第94話 大蜥蜴と狼煙
「各員、持ち場に着いたな」
冷え切った砂漠に、パーリの声が静かに響く。
まだ完全に陽が昇り切っていない早朝、砂塵の牙たちレジスタンスの軍勢はサン・クシェートラを取り囲むようにデンデラ大砂漠で息をひそめていた。ハビンには最低限の兵だけを残し、ほぼ全ての戦力が王国へ攻め入るために結集した。まさに総力戦といった有様である。
「日の出と共に私が狼煙を上げる。街への門が開いたら、指示を待たずに突撃するんだ」
通信石を使い、部下全員に指示を出す彼女を横目で見ながら―――僕は自分の胸に手を当てた。
「・・・」
体の調子がまだ完全じゃない。これからの戦いで原種の力が必要だとしても、あまり考え無しに使うのはやめておこう。
「どうしたのジル、もしかしてまだ眠いの?フフ、ボクと同じだね」
「べ、別に眠たくなんかないよ」
背後から聞こえた柔らかなリリィの声。その声を聴いた瞬間、少しだけ肩の力が抜けた気がした。そうだ―――前の戦いとは違って、今回はヘイゼルもリリィもカインも、僕のすぐ近くに居る。こんなに頼もしいことはない。
「しかし、本当にうまくいきますかねぇ。スコルピオンって人が私たちを裏切っていたら王国に入った瞬間、待ち構えていた王国兵に一網打尽にされてしまうんじゃないですかぁ?」
「今更ウダウダ言っても仕方ねーさ!もしもの時は、俺が全員相手してやるよ」
「あら?朝から随分元気がいいのね。その威勢の良さが口だけじゃないことを祈るばかりだわ」
エイミーはともかく、ヘイゼルもカインもやる気は十分といった感じだな。これは僕も気合を入れないと‥‥。
「・・・」
そして、僕よりも数倍―――いや、何十倍も緊張しているパーリの姿があった。
「心配しなくても大丈夫だよ」
「な、何のことだ?!」
震える手を必死に隠しながら、パーリはやけに浮ついた声で言い放った。
「僕はともかく、ヘイゼルもリリィもカインも、みんな親衛隊に負けないくらい強い。何があっても、この戦いを勝ち抜いて見せるよ」
「ジャワだって―――今もパーリのことを見守ってくれているはずだ」
「ジル―――」
「‥‥ああ、そうだな。作戦はきっとうまくいく、全てが終わればサン・クシェートラは以前のような素晴らしい王国に戻れるんだ!」
決意を強固に、パーリは自身の覚悟を堂々と宣言した。
「よし、行くぞ!!!」
ボウっと音を立てて、狼煙が上がる。
後はスコルピオンとやらが上手くやってくれるのを待つだけだ。
あの雨の日の夜を、今でも鮮明に覚えている。
凍えるような寒さの中―――血塗れになって必死に駆ける変わり果てた父の姿。息が止まるほどきつく抱きしめられた腕の中で、俺は今にも死に絶えてしまいそうな彼の顔をぼんやりとただ眺めていた。
寒い、痛い、苦しい、怖い。父は、俺は、これから一体どうなるのだろう。朦朧とする意識は次第に薄れ―――やがて視界は真っ暗闇に沈んでしまった。
そして―――。
「あ、起きたー!!おはようヨミくん!私はスピカ!これからよろしくね!」
次に目が覚めた時、どこにも父の姿は無く―――何故か小麦色の髪が美しい少女が、俺の顔をはち切れんばかりの笑顔で覗き込んでいた。
~サン・クシェートラ王国・黄金宮殿・親衛隊詰所~
「―――ん」
まだ陽も完全に上りきっていない早朝。親衛隊の詰所で、ヨミは静かに目を覚ました。
「いつの間にか眠ってしまったようだな‥‥」
机に突っ伏して寝てしまっていたせいか、体全身の筋肉が強張ったように痛む。何とも幸先の悪い一日の始まりだ。こんな日は日向ぼっこでもしながら穏やかに過ごしたいものだが―――生憎と、今はそう悠長に構えていられる余裕はない。
砂塵の牙の連中が、この宮殿に給仕として潜伏しているとの情報は掴んでいる。奴らの手によって情報が渡り、王の不在がハビンに居る本隊に知られればすぐにでも攻め込んでくる可能性だってあるのだ。
