第6話 冥府の淵より出づるモノ
暖かな日が昇り美しい小鳥の囀りが、ぽつぽつと聞こえ始める。
村には心地の良い風が吹き、穏やかな一日の始まりを予感させた。
しかし‥‥こんなに気持ちのいい朝だというのに、私の心は黒く淀み切っていた。
「主よ、どうか御許しを」
彼ら二人だけを死地に送っておきながら、ここで身を危険にさらすこともなく、のうのうと息をしている自分に嫌気がさす。だけど‥‥もし私が村を離れたとダラスが知れば、彼はすぐにでも外征騎士を呼びつけるだろう。だから私は村に残った。私の選択は正しい、正しいはずだ。
正しいはずなのに―――何故か、大きな過ちをおかしたような気がしてならない。
ああ、自己嫌悪と罪悪感で、胸が圧し潰されそうだ。全てが終わった時には必ず…必ずや私には天罰が下るでしょう。そうでなくては、いけない。無垢なる少年を恐ろしい忌み魔女のもとへと誘った罪は、必ずやこの命に代えてでも償ってみせる。
「ジル様、エイミー様―――どうか、どうかご無事で」
自らの血の海に、少年は力なく横たわっていた。
肘から先が消え失せた左手、あらぬ方向にねじり曲がった右足、ぶらりと根元から千切れかかった左足。
無惨に切り開かれた胴体からは、真っ赤な臓物が溢れかえっている。見るに堪えない。まさに地獄ともいえる光景が、そこには広がっていた。
「―――――」
誰が、どこからどう見たって死んでいる。5mを優に超える大猿の魔物に切り刻まれて、ただの人間が生きていられるはずが無い。考える暇もなく即死だ。
けれどその“死体”は、まだ僅かに息をしていた。
「―――」
あれ―――まだ僕は生きてる――のか?
いけない。少し眠っていたみたいだ。体全身の感覚が無い。そういえば、エイミーはもう遠くへ逃げきれたのだろうか。近くに彼女の気配は感じないし、大丈夫だと思うけど―――周囲を確認しようとするが、思うように体が動かない。どうやら、右目は潰れてしまっているようで何も見えない。残った左目も、視界が血に染まってはっきりとしないのだ。
体をどうにか動かそうとするが、鉛のようになってしまって、全く動かすことができない。まぁ、これほど派手に死にかけているのだから、当然と言えば当然か。むしろ、まだ意識が残っている方が普通に考えてありえないことだ。
「ゥゥゥゥゥゥゥ―――――」
あぁ。おぞましい獣の息使いが聞こえる。
ぼんやりとではあるが、それは確かに僕の視界に映っている。横たわる僕のすぐ傍で、よだれをいっぱいに垂らしながら立ち尽くしている大猿の姿が。
「―――」
僕はいよいよ、この悪魔に喰われる。いっそ丸呑みにしてくれれば良いのだけど、あの鋭い歯を見る限り、そうはいくまい。それに、これだけの巨体だ、骨も残さず体の隅々まで食い尽くされるだろう。
下手に意識があることで、死への恐怖が倍増する。全身の感覚がないので痛みは感じないだろうが‥‥それでもやはり、怖いものは怖い。もう、何も見ていたくない。
「ごめん、エイミー。僕はやっぱり―――選ばれし勇者なんかじゃ無かったみたいだ」
全てを投げ出すように、覚めない悪夢から逃れるように、少年はそっと瞼を閉じた。
「あっち行けコノヤロー!」
「!?」
誰だ!?というか、何だ!?
僕は、永遠に開くつもりのなかった眼を開き、慌てて周囲を確認する。
こんな地獄へ飛び込むなんていったいどこの命知らずだ!?そもそも、一体何の目的があって―――。
「っ!」
あまりに衝撃的な光景に、自らの眼を疑う。
僕と大猿の間に、突如として何者かが割って入ってきたのだ!ありえない!どうして―――!?
