あなたのことを愛せるかしら
「私、あなたのことを愛せるかしら」
彼女は僕に、子供みたいに無邪気な声で、しかし冷たく微笑んでそう告げた。
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ベルギン王国成立から続く、歴史あるドーヴァー侯爵家に連なる者とはいえ、妾の産んだ四男にすぎない僕ヴァイスが、プロヴァンス公爵家の三女セリアと婚約をすることになったのは腹違いの長兄ドレイクのおせっかいだろうか。魔術学院の最高学年、3年生に上がった夏に手紙で知らされた時はそう思った。顔合わせは学院を卒業してから、らしい。
ドレイク兄様は3つの時に流行病で母親を亡くした経験からか、物心つく前にドーヴァー家のメイドだった母を亡くした僕を気にかけてくれている。
おかげで僕はあまり苦労せずに18歳まで成長できたし、魔術の才能があると分かるや魔術学院に3年間も通わせてくれている。そして、侯爵家お抱えの魔術師にならず、より多くの人を助けたいと陸軍に入る事さえ許してくれた。
この婚約も、いい結婚をしてほしいという兄の心遣いなのだろうか。
もっとも、去年亡くなった父から家督を継いだドレイク兄様が、次兄のリーヴェス兄様との権力争いを有利にするために、魔術の使える僕を味方にしておきたかっただけ、と言われればそれまでかもしれないが、僕は優しい長兄を慕っているし、それでも構わないと思っている。
「ヴァイス、プロヴァンス公爵家との縁談の件だが、来週顔合わせになったからな。配属はまだだろう?それまでうちでゆっくりするといい」
「はい。兄様、ありがとうございます。配属先はまだ未定だそうですし、まだ2週間も先のことなので」
学園をこの春卒業し、配属待ちとなっている僕は、ドレイク兄様の執務室に呼び出されていた。
「そうか。それならよかった。セリア様は美しいと専らの噂だからな、楽しみにしておけよ」
「え、ええ、そのようですね…」
にっこりと笑う兄に僕は苦笑いで返すしか出来ない。眉目秀麗な兄と違って僕は醜男までとは言わないが凡庸な容姿をしている…と思っている。要するにあまり顔面に自信がないのだ。それを気にしているからあまり容姿の話をして欲しくなかったので、予定を繰り上げて逃げ出すことにした。
「すみません兄様、僕は鍛錬がありますので失礼します」
「そうか。励めよ」
そう言って書類仕事を始める兄を尻目に執務室を後にする。
プライドが高くない人だといいなと思いながらため息をついた。
そして、顔合わせの当日。兄とプロヴァンス公爵は別室で話をしているらしい。応接室に案内された僕は噂に違わぬ美少女を見た。
整った口許。肩まで伸ばしたストロベリーブロンドの髪。少し幼さを残した双眸が煌めく。黄金比の化身とも言うべきだと思った。
お互いの軽い自己紹介の後で、冷たく微笑みながら彼女は言う。
「私、あなたの事を愛せるかしら」
少しの間を置いて、彼女は続ける。
「だって、私と貴方が婚約するのは、ドーヴァー侯爵の要望と、有能な魔術師を取り込んでおきたいお父様の意思でしょう?」
「魔術学院を優秀な成績で卒業したと聞いて、私はどんな頼りになりそうな人が来るかと期待してたのに、正直がっかりだわ。貴方みたいな、なよなよした醜男と結婚なんてしたくはないのよ。それに貴方、軍に入るってことは爵位を持たないのでしょう?それも嫌だわ」
散々な言われようだ。元から低かった自己評価は更に1段階下げないといけないらしい。たしかに彼女のような美少女が僕なんかと結婚するのは納得できないものがあるのだろう。
「そんな事は…いえ、全て事実なのでしょう。セリア様には申し訳無い限りです」
「あら、口ごたえしないのね。物わかりが良くて助かるわ。結婚したら私は愛人を作るし、貴方も作ればいいのよ。それで万事解決するわ。いいでしょ?」
「ええ、もちろんですよ。」
僕としても彼女のような高嶺の花と愛のある結婚ができるだなんて元から思っていなかった。分不相応というやつだ。
それに、政略結婚をするのが貴族に産まれた者の務めのような側面もあるが、望まない結婚を強いられる彼女を不憫に思えたのかもしれない。仮面夫婦になることで丸く収まるのならそれでいいと思う。
話が済んだのか、部屋に入ってくるプロヴァンス公爵と兄を見ながら、婚約を断られなくて良かったと、そう思った。