「そうなれば、ここは戦場になる‥‥か」
戦いは避けられないとしても、せめてスピカだけは―――。
「おはようヨミ!その様子だと、昨日は貫徹だったみたいだな」
静寂を打ち破るように、突如としてスコルピオンが親衛隊の詰所へと清々しい笑顔で上がり込んできた。まだ朝も早いと言うのに、律儀に鎧を着こんでいるようだ。
「それで、そんなに机を散らかして何をしていたんだ?」
「イリホルのでたらめな神話ではなく、本当の神話を知りたくてな。古い文献を少し漁っていた」
「ほう?何か分かったのか?」
そう言って、スコルピオンは自然な仕草でヨミの前に腰かけた。
「残念ながら滅びを退ける方法はさっぱりだ。だけど一つ、気になる記述があったんだ」
「どんな記述だ?」
「正直、あまり当てにはならないかもしれないが‥‥」
やけに食い気味に聞いて来るスコルピオンの気迫に圧されつつも、ヨミは古びた小さな書物を取り出した。本の厚さはほんの数cmほどで、歴史書というにはあまりに味気ない。それもそのはず…この本は歴史ある高名な書物ではなく、父が後生大事に持ち歩いていただけの、ただの手記なのだから。
「父の遺した古い手記に、小麦色の髪を持つ女性について書かれていたんだ」
手記に書かれていた内容は、至ってシンプルだった。
かつてサン・クシェートラには天空と地にふたつの太陽が輝いており、それぞれが異なる繁栄を司っていた。天空の太陽はサン・クシェートラの民を心より愛し、時には人の姿で地上に現れることもあった。そしてその際には必ずお供の狩人を連れ、小麦色の髪をした麗しい女性の姿で大砂漠に降り立ったという。
父の字で記されたこの記述が、いったいどこから引用されたものなのかは分からない。だが、もしこれが本当だとすれば―――スピカは災いの娘では無く、天空の太陽にゆかりのある存在ということになるのではないだろうか?
「なるほど、小麦色の髪は天空の太陽の象徴―――ね」
「神話のどこにも記されていない、到底根拠のない話だ。くだらないと笑ってくれても構わないさ」
ただ一人の獣人が遺した手記と、古代より伝わる歴史書。本来なら比べることすら馬鹿らしい二つの書物だが―――それでも、俺は父を信じたい。父が意味も無くこんな記述を書き記すとは、俺には到底思えないのだ。
「確かに、信ずるに値する根拠は何処にも無い。だが、手記を記したのがお前の父君であれば話は別だ」
「それはどういう‥‥?まさか、父のことを知っているのか?」
そう問いを投げ終える前に―――異変は起こった。
「!?」
衝撃だ。まるで巨大な岩石が宮殿に降り注いだかのごとき衝撃が、耳をつんざく爆発音と共にヨミたちを襲ったのだ。
「何事だ?!」
「分からぬ!だが音は上の方から聞こえた…!砂塵の牙の連中か!?」
上だと!?親衛隊の詰所の真上にあるのは、王の居室だ。まさか、そこに奴らが攻撃を仕掛けたとでも言うのか‥‥!?
「俺は今から確認に向かう!スコルピオンは急ぎ親衛隊を集め、兵たちに指示を!」
「分かった!」
王が地下霊廟に降りているのは不幸中の幸いだった。先ほどの爆発音から察するに、部屋を警備していた近衛兵は既にやられたと考えるべきだな。
~サン・クシェートラ・黄金宮殿・王の居室~
「これは‥‥!!」
駆けつけたヨミが目にしたのは、信じがたい光景であった。
王の寝室を襲撃したのは、砂塵の牙の手の者では無かった‥‥いや、そもそも人間などではなかったのだ。
「キシャァァァァ!!!!」
蜥蜴だ。
巨大な蜥蜴の魔物が、王の居室に展開された防御結界を破壊しようと、何度も体当たりを繰り返していたのだ。
「なぜ―――?」
何故、こんなところに魔物が?魔物が何故、王の居室を狙う?そもそも一体どこから侵入した?分からない、この状況は一体―――?
