第5話 イルエラの森
数十メートルもある巨大な木々に囲まれた、生命溢れる深緑の楽園“イルエラの森”。
森の中は常にひんやりしていて、それでいて寒すぎず、とても快適で過ごしやすい。背の高い木々のお陰で、それほど日光も入ってこないし―――まさに隔絶された秘境、という感じだった。忌み魔女を倒すため、森に入って早一時間。魔物どころか原生生物一匹すら見当たらない。もしかして、外から入ってきた僕たちを警戒しているのだろうか。
「・・・」
エイミーから借りたままの護身用の剣を握りしめながら、ゆっくりと歩を進める。魔法や特別なスキルを扱えない僕にとっては、この剣だけが唯一の防衛手段…まさに、命綱といっても過言ではない。
まぁ、剣といっても鋼で作られた、重みのあるずっしりとした強そうなものではない。全体的に軽くて、刀身はかなり薄い。一見安っぽい剣に見えるが…柄と刀身の部分に意味不明ながらも、手の込んだ趣のある装飾がやたらと施されているようだ。
何だこの剣、観賞用か?
「何もないな」
「はい、驚くほどに静かですね」
弱そうな魔物で戦闘の練習をしようと思っていたのに、最悪のスタートだ。いきなり忌み魔女との実戦!という展開だけは何としてでも避けたいが…この調子だとそうも言っていられないな。
「この音は―――」
何かに感づいたのか、エイミーは歩くのをやめてその場に立ち止まった。
「近くに水場があるようですね!長いこと歩きましたし、少し休憩しましょうか」
彼女の言う通り、よく耳を澄ませるとさらさらと水の流れる音が聞こえてくる。歩きながらでは聞き取れないほどの小さな音だが…よく気づいたなエイミー。動物的な勘というヤツだろうか。
「さ!行きましょうジル様!」
「…ああ」
軽やかな足取りのエイミーとは対照的に、僕はとぼとぼと水の音が聞こえる方へ歩き出した。
忌み魔女を倒して村を救う、その決意に変わりはない。だが、今になって少し不安になってきた。強大な力を持つであろう忌み魔女と、僕はどこまで戦えるのだろうか。攻撃とか受けたら、痛いんだろうなぁ。下手すりゃ死んじゃうかも。
「はぁ」
ぐるぐると頭の中で考えことをしながらしばらく歩くと、思ったよりも早く小さな川にでた。透き通った透明な水が、ゆるやかに流れている。
「ごくごく……ぷっはぁーー!!うめええぇー!!」
川を見るなり、エイミーは顔を直接突っ込んでかなりヤバめの水分補給をしていた。まるで砂糖水を呑む蝶々みたいだ。
「お腹壊しても知らないぞ‥‥」
沈んだ気持ちの僕とは真逆で、エイミーは見てるこっちがイライラするほど元気溌剌としていた。妖精的には、こういう森の中の方が元気が出るのかな…。全く、のんきなヤツだ。
「そういえば‥‥」
僕は思い出したかのように無造作にポケットを探り、ソルシエから渡された白いオカリナを取り出す。
「エイミー」
「はい?」
「これって、吹いたらどうなるんだっけ」
「知りませんよ。ソルシエさんは、口で説明するより使った方が分かりやすいと仰っていましけど」
エイミーは口元を袖で拭いながら、自信なさげに呟いた。
「吹いてみるまで分からない、か」
彼女が用意したものだから、間違いなく何かの役に立つものなのだろうけど…何故か嫌な予感がする。吹いたら忌み魔女が飛んでくる――とかないよな。
「よし、エイミー吹いてみて」
とりあえず、こいつに吹かせて様子を見よう。
「え!?嫌ですよ!ジル様が貰ったんだからジル様が吹いてください!」
「何びびってんだよ、こんなの吹いたくらいで何も起こるわけないって」
「―――」
じゃあお前が吹けよ、と眼で訴えかけてくるエイミー。
いや、僕も怖いんだって…こんな怪しい笛を吹いて何も起こらないはずが無いんだから!