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"ヴェールヌイの氷" "不殺の貴公子"そんな13、4歳の少年が大喜びしそうな二つ名を付けられた心境は、あまり気分のいいものでは無かった。
国境のヴェールヌイ砦に配属されてすぐ始まった、西の隣国との戦争で僕は"英雄"になった。小っ恥ずかしい二つ名が付くほどの活躍、砦を包囲する敵を丸ごと低体温症にして捕虜にしたのは事実だが、敵がこちらを寡兵だと侮って油断していたのもあるだろうし、"不殺"なのは、緊張からか得意なはずの氷魔術の効果範囲を広くしすぎて魔力量が足りなかっただけなので、それを聞く度にげんなりする。
そして敵国が降伏したのは、僕が関係ない正面戦線で快勝を遂げた精鋭部隊のおかげだという事実も僕の気分がいまいち晴れない理由だった。
王都に凱旋して、半ば無理矢理参加させられた戦勝記念のパーティでは、たくさんの貴族令嬢に話しかけられたが、彼女たちは僕自身ではなく、"英雄"の称号に釣られているのが感覚で理解できて居心地が悪かったのを覚えている。
上っ面でだけちやほやされて、裏で醜男だなんだと陰口を叩かれるのよりも、最初から辛辣な対応の婚約者の方がまだ気分の持ちようが楽だと思った。
それから1週間、世間の戦勝ムードは未だ冷めやらない。しばらくは式典に参列するため王都に滞在することになった僕は、プロヴァンス公爵に呼び出された。
「やぁ、よく来てくれたねヴァイス君。噂は聞いているよ。なんでも1個旅団を捕虜にしたそうじゃないか。私の眼に狂いは無かった。義父として鼻が高いよ」
「過大な評価、感謝いたします」
「謙遜することではないさ。君は英雄だ。それで、君に来てもらったのは、セリアが直接会いたいと言うからなんだ。今呼んで来させるよ。私はまだ執務があるから失礼するけど、気にせず寛いでいてほしいな」
「お気遣いありがとうございます」
応接室を出ていく公爵を見送ってから、5分ほどしてセリア様がやってきた。相変わらず今日も美しかった。
「こんにちは"不殺の貴公子"様。周りからチヤホヤされて、お父様にも褒められて、すっかりご機嫌のようね」
「お久しぶりです。セリア様。お元気そうで何よりです」
「まぁいいわ、私が貴方を呼んだ理由は一つだけ。あんまり良い気にならないことね」
「いい?貴方が気持ち悪い二つ名まで付けられてチヤホヤされてるのは貴族も戦争に貢献してます、っていうプロパガンダなの、それを分かってるの?」
「いえ、考えもみませんでした…お恥ずかしい限りです」
言われてみれば、この戦争で有名になった僕以外の軍人は3人いるがみんな平民だと聞く。彼女の言葉には説得力があった。
「そして、"英雄"になったから私が貴方に靡くなんて思ってたら、それは大間違いよ。政略的要素が無かったら今すぐ婚約解消したいぐらいだわ」
「でも、そうね。別に貴方の戦果は戦争を終わらせるのを少し早めたぐらいのもので、あってもなくても勝ち負けに関係はないのだけれど、ヴェールヌイ砦の東にある集落の避難が完了していなかったそうね。彼らを略奪から守れたこと。そこだけは褒めてあげる。」
思わず俯いていた顔を勢いよく上げてしまった。そうだ。本来ならヴェールヌイ砦に拘らず、後方に下がって味方と合流するのが定石で、それをしなかったのはまさしく彼女の言う通りだったからだ。
でも、戦勝記念のパーティで出会ったご令嬢はみな、僕のことを曖昧に"すごいひと"としか認識していなかった。陸軍大臣も、プロヴァンス公爵でさえも"3000人を捕虜にした魔術師"だった。
けれど彼女は、彼女だけは、僕のことを"無辜の人々を守った軍人"として見てくれた。その事実に酷く心を打たれて、彼女と婚約している僕はなんて果報者なのだろうかと、改めて思った。
「ご存知だったのですね…。ありがとうございます。軍人として、最高の栄誉かと思います」
「あら、これくらい少し調べればわかる事だわ。要件は以上よ。もう帰っていいわ」
もう一度彼女に礼を言ってから公爵家を後にして、あてがわれている宿へ戻る。
街角の喧騒をぼんやりと眺めながら、彼女のような素晴らしい女性と結婚できるなら愛されなくても構わないと思った。そして同時に、彼女の理想になれない自分に対して深く失望した。
