そして女王の座へ
盛夏を越したカーボベルデの夜は、暑さも和らいで、いくらか過ごしやすい。
酔い醒ましのためであろうか、テオドールがひとり庭園に佇む姿を見て、ソフィアは胸に痛みを覚えた。
彼女が近づくと、テオドールは振り向き、月明かりの下で柔和に微笑んだ。
「考え事?」
「うん、君のことを考えてた」
「私のこと考えてるなら、話しかけてくれればいいのに」
「そうだね、ひとりで考えるより、ふたりで話し合った方がいい」
嫌な予感がした。少なくともそう感じさせる言い回しではあった。まるで彼とソフィアのあいだに、重大な問題が横たわっているかのような。
ソフィアはか細い声で尋ねた。
「私が、女王になること?」
「あぁ、ソフィーはすぐには受け入れなかったけど、この国のためには、それが一番いいと僕も思う。というより、それしか道はないと思う」
「そこまで言い切るなら、何を思い悩むの?」
「君が女王になったら、僕が君のそばにいるのは難しいんだ」
「だったら」
痛切なほどの胸の疼きに耐えつつ、ソフィアはことさらに明るい表情とからりとした声で、彼の深刻極まる発言を吹き払おうとした。たいした問題ではない、簡単な解決策があると、彼にも思ってほしかった。
「私は女王になんかならない。分かってるでしょ?」
「ソフィア」
「もともと私はそんな立派な人間じゃないもの。姉さんが女王様になって、私はあなたと暮らす」
「もちろん僕だって、君と暮らしたい。どうなっても、僕は君を愛してるし、守っていきたい」
「ならこの話は終わり」
「君は女王になるべきだよ」
ソフィアの笑顔が消えた。ソフィアが女王になるということは、彼女たちの別れを意味する。それはたった今、テオドール自身が言った通りである。彼女に女王になるよう勧めることは、彼女に別れを告げることにひとしい。
ソフィアは視線を外し、一転、彫刻のように無機質な表情になった。
「どうしてそんなことを言うの?」
「この国のためにはそれが一番いい選択なんだ。君たち自身が女王としてこの国を治めることが、君たち自身の志にかなう。それに、君たちはずっと一緒に頑張ってきた。今、女王の大任をソフィーだけに任せて、君だけその役目を放棄したら、国はまとまらない」
「そんなの知らない」
「ソフィア、君にも分かってるはずだよ」
「そんなの知らない! 私はただ、あなたと一緒にいたい。姉さんとも一緒にいたい。みんなでずっと一緒がいい」
語尾に、涙が混じった。その涙に、テオドールは気づいた。彼は無言で、包み込むようにして彼女を抱きしめた。
愛する男のにおいがする。はらりと下まぶたから雫が垂れ、それはあとからあとからとめどなくあふれた。我慢しようとしても、嗚咽が漏れるのをどうしようもない。
「セーヌに帰りたい……」
彼女は思わず、故郷の村の名を口にした。小さいが、平和で、穏やかな風の吹く村だった。何よりも彼女にとって貴重でいとおしいのが、あの村には彼女の両親がいて、彼女と血を分けた双子の姉がいて、多くの友人がいて、そしてテオドールがいた。太陽は恵みをもたらし、尽きることのない川の流れに、豊かなオリーブ農園。この上なく、美しい村だった。あの頃の、あの村に帰りたい。そして、村の人々に祝福を受けながら、彼女はテオドールと生涯の契りをかわすのだ。
それがかなうなら、彼女はなにも求めないし、なにも望まない。女王の位はもちろん、術者としての力さえもいらない。小市民として、静かに、つつましく、ただ幸せに暮らしたい。
テオドールは無言のまま、ソフィアを抱きしめた。彼には、ソフィアの思いが分かる。すべて分かっていた。誰よりも、彼はソフィアの願いをかなえてやりたかった。ソフィアを、どれだけ愛していたか。ソフィアが彼女自身の望むように平凡な小市民であったら、彼はすぐにでも彼女の伴侶たることを誓ったであろう。
だが事情は違う。ソフィアは女王となり、彼はそれを支える藩屏の筆頭たることを求められているのだ。この体制を彼自身、あるいは彼女自身が崩せば、せっかく成立しようとしている新秩序が無残に瓦解するかもしれない。ことに彼が懸念するのが、ルブラン・サロンが革命集団から権力組織へと変容したことでわずかながら生じつつある対立であった。少なくとも今、ソフィアとテオドールが政治中枢から離れるのは国にとって差し迫った危険がある。
そのことは、ソフィアにも理解できない話ではない。ただ、理解はできても納得や許容ができないのである。
彼女はしばらくテオドールの腕のなかで泣いたが、しばらくして彼女の方から離れていった。その足取りは重く、テオドールが引き止める余地は大いにあったが、ついに彼が声を発することはなかった。彼はこの場合、ただ無言でいることによって、この国のあり方を決めたということになる。
ソフィアは翌日、女王になるか否かについて、ソフィーと話し合う時間を持った。どんなときでも、彼女たちは互いが納得するまで話し合った。ソフィアは、姉であるからといってソフィーの言に盲従することはしなかったし、ソフィーもまた、妹を思うあまり自らの考えを曲げることはなかった。常に、ふたりで対等に意見を持ち寄り、結論を出した。少なくとも、両親を亡くし、ふたりで生きていくと決めたときから、彼女たちはそのようにして生きてきた。
「本当に、あなたはそれでいいの?」
ソフィアの決意に、一瞬、透き通るような沈黙の時間があって、そのあとに姉は問うた。姉は優しい人で、常に、それがソフィアにとってよい選択であるかを考えてくれた。
