一話 僕の思い出は熟女エルフから始まる
僕の名前は田野山川大。
身長は百六十二。マシュマロバディに天然パーマ。
歳は二十一。彼女無。
アルバイトは数ヵ月前に辞めた。
普遍的な、いや、むしろ恵まれた人生を送ってきたのだが何故だろう。
ニンゲンシッカクという有名な小説を気紛れに読んだせいか、突然に生きることが虚しく充実感がなくなった。
つまり早くも人生に飽きた。
数少ない友人達が疎遠になっていき将来の目標も家出した。
現在は趣味のアニメに漫画にソシャゲに動画を楽しむだけの毎日だ。
それでいいのかも知れないけど、親の小言、二人の兄と一人の姉の背中、それを受けて意識が変わった。
悪い方に。現実逃避したいと。
そこで適当にネット検索してみたところ、こんな都市伝説を見つけた。
「紙に赤色で飽きたと書いて枕の下に入れて寝ると異世界へ行ける」
きたこれ。
これくらいなら試しにやってやろうと面白半分に思った。
古来より枕は魂を現世から夢の世界へ移動させる呪具と付け加えてある。
ふん、馬鹿言え。少しも信じてないし少しも期待しないぞ。
成功した。
夢の中でクリスマスカラーのめでたい妖精の後をついて歩いていると、よく知る町の景色がぼんやり遠ざかっていって、気が付けば見知らぬ役所に辿り着いていた。
やがてボヤけていた視界が鮮明になって、すっかり夢から覚めた。
役所内は会話が絶え間なく忙しそうだった。
左には僕がいま抜けてきた扉がある。
それも含めて役所内は、昔の学校校舎みたいに、ほとんど木を加工した温かな雰囲気で出来ていた。
すぐそこに座っている耳の尖ったスーツ姿のお姉さんと目が合った。
どうぞ、と手で示して、笑顔で俺の行動を待ってくれている。
これは現実なんだと心が勝手に受け入れて、体が椅子を引いて腰を下ろした。
整然とした机の上には、異世界人歓迎課、と書かれたプレートが先頭に立っていた。
クッションは柔らかく尻に優しい。
お姉さんが待っていました、という風に息を吸って明るくハキハキと話し始めた。
「こんにちは。私の言葉は分かりますか?」
「はい」
「はじめまして。異世界へようこそ」
「はい」
お姉さんは机の下から辞典みたいに分厚い資料を取り出してドンと僕に寄越した。
異世界を舐め腐っているのか日本語と漢字が並んでいる。
「私はあなたのように、こちらへとやってくる方を歓迎する異世界人歓迎課に勤めております、川西池田と申します」
「はい」
「まず初めに、あなたが現在いらっしゃるこの世界について簡単にご説明致します。この異世界はあなたが暮らしていた世界の、いわゆる平行世界になります。言語といった様々な繋がりがあなたをここへと導きました」
ダブル名字のお姉さんは続けて、この世界について説明を色々としてくれたはずだ。
脳が混乱していた僕は「はい」とだけ答え続けて、それを嫌った耳が右から左へと受け流してしまった。
辞典のような資料を読めばいいらしいので、後でそうしよう。
後で?どこで?
「まずは、住民登録をしなければなりません。こちらの機械に、人差し指をかざしてください」
近代的な小型機械に言われるがままに人差し指をかざすと、ピッ、と軽い電子音がした。
それで終わりらしい。
一瞬の間に、僕は遺伝子情報と指紋を盗まれてしまった。
「この世界ではライフポイントを消費して対価を支払うシステムとなっております。これと同じような機械があちこちにありますので、支払い時に人差し指をかざしてくだされば結構です」
「はい」としか返事できない。
理解も追い付かない。
そして、お姉さんはロボットみたいに止まらない。
僕は抵抗をやめて緩やかに受け入れ態勢に入った。
背もたれは木製らしく固い。
「では、次にそちらの妖精さんも登録をどうぞ」
「え?私も?」
手の平サイズの、クリスマスカラーのめでたい妖精が僕の左側頭部から飛んで現れて機械に手をかざした。
半透明でラメを散らしたように煌めく綺麗な羽を眺めていると、彼女が振り向いて僕に微笑みかけた。
「妖精を連れてくるなんて、あなたは幸運ですね」
そう言って、お姉さんも微笑む。
「はい?」
やっと僕の口から疑問系が出た。
まだ妖精という存在を受け入れている途中なのだ。
「妖精は夢の世界に生きる幻想生物で、現実世界に現れることは稀なんです。本来は、夢の中で生まれて夢の中で消えてしまう儚い運命にあります」
お姉さんの解説のあと、妖精が愛らしく頭を下げた。
目は真ん丸で大きく、唇が小さい。
そんな彼女の口から驚きの言語が飛び出る。
「ごめんね。ついてきてもうた」
「関西弁?僕は関東の人間なんだけど」
「気にせんといて。夢の影響みたいやから」
「関西弁の夢なんて見た記憶ないけど」
お姉さんの説明によると夢は全て繋がっていて、誰でも他人の夢に僅かに影響を与えることがあるらしい。
知らない町や人物が夢に出てくるのはそういう仕組みらしい。
「もし良かったらやけどな」
そう前置きした妖精は、しおらしくなることなく遠慮もなく、突飛な提案を僕にする。
それで僕の悪いスイッチが入ってしまうことになった。
「君と一緒に暮らしていい?」
「貴様が俺の光になるなら許してやってもいい」
「急にどうしたん?」
異世界酔いということにしよう。
ふわふわした非現実的雰囲気に僕は情緒不安定になっていた。
それで、とっさに自己防衛の為にもう一人の人格を作り出した。
と言い訳しておく。