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世間が西の隣国との戦争も、僕のことも忘れ去った夏の終わり、僕は北の隣国との国境近くにある城塞都市セヴァトに居た。
西の隣国との戦争で経済的に成長した我が国を警戒してか、北の国は軍拡をしているらしく、万が一のために名前の通った魔術師を駐留させたい上層部の方針だろう。
訓練が休みの日に、セリア様への手紙を書いた。
北の大地はもう肌寒いこと。名物のニシンが美味しかったので一緒に送ること。天気がいい日には東に綺麗な海が見えること。そして1個中隊を預かる中隊長になったこと。
プロヴァンス公爵領特産の林檎のジャムと一緒に届いた返信には、 こちらはまだ暑いこと。ニシンのお返しに林檎のジャムを作ったこと。いつか海に行ってみたいこと。そんなことが綺麗な文字で綴られていた。
ラブレターを送ったわけでも無いのに、返事が来たのがとても嬉しかった。
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「セリア様、お久しぶりです。俺のためにここまで来てくれたのですか?ありがとうございます」
北の国との戦争が終わって兵士が帰還するというので、私はお父様に言われて婚約者を王都の外郭にある門まで迎えに行った。
1年振りに会った婚約者は、一人称や立ち姿、雰囲気まで、何もかもが変わっていて本当に同じ人物かと疑いたくなった。
「おかえりなさい、ヴァイス。よく帰ってきたわね。お父様が会いたいと言っているの、今日は公爵家の別荘で休んでいきなさい」
「申し訳ありません、これから国王陛下に謁見するので今からは…夕方になら伺えると思います」
「あら、ごめんなさい。無理を言ったわね。夕方からでも構わないわ、お父様に伝えておいてあげる」
「せっかく出迎えて頂いたのに申し訳ありません、急いでおりますので失礼します」
馬に乗って王城の方へ去っていく婚約者の額に大きな傷は無かったし、こんな陰鬱な顔をする人でもなかったし、なにより冷たいオーラを纏うような男では無かったけれど、あの戦争を乗り越えた後なら仕方ないと思った。
城塞都市セヴァトから届いた手紙に返事をしてひと月ほどしたある日の朝、王国に激震が走った。北の国が宣戦布告も無しに攻めてきたというのだ。今日の夜明けとともにセヴァトには砲弾が雨あられと降り注いで、激しい攻城戦が始まったらしい。
北の国が軍拡をしていることは知っていたが、こんなに早く事に及ぶとは思っていなかった。愛しくも何ともない婚約者の事が少し気になったが、そんな事より我が国は勝てるのかどうかが心配だった。
2日ほどして詳しい戦況の情報が入ってきた。未だ激しい戦闘が続いているが、陸軍第25魔術中隊がセヴァト北西の丘に陣取る敵1個師団1万人を壊滅させたらしい。25という数字に見覚えがあったと思えば、それはヴァイスの率いる中隊で、彼は本物の英雄になってしまったのだろう。
この大きな一撃で戦争は終わらなかった。1週間の戦闘で3万人が籠る堅牢な城塞都市セヴァトを北の国は遂に落とせず撤退したが、散発的な戦闘は続いているらしく、食料を得るために蹂躙された村や集落もあると聞く。西の隣国との戦争のようなあまっちょろいものではなかった。
それでも戦争が始まってから1年が経とうとする頃に起きた、第三次セヴァト攻囲戦で主力の近衛師団を氷漬けにされた北の国は遂に降伏し戦争は終わった。
もちろん氷漬けにした主犯はヴァイスで、世間は
「セヴァトの鬼神」「溶けない氷」「救国の吹雪」などなど年頃の少年のようなセンスで彼を褒めたたえたが、彼の心は晴れないようだった。
恐らく救えなかった人々の事を気にしているのだろう。出撃していたら村や集落を救えていたのに、と。
酷い話だが、セヴァトの司令部は切り札のヴァイスを失う可能性と、小規模な村が壊滅することを天秤にかけ、後者を選び、出撃を許可しなかったのだろう。大局的に見れば仕方の無い話だ。ヴァイスが居なければ戦争に負けていたかもしれない活躍を彼は開戦時にかましている。
それが彼の諦観の理由だと思っている。それが軍に対してなのか、司令部に対してなのか、それともこの国に対してなのかは分からないが。
夕方になって、お父様と私の待つ別荘に彼はやってきた。
「ヴァイス君。さすがだよ。君はこの国1番の魔術師じゃないのかね?義理の父親として誇らしいよ」