「勇者命令だ!オカリナを吹けエイミー!」
「いーやーでーすー!というか!こんなしょうもないことで勇者命令とか使わないでください!!」
「は?何だよ勇者命令って!?」
「ジル様が言ったんでしょうが!!!」
エイミーの口に無理やりねじ込んでやろうとするが、彼女も必死になって抵抗する。
「くそ、こいつ思ってたより力強いな!」
「ちょ、やめ――ちょ、待ってやめてください――!というか、私本当に吹けないんで!!」
「はぁ?なんでだよ?!」
「潔癖症!潔癖症なんです!誰かが吹いたかもしれない笛とか吹けないんで!!」
「そんな取って付けたような言い訳はいらねーんだよ!だいたいさっき、四つん這いになって川の水ガブガブ飲んでただろうが――!!」
「でもいーやーでーすー!!ぜぇぇったい嫌なことが起こる予感しかしないんです――!!!」
「だからエイミーに吹いてもらうんだよ!!ほら!さっさと口開けろ!」
「な、何してるゲロ――?」
何だろう、今声が聞こえたような。
「エイミー、今何か言った?」
「いいえ‥‥ジル様こそ、何か言いませんでしたか?」
おかしいな、確かに聞こえたような気がするんだけど。気になって軽く周囲を見渡すが、やはり何もない。ここにいるのは僕とエイミーの二人だけだ。
「勘違いか?」
「そっちじゃないゲロ!こっち、こっちだゲロ!足元を見るゲロ!」
「!?」
どこからともなく聞こえる声の言う通り、足元に目をやると―――。
「うわっ!??」
そこには身長70cmくらいの子どもが立っていた。そしてその背中には、小さな羽のようなものが見て取れる。
「何これ!?もしかして魔物!?」
「違うゲロ!吾輩の名はベロー!見ての通り蛙の妖精だゲロ!」
見ての通り蛙の妖精だって!?確かに蛙の被り物を被ってはいるけれど‥‥?
「妖精のフリをした魔物とかじゃないよね?」
「当たり前ゲロ!ほら――よく見るゲロ!」
彼はそう言うと、白い手袋と茶色いブーツを脱ぎ捨てた。その中から出てきたのは、人とは似ても似つかない長い指をもつ、紛れもない蛙の手足であった。
「すごい!本当に蛙みたいだ―――!」
まぁ、エイミーみたいなポンコツ妖精がいるんだし、蛙の妖精がいてもおかしくはないか。
「ところでお前達、こんなところで取っ組み合って…一体何してたゲロ?」
「‥‥あ」
そうだ、オカリナ。
「蛙の妖精くん、一つお願いを聞いてほしいんだけど―――いいかな?」
「お願い?何ゲロ?」
「このオカリナを吹いてみてくれないかな?」
「外道ッ!」
エイミーが何か言っているような気がするが、よく聞こえない。
僕は蛙の妖精、ベローにオカリナを手渡した。
「これは――!」
笛を手にした途端、蛙の妖精はとても驚いた様子で僕へ詰め寄る。
「お前達、ソルシエ様に会ったゲロ?!」
「え!?」
まさか見知らぬ蛙の妖精から、彼女の名前が出るとは思わなかった。何でも言ってみるもんだ。にしても――蛙の妖精と村の祭祀長、一体どんな関係なんだ?
「そうだけど、キミも彼女を知っているのか?」
「勿論だゲロ!彼女は吾輩の恩人なんだゲロ!昔、森で魔物に襲われていたところを助けてもらったんだゲロ!」
あの人やっぱり魔物と戦えるのかよ。
「そしてお前達がこの笛を持っているということは‥‥」
ベローは僕とエイミーの顔をまじまじと見つめる。そしてしばらく見つめた後、何かを確信したかのように、こう呟いた。
「なるほど、お前達がソルシエ様の予知夢に出てきた“二人”ゲロね?」
「どうしてそれを?!僕たちまだ何も話していないはずだけど?!」
「それは吾輩がソルシエ様に頼まれてここに居るからだゲロ!」
ソルシエさんに頼まれて――だって?
「ソルシエ様は忌み魔女を倒す“予知夢の二人”が現れた時、白い笛をもたせて吾輩の所へ連れてくると言っていたんだゲロ!二年間、吾輩はこの川の底で長い眠りにつきながら、白い笛をもつ二人が来るのを待ってたゲロ!」
二年間。そんなに前から、彼女は予知夢をひたすらに信じ続けてきたのか。
「じゃあこのオカリナは‥‥?」
「ソルシエ様が、忌み魔女を倒す者と認めた証、そして川底で眠っている吾輩を起こすためのものゲロ!お前達があまりにもうるさかったから、笛の音を聞く前に目を覚ましてしまったんだゲロ」
それは申し訳ないことをした。話を聞く限り、このベローという名の妖精は味方と考えてもよさそうだな。僕達を待っていたということは、忌み魔女を倒す助けになってくれるということだろうし。
「それにしても―――お前達、よくこの川辺までたどり着けたゲロね」
「まぁ、結構歩いたからね」
エイミーは背中の羽でふわふわしていたけれど、村から歩きっぱなしの僕の足は棒のようになっていた。この川に足をつけたら、ひんやりしてさぞ気持ちい良いことだろう。
「メイメイマシラは強かったゲロ?」
「メイメイ・・・なんて?」
よく聞き取れなかったけど―――強かったって、何かの魔物の名前か?
