命革むる時
「男子三日会わざれば刮目して見よ」
などという古い言葉があるが、2年以上ぶりにテオドールと顔を合わせたソフィアが、そのような陳腐で説教臭い言葉を思い出したか、どうか。
いずれにしても、ソフィアは無論、ソフィーも、あるいは旧知のアレックスやシャルルやヴァレンティノ、さらにルブラン・サロンの連中も瞠目するほどに、彼の姿は見違えていた。
背が伸び、長身のシャルルと並んでも遜色ないほどである。温厚でのびやかな人柄はそのまま、一方で少年じみた幼稚さや軽率さはすっかり消え失せ、いかにも君子然とした品性と威厳とが備わっている。その恵まれた人品骨柄は、人物鑑定の名人とされるモンテスキュー老人が絶賛したほどである。
彼は、家を弟のジョシュアに任せ、再び姉妹のもとへと戻ってきたのであった。ジョシュアは幼少ながらなかなかのしっかり者で、家は自分が見るからと、兄にその志を果たすよう背中を押してくれたらしい。
「ソフィア!」
「……テオ?」
誰よりも戸惑ったのが、ソフィアであった。彼女は、若者らしい英気溌溂とした爽やかな笑顔を浮かべ近づくテオドールに、それが彼であるという確信がありつつも、なおも別人ではないかと疑いたくなる気持ちをおさえかねた。その姿には、かつては彼女の弟のようにも思われた頼りなさと子供っぽさはない。
まるっきりの男だ、とソフィアは思い、その生物的な男臭さ、もっと生々しく言えば色気と表現してもよいかもしれないが、そうした気配に痛いほどの胸の疼きを覚えた。この痛切な、あるいは甘い感情の動きを自覚したとき、彼女ははっきりと、自分自身のテオドールに対する想いを知った。
しかしテオドールの方は、相変わらず女の心情というものに対して決定的に鈍感なようだ。
「ソフィア、会いたかったよ。元気そうだね」
「テオ、どうしたの、前触れもなく」
「君のことを守る、もう一度、その約束を守らせてほしいんだ」
「もう一度って、一度目はあなたの方から下りたくせに」
「ソフィア、怒ってるの?」
別に怒ってはいない。ただ、思い返すとつらく、悲しくなるだけだ。そのような力もないくせに、守る、守ると言いながら彼女について回るテオドールが、初めて彼の方から離れていったとき、ソフィアは形容しようのない喪失感を経験した。
「もう私から離れないで」
と素直に伝えたかった。だが、言えない。大勢の人が、彼女らの再会の様子を見守っている。ソフィアはただでさえ人前が苦手な上に、自分の色恋沙汰を人に見られるなど、想像しただけで頭に血が上って鼻血でも出そうである。
結局、彼女は何も言わず、唇を尖らせて奥に引っ込んでしまった。
セーヌ村時代からの仲間や名士たちはみながソフィアとテオドールの仲を知っており、誰もが彼女のそっけない態度に落胆したが、同時にテオドールの再合流を喜んだ。彼は常に率直で生真面目で、人との付き合いにもムラや裏表がなく、誰からも信頼を得られる一種の人望があった。2年以上にわたって離れていても、彼を忘れる者が一人としていなかったのが、その証左でもあろう。
彼は、単独で合流したわけではない。美しい女性と、召使いを数人連れている。女性は、ブーランジェ未亡人であった。彼女は姉妹の生まれ故郷であるセーヌの隣村、アディジェの村長であったが、姉妹の声望の高まりに憂世と報国の情をおさえがたく、テオドールとともにルブラン邸にその身を投じたのであった。
小規模な村ではあるが、ひとつの組織を指導し経営したその実務経験は、在野の士ばかりで構成されるルブラン・サロンにあっては貴重なものであった。
「いよいよ、陣容が整ってきたのではないか」
ルブラン・サロンの中心メンバーが額を寄せ合い、深刻でしかも胸の躍るような討議に花を咲かせたのは、その日の夕刻である。この場合の中心メンバーとは、大商人としてカーボベルデの都において巨大な経済的影響力を持つルブラン、カッシーニの両名と、随一の教育者として多くの門弟を世に送り出してきた教育者のクレッソン、そして遊説家のトルドーの四名である。彼らは思想的に非常に近しいメンバーで、いわば革命的精神を持った上流階級であった。富裕であり、一定の階層に対する影響力があり、かつ社会を正すためには、もはや宮廷の自浄作用には期待できず、革命による国体の転換こそが最善であると強く信じる人々である。
彼らがその思想を達成するためには、既存の支配体制を破壊するための武力も組織も必要であったが、目下、それらを欠いている。だが何よりも不可欠なのが、革命運動の核となる指導者であった。これがなければ、軍をまとめることができず、組織をつくることもできない。
その指導者を、我々は得たのではないか。
と、彼らはそう考え始めたのである。
翌日、彼らはサロンのメンバーに緊急の集合を呼びかけ、晩餐のあとで自らの考えを諮った。
「ご一同、この席には我ら同志の全員が集っている。実は同志が一堂に会するのはこれが初めてのことだ。実に喜ばしい。そして今晩はひとつご一同に提案がある」
名士連合は20名、これに護衛隊と姉妹を加えて都合30名以上が顔を並べたルブラン邸のダイニングは席が足りず、幾人かは立ったまま話を聞いている。ほとんどの者は、何事かと興味津々の様子であった。
主催者のルブランは、なおも誇らしげな笑みを浮かべ、続ける。