「ありがとうございます。ですが、それは言い過ぎですよ、お義父さま。私の上などいくらでもいます」
「そんな事はないさ。ヴァイス君、君はもっと誇っていいんだよ」
「そうですか…そうですね」
満面の笑みで彼の事をしきりに褒めるお父様と対照的に、彼の笑顔はどこか冷めていて、それはお父様が勧めた高級ワインを二、三杯飲み干しても変わらなかった事が印象に残った。
すっかり夜が更けてしまったので、ヴァイスは泊まっていくらしい。嬉しくなったお父様は私の部屋で寝るように言ったが、さすがに思い直して客用の寝室を準備させたようだった。
私は何故か寝付けなくて、キッチンへ水を飲みに行った。
侍女はいるが、夜中に起こすのは気が引けたからだ。
彼の部屋の前を通る時、どこからからすすり泣くような声がして、不審に思った私は部屋のドアを開けると、ベッドに座った彼が泣いていた。
「セリア様…これは違うのです。なんでもありません。目にごみが入っただけで…」
「ヴァイス、嘘を吐かなくていいわ。泣いていたのね。私でよかったら、話を聞くわ」
自分ではこんなこと言うつもりもなかったのに、そんな事を言っていた。
人目がある所では気丈に振舞って、独り寂しく泣いていた彼を哀れに思ったのかもしれない。
「セリア様、俺は人殺しです。みんな俺の事を英雄と言いますが、違うんです。俺はただの…人殺しです」
「それは違うわ。貴方は人殺しなんかじゃない。確かに敵の兵士を殺めたでしょう。でも貴方がそれをしなきゃ、代わりにセヴァトは陥落してもっと多くの人が死んだわ」
「違うんです。セリア様、そんなことを言っているんじゃありません。敵をたくさん殺めた事に何の後悔もありません。」
「俺は、助けられる命を見殺しにしたんです。カピス村にデカエ村…きっと、救援要請が出てすぐ向かえば、助かったはずなんだ…」
「それに、俺のせいでたくさん部下が死んだ…クレッセにカルハ、そして俺の副官だったロビンは俺を庇って死んだんです。ご存知ですか?俺の中隊の損耗率は他の中隊と比べて恐ろしく高かった…敵から目をつけられていたのでしょう。俺の中隊にいたから、パイダもクイフェも死んだんです。他の隊にいたら死ぬことは無かったんです。俺の、僕のせいで…」
ヴァイスは泣きながらそう言う。誰にも言えなかったのだろう。戦争で副官も、部下も失った彼は孤独に見えた。
「それも違うわ。どうせ上から出撃を許可されなかったのでしょう?規律を守れない軍人は軍人では無いわ。それに、その場合悪いのは貴方じゃない。出撃を許可しなかった上層部よ」
「部下が貴方のせいで亡くなったと言ったわね。それはそうかもしれないわね。でも、それを気に病んでいてはいけない。彼らは貴方の後悔になりたくて死んだわけじゃないでしょう?」
「でも…」
子供のように泣きじゃくる彼を強く抱き締めて言う。
「ヴァイス、貴方は悪くないわ。きっと彼らは戦って散る事に後悔はしていない。それに、彼らも前を向いて欲しいと思っているはず。
彼らの事は心の片隅にしまって、貴方は生きていくの」
「大丈夫。1人で抱えきれなくなったら私がいるわ。私も一緒に背負って、生きてあげる」
「セリア…様…」
自分の口から出た言葉に自分でも驚くが、それでいいと思えた。今の彼は初めて出会った時の頼りなさげな醜男ではなく、1人前の魔術師で、人々を救った英雄で、そして部下の死に責任を感じて独り泣いている男だ。
そんな彼と一緒に生きるのも悪くないと思う。頼りがいのない男は好きではないが、責任感のある男は好みだった。
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凱旋のパレードや、戦勝記念の夜会が終わってすぐにセリアと結婚式を挙げた。ドレス姿の彼女は例えようのない程美しくて、しばらく目が離せなかったのを覚えている。
戦功褒賞では領地と爵位を賜って辺境伯になった。西の隣国との国境の辺りで、ヴェールヌイ砦もある。国防上大事な土地だ。
「ヴァイス見て、綺麗なシロツメクサだわ。ここで休憩していきましょう?」
領地の屋敷へ向かう馬車を止めて、シロツメクサが咲き誇る野原に佇む彼女の後ろ姿は酷く絵になった。
「ねぇヴァイス、私、あなたのことを深く愛せるかしら?」
くるりと僕の方へ振り返って、最初に会った時とはまるで違う笑顔で、彼女は僕にそう言った。