「いや、あれこれ考えるのは後か…!ともかく今は、この蜥蜴をどうにかしなければ!」
弓に矢をつがえ、ありったけの力で一撃のもとに首を吹き飛ばす。それでこの異変は解決する。後のことは冷静に、時間をかけて解明すればいい。
しかし―――彼の矢が、蜥蜴の魔物を射貫くことは無かった。
「背中がガラ空きだ‥‥ヨミ」
聞き馴染みのある声と共に―――グサリ、と鈍い痛みが体中を襲う。
ふと後ろを振り返れば、そこには背後から俺の体を槍で貫くスコルピオンの姿があった。
「スコルピオン‥‥?な、ぜ‥‥?」
「お前が、我らの王にとって邪魔だから―――そして、ヤツの息子であるからだ」
スコルピオンは勢いよく槍を引き抜き、ヨミは力無くその場に倒れこむ。耐えがたい痛みと無限に溢れかえる疑問符の海に沈むように―――若き親衛隊長はその瞳を閉じた。
「悪いなァ、ヨミ。先々のことを考えると―――お前とメリアメンだけはどうしても始末しておきたかったんだよ」
「スコルピオン様。手筈通り、兵の配置は完了しました」
先ほどまで狂ったように暴れていた蜥蜴の魔物は、ヨミが倒れたのを見届けると流暢に人語を話し―――スコルピオンへと指示を仰いだ。
「おう、お前もご苦労だった。近衛兵に化けて人間と生活するのは中々に辛かったろう。これから好きに暴れろ。兵たちには予定通り作戦を決行すると伝えるんだ」
「はっ」
「そうそう、狼煙を確認するのを忘れるなよ?こういうのはタイミングが大事だからな」
~デンデラ大砂漠・サン・クシェートラ王国近郊~
パーリが狼煙を上げてから実に10分。サン・クシェートラの門は閉ざされたままで、一切の変化は無い。砂塵の牙たちレジスタンスの間には、若干の不安が伝播し始めていた。
「あー、これ絶対裏切られましたね」
「ちょ縁起でもないこと言うなよエイミー!」
「だって全然反応ないじゃないですか。むしろこんな目立つ狼煙ずっと上げてたら王国軍に奇襲がバレてしまいますって」
「そ、それはそうかもだけど‥‥」
「大丈夫だ、門は必ず開く」
「砂塵の牙ともあろう猛者たちが、この程度のことで狼狽えるなど情けないぞ。アズラーンの騎士団を見てみろ、誰一人動じずただ時を待っているだろう?我らも同じだ、今はただ―――余計なことは考えず構えていればいい」
不安がる同胞たちやエイミーを一喝するように、パーリは瞳を閉じたまま力強く呟いた。たぶん、彼女にも明確な根拠はない。でも、門が開くことを確信している。今日―――全てが変わると信じているのだ。
「パーリ‥‥」
初めて会った時とは見違えるほどに成長している彼女の姿を見て、僕の胸は不思議と熱くなった。砂塵の牙のリーダーであるという重責だけが彼女を変えたのではない。サン・クシェートラを変えようと闘う彼女の意志が、散ったジャワの遺志が、全てが影響して今の彼女が存在しているんだ。
「・・・」
「おや?どうしましたリリィさん、浮かない顔して」
「別に、何もないよ」
「アレは‥‥!おい、みんな見ろ!!門が!!」
一人の兵が、大きな声で叫んだ。
ついに―――戦いの時がやって来たのだ。
「門が開いていく‥‥!!」
サン・クシェートラへ続く重厚な門が、ゆっくりと開いた。中には先に侵入していた砂塵の牙の同胞が、手を振って進軍を促している。
「いよいよか‥‥!}
「ああ!長かったが、ようやくだ!}
「ついに時は来た!!悪しき王の治世は今日、我ら砂塵の牙の手によって終わりを迎える!!行くぞ同胞たちよ!!我らの輝かしき王国を魔の手から取り戻すのだ!!」
声高らかに、パーリが叫ぶ。彼女に感化された兵たちは張り裂けんばかりに雄叫びを上げ、怒涛の勢いでサン・クシェートラへと進軍を開始した。クヌム王とイリホルによる悪しき統治からの解放、呪わしき全てを断ち切るために。