「我々はここにおられる偉大な術者姉妹を通じて面識を得、ともに国難を論じた。このなかに、国の惨状を憂えぬ者はいまい。もはやこの国を蘇らせるためには、力をもってするほかない」
ルブランのあまりにも核心を突いた発言に、列席者の何割かは生唾を飲み込み、ソフィーもやや不安げな表情を浮かべた。ソフィアは耳を塞いでしまいたいほどに、緊張で全身を硬直させている。
そしてルブランは、思いもかけない提案を披露した。
「力によって国体を正すには、指導者が不可欠である。今日はその指導者を決め、我ら一同、心を合わせ、力を合わせ、体制の変革に邁進してゆきたいと存ずる。その指導者に、私はテオドール・ルモワーヌ氏を推挙したい」
「えっ、ちょっと待って」
最も早く反応したのは、ソフィアであった。当のテオドールは、ぽかんと口を開けて、戸惑いを隠せない様子である。
「テオを叛乱軍の指導者にするってこと?そんなの、テオに務まるわけない」
「ソフィアお嬢さん、ルモワーヌ氏には指導者としての生まれながらの資質がある。我らを率い、解放運動を成功に導くには、彼のように若く、人望に恵まれた信義の人にお願いしたい」
その通り、といういくつかの声が上がって、ソフィアはいよいよ頬を紅潮させ、叫ぶように反対を口にした。
「そんなのダメ、絶対にダメよ!テオはおとなしくて、優しいだけが取り柄なの。彼を叛乱の指導者なんかに担ぎ上げて利用しようなんて、絶対にダメ!私は絶対に認めない!」
「ソフィアお嬢さん」
まるで我が愛娘を見るような眼差しと微笑で、ルブランはそう言った。ソフィー、ソフィアの姉妹をお嬢さん、と呼ぶのは、サロンのメンバーの共通言語のようになっている。偉大な術者に対して呼び捨てるのは気が引けるし、多くの者にとって妹や娘のような、あるいは孫娘のような彼女らに対してあまりに大仰な敬称をつけるのも馴染まぬ、というので、みながそう呼んでいる。
「彼には指導者の器がある。ここに集まった有志たちは、みなそれぞれに多くの人物を鑑定し、様々な知識や経験を得ている。その多くが、彼をこそ指導者として仰ぎたいと申し出ている。それに、これは叛乱ではなく、解放である。もはや、この国の命数は尽き、天は新たな国の誕生を待っている。天命に背きし国家の久しからざること言うに及ばず、今こそ命革むる時である」
「難しいこと言わないで!何を言ってみても、うまくいきっこないんだから!」
ソフィアは助けを求めるようにして、姉や、アレックスら古い仲間たちに意見を求めた。彼ら、彼女らなら、ルブランらの突拍子もない、無謀としか思えない提案に明確な異論を唱えるに違いないと考えたのである。
しかし、ソフィアにとって想像もできなかったことに、色よい返事が得られない。
「私は、政治向きのことに口を出すつもりは一切ないわ。私は自分の力を、ただ病気や怪我で苦しむ人たちのために使いたい。だから、これはテオが自分で考えて、自分で答えを出す問題だと思う」
「俺はいいと思うぜ。俺たちの村から解放戦争の指導者が出るなんて、村の誇りだ。それにこんだけの偉いさんが集まって、揃ってテオを支持するってんなら、それがテオの運命ってやつなんだろうさ」
ソフィーやアレックスのそうした意見に、ソフィアは耳を疑う思いであった。みな気が狂ったのだろうか、と本気で思った。より絶望したのは、彼女のほかに、テオドールを指導者として仰ぐ案に反対の意を示した者が一人としていなかったという事実である。彼女の知らぬところで、テオドールの人望とやらは独り歩きを始めているらしい。
(テオがまた、いなくなる)
ソフィアは血を吐くような激しさで号泣した。彼女が想い続けた男は、再び彼女の前に現れてすぐ、今度は不毛で無謀な自称解放運動の指導者に祭り上げられ、連れ去られてゆくのである。
ブラニクとブーランジェ未亡人が、泣き崩れるソフィアを抱きかかえるようにして別室へと引き取った。
そのあと、反対者のいなくなった座において、ルブランら有志連合は結束してテオドールに指導者の地位を要請した。
ルブランが天命を告げる。
カッシーニが野心に訴える。
クレッソンが思想を説く。
トルドーが利害を講じる。
チェーザレが情勢を諭す。
ルブラン・サロンは、まさに多士済々と言っていい。それら有為の人物たちが、代わるがわるテオドールに受諾を求める。だがテオドールは決して首を縦には振らなかった。というより、振ることができなかった。ほかの誰がどう働きかけようと、彼の忠誠心はソフィア以外に微塵も向けられてはいなかったのだ。
女心というものにおよそ致命的に鈍感な彼であったが、あるいはこの2年ほどで少しは成長したのであろうか。ソフィアが泣いて反対した理由が、分かる気がした。彼女は、テオドールを失いたくなかったのだ。テオドールに離れてほしくなかったし、危険な目に遭うことも容認できないと思ったのであろう。彼にはそれがうれしかった。ソフィアの流した涙が、彼の心にあたたかいしみを点々とつけてゆく気がした。
ソフィアが納得するまで、彼にはその役を請けることはできない。
名士たちはあまりに頑固なテオドールの保留の前についに根負けし、落胆と失望のなかで当夜は解散した。
人の動く気配がすべて消えてから、テオドールは姉妹の部屋を忍ぶようにして訪ねた。