「俺は闇のしもべだ。貴様が光となって影の鎖を砕き、俺を自由の身にしてくれるというのならば構わない」
「いいって」
お姉さんは畏まって、手元の電子パネルを叩いたようだ。
お姉さんの目には何か見えているらしい。
あえて視線を逸らして何かを確認している。
ふとこちらへ向き直り、手続きが終わったことを頷いて知らせる。
「これで私も安心して暮らせるわ。あー良かった。ありがとうね」
「どういうこと?」
「私も君と同じで異世界人扱いらしいから、どっかで暮らさなあかん、てお姉さんが言ってたやん」
「ごめん。聞いてなかった」
「そうなん。ま、それでいきなり一人暮らしは心配やろうて、どうせやったら二人で暮らしたらどうですか、てお姉さんが提案してくれたんよ」
「なるほど」
「手続きは完了致しましたので、後ほど担当者を呼んで住まいの方へ案内させます」
「はーい!」
妖精は気持ちよく返事をしたが僕は片手で右目を押さえながら気を悪くした。
軽い気持ちで承諾してしまった。
これから異世界でロリ妖精とイチャラブライフが始まるのかと想像すると困った。
僕は熟女が好きなんだ。
スタートはまず熟女であるべきだろう。
魔法で全裸の熟女を召喚してしまう展開とかあったろう。
「後で別々に暮らすことは可能ですか?」
つい酷い言葉が出てしまった。
しまったと思いながら妖精を見ると、彼女はニッコリしたまま首をかしげた。
「可能です」
お姉さんが笑顔を崩さず答える。
妖精は、なぜか目を細くして無邪気に微笑んだ。
ちょっとだけ胸が痛んだ。
俺は闇のしもべで光に弱い。
しかし、それでも光を求めてしまうらしかった。
「続いてミドルネームはどうなさいますか?こちらの世界で新しい名前で生活したいと希望される方は、ミドルネームをご自身で決めることが可能です」
ミドルネームか。
俺は失墜し人間を剥奪された闇のしもべ、その烙印は失格を意味するディスカリフ。
「ディ……本名でいいです」
「分かりました。では、本名をこちらに記入してください」
僕が紙とメモ用紙を受け取って何の疑いも躊躇いもなくプライバシー全開放で本名を曝すと、お姉さんはそれを悪びれることなくタイプして満足そうに頷いた。
「では、妖精さんはどうしましょうか」
「どうしよっか」
「どういうこと?」
「私には名前も記憶もないねん。生まれたてやし当たり前やけどね。知識とかは夢から頭?心?に入ってるよ」
妖精も笑顔を崩さない。
二人は笑顔を崩すと罰を受ける呪いでもかけられているのか。
だとしたら哀れだ。
「妖精の場合ですと、多くの方がこのような花の図鑑から名前を選びますが、あなた方もそうしますか?」
辞典よりは薄い花の図鑑を勧められた。
カバーはない。厚紙に絵が直接、刻んで印刷されている。
僕がそれを手に取ってページをめくると、妖精がひらひらと舞って僕の肩に遠慮なく落ち着いた。
手の平サイズだが、それなりの重さが伝わる。
それによく分からないけど彼女の赤い髪から、ふんわり女の子らしい甘い匂いが漂ってきた。
残念だ。未熟で若すぎる香りだ。
「百日紅……さるすべり……ほほう」
適当にめくって、いい名前をすぐに見つけた。
淡い紅色で美しくも愛らしい花だし妖精も文句はないだろう。
一応、写真を指して提案してみる。
「これで、モニク、と読むのはどうだ?」
「モニク、モニク、モニクか!」
気に入ったらしい。
我が眷族に相応しい名だと今日ばかりは自画自賛する。
お姉さんはさっそくタタタンと指を踊らせた。
「これで住民登録は完了です。住民カードをご希望であれば、いつでもよいので顔写真をお持ちして再度ここへいらしてください。住民カード登録は、そちらの課になります。便利なので是非どうぞ」
お姉さんは遠くを手の平で丁寧に指す。
このフロア一帯が異世界人に関するフロアらしく、困った時はここへ来るといいと言われた。
今まさにその瞬間だが、難しいことお堅いことが苦手な僕はさっさと逃げる心構えだった。
「不安や心配なことが、たくさんございますよね?」
お姉さんの笑顔に心配が加わった。
分かりやすい顔をしている。
ここは甘えて質問責めにするところだろうが、生憎、この時の僕は若過ぎた。
もう耐えられなかった。
頂いた資料を後で読むので結構ですと断って、あてがわれる住居へと向かうことに決めた。
家も日用品もライフポイントというのはお金か?
最低限に必要なものを全て用意してくれるとは実に気前がいい。
というより都合が良すぎる。
今更ながら訝しむも逃げ場はない。
それに役所だ。疑うほうがよくないのかも知れない。
「市長の五月山プリンセスと申します」
市長が来た。信じよう。
こんなに美しいおば様を疑うなどあり得てはならない。
瞳は成熟した翡翠の誠実。
背が高く見目麗しいプリンセス。
異世界で出会うエルフの姫と言えば、そうフラグだ。
僕は恥ずかしながらも期待に胸をいっぱい膨らませてしまう。
尖った耳の先をくわえたり浅いシワを指でなぞりたい気持ちを抑え、鼻で大きく呼吸して深々と頭を下げた。
すると挨拶のご褒美か握手が出来た。嬉しい。
「かわひろさん。それでは、私について来てください」
名前まで呼ばれた。
間違いない。彼女は僕を男として意識している。
彼女は担当に代わって、わざわざ自ら案内してくれるという。
彼女と町に出てデートして確信した。
僕は君に、君は僕に。
恋してる。