「エイ…ミー?」
「はい!エイミーです!!」
「なに、して、るんだ…ここにいたら…ころされる…ぞ」
声にならない声を絞り出し、僕は必死に叫ぶ。意味が分からない。相手は大猿、ちっぽけな妖精が敵う相手じゃない。
「私は導きの妖精です、勇者であるジル様を見捨てることなんてできません。なので――全力で引き返してきました!!」
「――っ」
堂々と胸を張り、高らかに宣言するエイミー。呼吸が乱れ、肩で息をしているが…その美しい顔には満面の笑みを浮かべている。
「ばかか、おまえ‥‥ぼくは‥‥どのみちたすからない‥‥ぼくのいのちは‥‥もうここまでなんだよ‥‥!」
ああ、本当に腹が立つ。
「せっかくたすかったのに‥‥なんでもどってきたんだ‥‥これじゃおたがい…ただのいぬじにじゃないか…!」
「それでもいいんです!」
一瞬、彼女は目を伏せる。今までの明るい表情とは対照的な―――哀しい眼だ。
「ジル様の居ない世界に、私の存在価値はありません。勇者の居ない世界に生きていたって‥‥私、どうしようもないですから」
淡々と、粛々と彼女は告げる。
ああ―――そうだ。
彼女は勇者を導くためだけに生まれた妖精(AI)。当然、勇者の居ない世界に彼女は必要ない。
僕という“導かれる者”がいなければ“導き手”は“導き手”足りえないのだ。
役目を無くした貧弱な妖精が、この世界で生きていけるとは思えない。無様に野垂れ死ぬか、魔物に喰い殺されるのがオチだろう。つまり僕が死んだ時点で、彼女はゲームオーバーというわけだ。どのみち助からないのであれば、いっそのこと勇者と共に死んで楽になりたい、か。
なるほど―――彼女の言い分は良く分かった。僕が彼女と立場が逆だったとしても、間違いなく同じことを考えたと思う。しかも、待ちに待った勇者がこのザマなら、なおさらだ。
だけど。
だけど、僕は。
「ガルアアァァァ!!!」
耳をつんざく咆哮が周囲一帯に轟く。いい加減しびれを切らした大猿が、途轍もない殺意と共に今にも僕達に襲い掛かろうとしていた。全てを諦めたように‥‥エイミーは呆然と、襲い来る大猿を見上げている。
巨岩のような巨体から振り下ろされる狂気の爪が、エイミーを襲う!
「お役目を果たせなくて‥‥ごめんなさい」
だけど僕は、彼女に生きてほしい。
「――――退け」
それは刹那の出来事であった。
「ガァ!?」
目の前の出来事を理解できず、大猿は混乱と焦りの表情を浮かべる。
それもそうだろう、何せ今の今まで死にかけていた一人の男が、一瞬にして立ち上がり――手に持つ剣で己が腕を切り裂いたのだから。
「ジル様‥‥?!」
ぼとん、と切り裂かれた大猿の片腕が地に落ちた。苦悶の表情を浮かべ、駄々をこねる子供のように――大きな振動を起こしながらのたうち回る。
一方の僕といえば、あれほど無惨に切り刻まれた体はすでに回復し、千切れかかった四肢も綺麗に再生していた。体のどこにも、かすり傷一つ存在しない。
「―――」
それだけじゃない。腹の底から、尋常では無いほどの力がこみ上げてくる。血液が、心臓が、細胞が、僕の体を構成する全てがはち切れんばかりの勢いで再起動する。肌の色は血色を失ったかのように青ざめ、髪も色素が抜けたように、白く染まっていった。
まるで自分が自分じゃ無くなっていくみたいだ。でも、この力があれば。
「下がっていて、エイミー」
僕は再び、護身用の剣を握り直す。剣と言っても、エイミーから預かった時のデザインとは打って変わり、全長2mを超える巨大な東洋風の大太刀へと形を変えていた。その刀身は禍々しいオーラに包まれており、かつての姿とは似ても似つかぬものになっている。
僕の姿が変化したのに反応したのかは分からないが…ともかく、今の僕に良く馴染む得物であることに違いは無かった。
「なんて禍々しい魔力‥‥これではまるで‥‥」
これではまるで恐ろしい“魔王”のよう。
「ガアアアアアアア!!!!!!!!!」
千切れた片腕を大事そうに抱えながら、大猿は大きな口を開けて僕をめがけて突っ込んでくる。
揺らがぬ敗北を悟った、捨て身の攻撃だ。
「―――ごめん、死んでくれ」
真っ直ぐ飛び込んでくる大猿を、僕は文字通り身の丈を超える大太刀で一刀両断した。
正面から真っ二つに切り裂かれる大猿。二つに分かれた肉片からは、どす黒い血があふれ出し、臓物をぶちまけながらその場に倒れこんだ。
「エイミー、無事?」
「は、はい―――!」
何か物思いに耽っていたのか、エイミーは我に返ったように大きな声で返事をする。
「ジル様‥‥あの、その力は?」
「分からん。けど何かすっごくパワーアップしたような気がする!」
肌の色はちょっと病的でやだなぁって感じだけど、体中に浮かび上がってる紋様とか、吸血鬼みたいな牙とか、ちょっとかっこいいし!その上あの大猿を一刀両断できるほどのパワー!あれ?もしかして僕って最強じゃね?