ソフィアにも、分からない。彼女にとって最良の結果はもたらさないかもしれない。が、せめて最善の選択であるとは信じたかった。
「うん、もう決めたことだから」
「あとで、後悔さえできないことよ。彼とも、ちゃんと話した?」
姉の言う彼の表情を思い起こして、ソフィアの視界いっぱいに涙がにじんだ。昨夜の彼は、ひどくさびしそうだった。それはソフィアと添い遂げることができないからに違いなかったが、とは言え、彼女がすべてを捨てて彼を選んだとしても、彼は喜ばないであろう。
だから、こうする以外に道はない。
それに、この選択は彼女の孤独を意味してはいない。ソフィアにはいつも、ソフィーがいた。これからもそうだし、彼女たちが離れることはない。ふたりが一緒なら、何があろうと支え合い生きてゆける。両親が亡くなり、すべてを失ったとき、彼女たちの希望はもはや互いの存在のほか何もなかった。今や、何もかもが恵まれている。
思えば、ブラニクが言ったのは、彼女に何事かを決める、最後の岐路を示してくれたのかもしれない。鳥かごの中の鳥になるか、それとも天空を飛翔する鳥になるか。選ぶのは、これが最後になるだろう。
ふたりはその結論を、サロンの筆頭格であるルブランに伝えた。
それからは、彼女たちが呆れるほどの早さで、物事は進んだ。ソフィーとソフィアの姉妹が女王に即位するという新体制の骨格が布告され、各地方は功労者たちに恩賞として分配され、彼らの役職や職務管掌も定められた。国名はロンバルディア王国となり、女王のもと、枢密院と呼ばれる議会集団が実質的な政治決定を行う形態である。女王の戴冠式は、なお戦火の続く地域があり、民衆の生活も安定しないことからごく小規模に行うこととする。そして五年以内に、都をカーボベルデから北のアリエージュ川沿いに位置するアルジャントゥイユへと遷す。
それらの決定事項が、姉妹の形式的な裁可のもと、流れるように次々と事務化されていった。
政治というのはどうも、彼女ら姉妹の理解の及ばぬ作用をするものらしい。
テオドールは、枢密院長になった。彼自身、新国家樹立に主導的な役目を果たし、ルブラン・サロン改め枢密院のメンバーからの人望はなお篤かったが、背景となる派閥づくりをしなかったこともあり、その権限や影響力は限定的で、実際には公正無私な全体のまとめ役といった役割から逸脱することはなかった。
ソフィアはそれを、複雑な思いで眺めている。
明らかに、テオドールはルブラン・サロンの初期の理想を失った枢密院のあり方に疑問と違和感を持ち、持ちつつもどうにもならない自分の無力さに失望し、消耗しているようであった。枢密院内部の水面下における軋轢は、徐々に、しかし着実に、その深刻さを深めていっている。
ソフィーとソフィアは、建国以前と同様、街に出て健康を害した人々の救済にあたることを欲した。実際、即位の直後は女王の身分でありながらずいぶんと気さくに大衆と接しては、惜しげなく術者としての責務を果たすことに専心した。彼女たちにとっては、政治の世界に口を挟むよりも、救うべき人々との触れ合いの方がはるかに意味がある。
彼女らの即位からちょうど一年が経過したある日、ブラニクがソフィアの巡察に同行を願い出た。ソフィーは王宮に残って国事行為にあたり、この日はソフィアが数人の近衛兵を連れ、単独で外出している。
この時期、ペストはほぼ完全に鎮静化し、先年の内乱で負傷や飢餓にさいなまれた者たちもすっかり救済されて、患者が群れをなすこともない。ただし、民衆にとっては些細な健康不安もたちどころに治癒してくれるというので、相変わらず術者の姉妹は女神のごとく崇拝されている。解放戦争終結の直後、各地方にあってルブラン・サロンの躍進ぶりに嫉妬や不満の思いを抱いていた有力者たちでさえ、姉妹の即位を聞いてさながら猫のように従順になったものである。術者姉妹の声望はもはや並びうる者がいない。彼女らが新女王となり、それに背くことは、誰にとっても自殺行為である。兵や民衆が従うはずがないからだ。
いずれにしても、都は平穏を取り戻している。
ソフィアは、穏やかな街並みが好きだ。ペストが蔓延し、内戦が勃発し、多くの人々が犠牲になった。そうした悲惨な時代を生き抜き、平和と希望を取り戻している。ソフィアの姿を、大人たちは拝むようにして仰ぎ、子供たちは屈託もなく明るい笑顔で駆け寄ってくる。
巡察は半日にわたり、最後に同行していたブラニクは晴れ渡ったような顔を見せた。常は見せない表情である。
「ソフィア、私は枢密院を退官することにしたわ」
ソフィアにとって、にわかには信じがたい話であった。ブラニクは枢密院で厚生院長を務めている。これはいわば大衆一般の健康増進を促す役割で、彼女はもとが薬商人だから、うってつけの仕事ではあった。粗悪な薬を売りつける詐欺まがいの商人を追放するなど、新体制でまさにその敏腕を発揮しつつあるところだった。
聞くと、枢密院内部で強まりつつある派閥抗争に嫌気が差したのだという。
ソフィアは、さびしくなる。
「ブラニクさん、私はまだまだあなたに相談したいことが」
「いいわよ。私は都にいるから、いつでも会いにきなさい。私も、あなたが描いた絵を見せてほしいわ」
しかし、海千山千の、酸いも甘いも噛み分けるブラニクほどの者でもやりきれないほど、枢密院の人々は派閥争いに血道を上げているのであろうか。
権力とは、元来の理想を曇らせ、人を醜く変える、強力な菌の温床なのかもしれない。
ソフィアには、空虚に思われてならない。




