幕間 ディアーシュ
魔王。
普通の人々にとっては、今やおとぎ話の存在。
「けれど我々王族にとっては、夢語りではなく、実在する脅威だ」
そんなアインヴェイル王国の炎の魔王は、火の魔力が最も高い場所――いくつかある火山で、遭遇することが多い。
だからこそ、アインヴェイル王国の人々は火山への入山を禁止されている。出会えば命はないからだ。
それでも強行した者によって、その存在が語り継がれ、魔王だとわからないまでも生贄を捧げて怒りを鎮める相手にすることもある。
王家はそれを規制するよう求めていたが、小さな村などで新しくそんな風習が作られてしまうと、気づくのにややかかるのだ。
その一つに、悪魔のような聖女がひっかかった。
「突き止めるまでに時間がかかったことが、痛かったな」
最初、あの女はラーフェン王国の出身であることも隠していた。神様に選ばれて、アインヴェイル王国に降り立ったのだと言って。
アリアを生贄にした村人達も、自分達が聖女をしいたげたことを知られたくなくて隠していたし、神殿はいち早くアリアを保護して、なかなかその身元を知るための情報が揃わなかったのだ。
「あの女に力を与えて、お前は何がしたかったのだ?」
目の前の、蒸気を上げる火口の上に浮かぶ、表情のない魔王に言う。
『早く私と代わるがいい』
そう言った次の瞬間には、憎々し気な顔をして吐き捨てる。
『この国世界など滅びてしまえばいい』
すっと水が引くように、また表情が消えた。
『ほら、滅んでは大変だろう?』
まるで他人ごとのように言う魔王。
あまりに今の器となった人物の恨みが深すぎて、思うように身動きできないのだ。魔王が人の世にあまり干渉しないとはいえ、その魂を維持するために、この魔王は炎の魔力が強い場所にいたい。
なのに器に残った意識が、恨みの対象である魔王の動きまで制限する。
この炎の魔王が弱々しい火山にいるのは、器のせいなのだ。
だから、早々に器を変えたくて、ここしばらくは人の世に干渉してくる。
器を使う頃合いではないのに、私の叔父を早々に召し上げようとして混乱を起こしたり。
「……もっと早く気づくべきだったな」
精霊を惹きつけるのなら、魔王の力ではないのかもしれない、と思ってしまったのが間違いだった。
「お前が人間の娘に力を与えるとは……」
私の言葉に、魔王がニィと口の端を上げる。
無だった元々の魔王の顔に、変化を起こしたが、たいして嬉しくもない。
『お前が早く私の物にならないからだ。人の世を混乱させ、お前に私を捧げさせるのと引き換えに、力を手に入れたいと思わせるのにふさわしい女だった』
腹立たしい言い分だ。
しかし魔王の推測は当たっていた。
もしリズが現れて、錬金術で対策ができるアイテムを作ってくれなかったら、私は魔王に会いに行っただろう。
魔王となって、ほんのわずかの間でもその力を自分の意志で振るえるなら、あの女を始末できる。
公爵家の後継ぎがいないことや、女王陛下が私の命を惜しんで止めてくれていたから踏み切れずにいただけだ。
そして今の目的は、少し違う。
――命を賭けない方法を探すのだ。
女王陛下の言葉を思い出す。
――どうしてもなかった場合にだけ、そなたが魔王になるといい。
微笑みながら、女王陛下は最後に付け加えた。
――私達では代わってやれぬ。厳格な条件から、私や息子は外れてしまっている。だから最後はお前が決めるべきだろう、ディアーシュ。どれを選んでも、最大限支援する。
女王陛下から言われて、私は悩んだ。
結果的に、今こうしてアインヴェイル王国の状況を悪くしているのは炎の魔王だ。
私が魔王の器になってしまえば、先代のようにこの国を恨むことはない。
先代の器のように魔王を恨む気持ちもほとんどない。
たった一人きりで魔物が巣食う森へ放り出されたその時。以前よりも強い魔力を開花させたのは、幼いままでは器にはできないという思惑があったにせよ、炎の魔王自身だったから。