「“解除”」
そう言うと、エイミーは僕の額をつん――と指先で触れた。
「あれ!?」
何だか知らないけど、体中からどんどん力が抜けていく‥‥!肌の色も、紋様も消え、みるみるうちに元の姿へと戻ってしまった。
「な、何してんだよエイミー!!せっかくパワーアップしたのに!」
「ジル様、今のお力は勇者に相応しくないものです」
真剣な眼差しで、エイミーは語る。
「え?」
「変化したジル様のお姿は、かつてユフテルに存在した“古い魔族”の姿に類似していました。魔の力を人間が使い続けると、いずれその強大すぎる力を制御できなくなり、必ずその身に破滅を引き起こします」
魔族の力、ね。めっちゃかっこよくて強いけど、代償がつきまとうってことか。
「というか、そもそも何で僕が魔族の力なんて使えるんだ?僕、ただの平凡でくそ雑魚な人間だったはずだけど」
「うーん、それが分からないんですよねぇ。平民以下のカスのような魔力量だった芋虫勇者が、どうしてあれほどの力を使えたのか」
「おい、喧嘩なら買うぞ」
「今は分からないことだらけですが…ま、追々考えていけばいいでしょう!」
楽観的だな。まぁ、確かにその意見には賛成だ。難しいことをあれこれ考えるのは苦手だし。
「そ、それより――ジル様」
「?」
顔を赤らめ、体をもじもじさせるエイミー。興奮しているのか、背中の羽をいつもよりせわしなく羽ばたかせている。粉とか飛びそうですごい嫌だけど、とりあえず黙っていた。
「さっきはその、助けてくださり――ありがとう‥‥ございました」
緊張のあまり、どんどん声が小さくなっている。声が震えていて聞き取り辛かったが‥‥僕に感謝をしているということは、はっきりと分かった。
「なんだ、そんなことかよ。ただお礼を言うだけのにアガりすぎだろエイミー、めっちゃピュアじゃん」
「んなっ!?」
「ま、妖精らしくていいと思うけどさぁ」
「別にアガってませんし!緊張とかしてませんから!!というか、全然ピュアじゃありませーんー!こう見えてもアダルトな妖精なんですからー!」
「へぇ」
「ふーん、そうやって涼しい顔してるけど、本当はジル様の方が、私にお礼を言われて照れちゃってる癖にぃ――!」
「・・・」
なぜバレた。
「居るんですよねー、自分だけ斜に構えて大人ぶってる人!そういう人に限って意外とピュアだったりするんですよねー!」
「は?ば、ばかじゃねえのお前!ピュアっていうヤツがピュアだし!」
いかん、良く分からんことを口走っている気がする。いやでも、いくら妖精とはいえ女の子に面と向かって感謝されて、照れない男は居ないって!
「あー!?なんか赤くなってませんこの人?!うふふ、勇者様ってばウブなんですねっ!」
「この野郎!」
「二人とも!!ここにいたゲロか!!」
一触即発の事態を治めてくれたのは、蛙の妖精ベローだった。僕たちの身を案じて、慌てて駆けつけてくれたのだろう。
「ああー!!蛙さん!!」
「ベロー!良かった、生きてたんだ――!!」
本当に良かった‥‥!
「それはこっちのセリフゲロ!メイメイマシラは何処にいったゲロ!?」
ベローは鬼気迫る表情で、状況を食い入るように確認する。彼はまだ、あの猿の脅威が去ったことを知らなかったのだ。
「あのでっかい猿ならもう倒したよ」
「ほんとゲロ!?」
「ほら」
そう言って、僕は先ほど両断した肉塊を指さした。鮮血に溢れ鋭い牙がむき出しとなった姿は、死して尚‥‥見るものを恐怖の底へと引きずり込むようだ。
「ゲローーー!?お、お前達‥‥実はものすごく強い旅人だったりするゲロ!?」
「いや、今回はたまたま運がよかったというか‥‥」
「ええ!そうですとも!」
僕が言い終えるよりも前に、エイミーが慌ただしく口を挟む。
「ジル様はものすごく強くて最高に優しい、エイミー自慢の、最強の勇者様ですから!」
そう言って、エイミーは太陽のようなキラキラとした笑みを僕の方へ向けた。
「――」
そこまで言われるとめちゃくちゃ恥ずかしいけど――ま、どれほど時間がかかろうとも、いつかはなってやるさ。
ものすごく強くて最高に優しい。エイミーが本当に胸を張って自慢できる、最強の勇者ってやつに!