽くすために。
「それにしても―――遅いな」
今日は私が死神の外征騎士として歩みだす最初の日。拝命の儀はリブラの神殿で行われるという話だったが―――指定の時間になっても神殿には誰も現れない。
だだっ広いホールにポツンと一人、もう30分近く待ちぼうけを喰らっている。神々しく飾られたステンドグラスを眺めるのもいい加減飽きて来た、一度出直すとしよう。
「なんだ、もう来てたのか」
家へ帰ろうと踵をかえした瞬間、扉の方から一人の女が歩いて来た。
「‥‥」
誰だこの女は、拝命の儀は聖王が執り行うのではなかったのか?
それに‥‥服装も妙だ。騎士とも高位の官職ともとれる異質な衣装を身に纏っている。身長120cm程度、見かけ通りの体重なら体重は25kgといったところか。
「ん―――貴様、髪の色を変えたのか?」
「は‥‥?」
「髪の色だ、以前は桃色であっただろう。染めたのか?」
女はエルネスタの金色になった髪を指さして、不機嫌そうに指摘した。
「そうですが、それが何か」
「別に何という訳では無い、目についたから触れてやっただけだ」
うむ、誰だか知らんが嫌な女だ。カトリーンと違ってまるで愛想がない。
「一応名乗っておこう、私の名はルミナス。今日は貴様に外征騎士として死ぬ権利を与えるためにここへ来た」
そう言って、ルミナスと名乗った女はエルネスタへ小さな書筒を投げ渡した。
「……これは?」
「貴様を“正義”の外征騎士として拝命する聖王直筆の正式な書面だ。ありがたく受け取るがいい」
「正義の外征騎士‥‥?」
「そうだ。正義の外征騎士は他の外征騎士と比べて仕事が多い、明日からは早速ユフテル中を駆け回ってもらうことになるだろうな」
「待ってください」
「私の聞き間違いでしょうか‥‥私は死神の外征騎士として拝命されると伺っていたのですが」
「聞き間違いだと?馬鹿を言うな、貴様はこれより正義の外征騎士となったのだ。死神などでは断じてない」
「どういうことです?!私はこの手でカトリーンを斬った‥‥次に彼女の後を継ぐのはこの私しかいないはずでしょう?!」
「黙れ、貴様は黙って命令に従っていればいい」
「黙っていられるか!私は死神の外征騎士になるんだ‥‥そうでなければ、死んでしまったカトリーンが報われない!!」
「“黙れ”と言った」
冷たい、無情な瞳でルミナスはエルネスタを睨みつけた。さきほどとは比べ物にならないほど、ルミナスの雰囲気が恐ろしく豹変する。目が合うだけで意識が飛んでしまうような高圧的なオーラに、一切の反論を許さない傲慢な権力者の眼。その全てが鋭利な刃物のように、エルネスタの心へと突き刺さっていく。
「‥‥ッ」
恐怖。
エルネスタの意志と関係なく、脳と肉体が生物として本能的に恐怖している。ぶん殴ってやりたいほど腹立たしい女なのに―――ルミナスに手を上げることを彼女自身が拒否しているのだ。
「―――くッ」
間違いない、この女は私よりも“上”だ。
腕っぷしが強いだとか、頭が良いだとか‥‥そういう陳腐なレベルではない。存在そのものがまるで違う。彼女は全くの別次元を生きている、比類のしようがないほどにかけ離れたているんだ。うまく形容できないが―――とにかく手を出してはいけない相手であるということは理解できる。
「フフ、やめておけ‥‥私に勝てぬことくらい貴様も分かっているだろう?」
震える手で剣を抜いたエルネスタを嘲笑うルミナス。外征騎士クラスの猛者が目の前で剣を抜いたというのに、彼女は余裕綽々で立ち尽くしている。
「黙れ‥‥お前が何者かは知らないが、私を死神の外征騎士として認めぬというのならこの場で斬り捨てる!」
「脅しとは‥‥全く、誰に対してものを言っているのか分かっていないようだな」
ため息まじりにルミナスはゆっくりと一歩を踏みだした。
「来る‥‥!!」
最高速度で踏み込んで、一撃で仕留める。ヤツの攻撃手段や間合いが予測できない以上それしか方法はない‥‥!
「何をぼさっと立っている?もう終わっているぞ」
「‥‥?」
ルミナスの言葉が鼓膜を震わせた瞬間、思い出したかのように体中に異変が起こった。
「あれ‥‥?」
額、胸、両腕、臀部、両脚‥‥ありとあらゆる部位の感覚が無くなっていく。何だ、この感覚は。まるで魂が霧散していくみたいだ。意識が―――どこかへと遠のいていく‥‥。
「正義の座は確かに受け継がれた―――今は何も考えずに眠れエルネスタ。貴様にはレオナールですらたどり着けなかった“領域”へと至ってもらわねばならないからな」
独り言のように呟かれたルミナスの言葉を最後に、エルネスタの意識は暗闇へと沈んでいった。