(でも、ここまで自分がずるずると来てしまったのは)
桜色の髪の少女の姿が思い浮かぶ。
自分が死なずに乗り越えられる道まで示してくれた。そのことで私はまだ『生き続けていられる』のだ。
リズに、守られているから。
子供の姿の彼女しか知らない間は、そのことを無意識に認めまいとしていた。
けれど自分と大差ない年齢の人間だったと知って、たぶん安心したのだ。
リズの本当の姿を見た二度目から、彼女は頼ってもいい相手へと印象が変化していた。
だから彼女を精霊との戦いに連れて行くことも、問題無いと考えていた。
事情を聞いても、一つも驚かなかった。
むしろ聖女アリアに憎まれているのだとわかって、私はほっとしたのかもしれない。
自分と同じなら、彼女はずっと私の味方のままでいてくれるだろうと。
そんな彼女に、どうしても私が魔王になってしまえば問題はなくなると、自分から言うことができなかった。
しかし……見つけてしまった。安全な方法ではないものの、生き残る可能性がある。
それを見つけた後でも、リズに直接説明するのをためらった。
「今頃、アガサが説明しているだろうが……」
炎の魔王の鎖から、魔力が伝わってきていた。
相手の魔力に支配されたとたんに、自分はただの器に成り果てるだろう。
その少し前。炎の魔王の力が削がれたところで、こちらが炎の魔王を数秒だけでも支配し、聖女アリアから力を引き戻する。
だが、以前よりも炎の魔王の魔力が強い気がする。
(なぜだ?)
魔王の魔力が急に増えることなどない。何かをしなければ。
(何か……まさか)
嫌がらせのためだけに、聖女なんて代物を作ったのか? と疑問は感じていた。
それが、もし……炎の魔王自身の力を強める目的だったとしたら。
(あの女は精霊を使役する。従わせた精霊から、力を奪うなど造作もない。その力が……炎の魔王自身に移動するようになっているのかもしれない)
こちらが気づいたことを察したように、炎の魔王が楽し気に目を輝かせる。
(それでも、やるしかない)
まだ、こちらの意図までは気づかれていないはずだ。
炎の魔王の力に浸食されそうになるが、なにかを考えてはいても、なにかわからないように表情を平静に保つ。
対する魔王は、次第に苛立った表情になっていった。
『強情な……』
「その体の主は、その程度でもよかったのだろうが、私には生ぬるいな」
このあたりが限界だ。
私は鎖を剣で断ち切る。そして魔力をある程度失い、弱っているはずの魔王に衝撃を与えて、さらに攻撃をくわえようとしたところで……逃げられた。
赤い羽根が飛び散り、姿を消してしまったのだ。
逃げられたことに怒りを感じたが、もう一度やればいいと思い直す。
あちらも、私にダメージを与えたと思っているはずだ。私を餌に、いくらでもおびき寄せられるはずだ。
ただ、一度態勢を整えなければならない。
私は馬がいる場所へ戻るつもりだったが、途中で意識が途切れる。
思った以上に、魔王の力による浸食が体をむしばんでいた。
炎の海に飲み込まれて行くような、そんな幻の中に放り込まれて、どこまでも沈んでいく気分になる。
(このままでは……)
今までも、魔王は私を乗っ取ろうとしたことがあった。けれど今回ばかりは酷い状態だ。
魔王に浸食されてしまうかと危ぶんだ時、ふいに何か違う流れを感じた。
炎の魔王の力を止めてしまう流れ。
そうして炎の魔王の力を侵食していき、かといって自分に苦しさを感じさせない。
(なんだ? どこかで覚えがある……)
思い出そうとしているうちに、意識が浮上した。
そして――その流れの主がリズだと知ったのだ。
感謝と、よくわからない気持ちが混ざり合った末に、リズを抱きしめようとしてしまった。
が、腕の中に閉じ込めるのだけは踏みとどまった。
それでも触れているだけで、どこか心が落ち着く。
これはどうしてなのだろう。保護者として拾ったからなのか?
悩む気持ちもあったが、ただ今はまだ、リズがそこにいることだけを感じていたかった。