「ここに来るまで、魔物には一匹も出会わなかったよ?」
「!!」
僕の言葉を聞き、ベローの顔が途端に青ざめた。
「まさか―――」
可愛らしい顔は、恐怖に怯えた表情で歪んでいく。
「まずいゲロ―――早くここから離れるゲロ!!」
「―――え?」
何が起こっているのか分からないが―――彼の異様なまでの慌てようから察するに、一刻を争う事態なのは間違いない。とにかく、ここに居るのは危険だ。何かまずい事態が起こる前に、早くここから離れなければ――――。
「エイミー、来た道を―――」
ピチャリ。
「?!」
言葉を言い終える暇もなく“事態”は始まってしまった。
「これって―――」
何か、一滴の水のようなモノが、僕の頭に落下した。ただの水にしては明らかに生暖く、何やら独特の匂いもする。
「―――ジル様、上――――」
何かに怯えるエイミーの声。森からは先ほどの穏やかな空気は消え失せ、ただ殺伐とした血生臭い風が吹いている。
エイミーに言われるがまま、恐る恐る高い木々に囲まれた森の空を見上げると、そこには――――。
!‥‥!」
巨木の枝の上から大きな口を開き、真っ直ぐに獲物を見つめる巨大な一つ目の猿の姿があった。
「―――――」
間違いない。あれは―――恐ろしい形相を浮かべて、僕を狙っている。数十メートルもの高さの樹の上から、僕を見つめているのだ。呆然とヤツを見上げたまま、僕の体は硬直していた。叫ぼうにも、逃げようにも、恐怖で体が言うことを聞かない。
「霞隠れの杖よ、欺け!」
ベローはどこからともなくステッキを取り出し、天高く掲げて叫んだ。彼の掛け声が響き渡ると同時に、突如として深い霧が発生する。視界は瞬く間に霧に包まれ、三歩先すら霞んで見えなくなっていった。
「吾輩がヤツを攪乱する!今のうちに遠くへ逃げるゲロ!」
ベローの叫び声を聞き、恐怖に支配されかけていた自我が、ふと我に返る。
そうだ―――逃げなくちゃ。
横で立ち尽くしていたエイミーの腕をつかみ、やみくもに走り出す。どこへ進んでいるか分からないが――ひたすらに一定の方角へ走り続けた。
あの猿の魔物から、距離を。とにかく距離を取らなければ―――!!
「はぁッ―――!はぁ――!」
一心不乱に、ただ走る。今の自分が、どれだけみじめな姿をしていようと構わない。あの猿に喰われることを思えば―――どんな恐怖もそよ風のようなものだ。
「はァ‥‥!」
息が苦しい‥‥だが、死ぬのはきっと、もっと苦しい。見えない恐怖に追われるように、僕は走り続けた。心臓が痛い―――どれほどの間、走っていたのだろうか。
気が付くと視界を覆っていた霧は晴れ、先ほどとは全く別の場所へと辿り着いていた。
「うぐッ――」
胸が気持ち悪い、吐きそうだ。ヤツは―――もうヤツはいないのか?
「ジル様‥‥」
疲弊しきった様子のエイミーが、地面へ座り込む。
「大丈夫か!?ごめん、担いで走ることができれば良かったんだけど‥‥」
「私は‥‥大丈夫です」
肩で息をし、地面へとへたり込む様子は―――まるで弱り果てた蝶のようであった。それでも僕に心配をかけまいと、表情だけは笑顔のままだ。そんな彼女の姿を見て、僕はかえって不安になってしまった。
「少し休憩しよう」
一度頭を真っ白にしよう。恐怖で気が狂ってしまう前に―――心を整理しなければいけない。
「ベローは‥‥?」
「‥‥分かりません」
「―――そうか」
僕たちが、今ここで生きているのは間違いなく彼の勇気の賜物だ。彼が居なければ僕達はきっと、あの場所で―――。
ピチャリ。
「!!」
頭に“何か”が零れ落ちた。全身の神経が震えあがり、心臓が鼓動を止めてしまいそうになる。今度は上を見上げるまでもない。
ヤツが―――追ってきたのだ。
ああ、今度ばかりは絶対に逃げられない。逃げる気力も、体力も、もうこの体には微塵も残っていない。本当に、絶体絶命だ。1分後の未来に、僕はもう生きてはいないだろう。醜い肉片となって、ヤツに貪られているに違いない。だが、それならそれでいい、僕は甘んじて死を受け入れよう。
だけど、エイミーだけは別だ。せめて彼女だけでも――この森から逃がさなければ。
「逃げて、エイミー」
「ジル様!!」
少しでも彼女から大猿を引き離そうと、僕は最後の力を振り絞って走り出した。
「ガアアアアアアアアア!!!!!!!!」
狂乱の雄叫びが聞こえると同時に、大猿は目にもとまらぬ速さで、僕の元へと飛びついた。小さな体はあっけなく、無慈悲に、冷酷に―――バラバラに切り裂かれた。
ありえないぐらいの量の血しぶきが、静かな森を赤く染めていく。
ああ。そうか―――これが、死か。
「ジル様あああああ!!!!!!!!!!」
ここは生命溢れるイルエラの森。今日も新しい命が芽生えては、消えていく。
静かな森にはただ―――血に濡れた獣の叫喚だけが響いていた。