身代わりの令嬢 ※騎士視点
以前投稿した短編『身代わりの令嬢』の騎士視点のお話になります。
単体でも読めますが、『身代わりの令嬢』をお読みいただくとより分かり易いかと思います。
気持ちが廃れない内にと書き連ねましたので、お見苦しい部分も多々あるかと思いますがご了承ください。
「フォルティス、私は決心しました。あの計画を実行に移します。貴方にも手伝って頂きますよ」
セレーノお嬢様の言葉に俺は息をのんだ。
公爵家令嬢であるセレーノお嬢様付きの護衛騎士の任に就いている俺に拒否権はなかった。
「仰せのままに」
腰を折りお嬢様に返事を返す。
迫り上がってきそうになる苦々しい気持ちを無理やりのみこんだ。
あの日俺が余計なことを口にして彼女の存在を知らせてしまったから。
うやむやにして誤魔化せばよかったのに。そうすれば巻き込まずにすんだのに。
彼女に辛い思いをさせてしまうかもしれないという後悔と、彼女が俺の傍にやってくるという喜び。
相反する二つの感情がない交ぜになって俺の中を駆け巡っていた。
*・*・*
お嬢様が立てた計画を実行する日まであと二週間。
お嬢様の計画、それは自分そっくりの女性を身代わりとしてこの公爵家に住まわせ、自身は想い人のいる隣国へと逃れるというものだ。
話を聞いた当初はもちろん危険すぎると意見したがお嬢様は隣国へと逃れ、彼の人と落ち合うことが出来れば大丈夫だと頑なに譲らなかった。
それもこれもお嬢様とこの国の第二王子の婚約が正式に決定したが故のことだった。
かねてからお嬢様には想い人がいることを俺は知っていた。
いや俺だけではない。この邸に住まう者たち、公爵夫妻も御存知だったはずだ。
お嬢様はその方のことを慕っていると常日頃から口にされていたから。
それでもお嬢様の想いが公爵夫妻に聞き入れられることはなかった。
王族からの申し入れを公爵家が断れるはずもない。
お嬢様は何度もご両親に申し立てをしたが結果はいつも同じで、その度に泣いて部屋に籠ってしまわれていた。
お嬢様の身代わりを仕立てあげ、この公爵家を捨てて出ていくというあの計画を最初に伝えられたのは婚約者の第二王子が二度目に会いに公爵家を訪れたその日の夕方だった。
身代わりとして適任の女性がいることもお嬢様は知ってしまっていたから。
二年前に俺がこの公爵家に雇われ、お嬢様付きの騎士として仕えるようになって暫くしてから口を滑らせてしまったからだ。
その時はこんなことになるなんて思ってもいなかった。
あの日のことが悔やまれる。
うまく隠していても敏い人には分かってしまう程、彼女の存在は俺の中に刻まれてしまっていて、彼女と瓜二つの姿をしたお嬢様の姿を目にするとどうしても隠しきれない思いが透けて見えてしまっていたようだ。
「フォルティス、私どうしても気になっていることがあるの」
「なんでしょうか、セレーノ様」
お嬢様付きの騎士として傍にお仕えするようになって三カ月程経過した日のことだった。
公爵家の離れにあるテラスでティータイムを過ごしていらした時、お嬢様は俺をじっと見つめて口にした。
「貴方、私に誰を重ねて見ているの?」
「っ!」
的確な指摘に驚愕して一瞬呼吸を忘れてしまったほどだった。
僅かに睨み付けるようにして俺を見据えているお嬢様の瞳を見ていることができなくなり俺は深く腰を折って謝罪した。
「申し訳ありません!」
二の句を告げることも、頭を上げることもできず俺はお嬢様の次の言葉を待っていた。
*・*・*・*
彼女と初めて会ったのは四年前。
隣国近くの田舎街で野獣による被害がでていると報告を受け、国の騎士団に所属していた俺は小隊を率いてその野獣の討伐に来ていた。
数日で野獣の討伐は完了し、先に小隊を引き揚げさせ一人森の中を見回っていた時、不覚にも取り零していた野獣に襲われ怪我を負ってしまったのだ。
野獣は難なく倒すことが出来たが、怪我の方が問題だった。
毒を持っていたようで、左腕にうけた傷は手持ちの薬草では処置が間に合わなかった。
「くそっ、油断した…」
怪我は結構深く、毒の影響もあるのか血は止まることなく傷口から流れ続けていた。
止血をしなければその内出血多量で死ぬだろう。
頭ではそうと分かっていても、毒の影響下で体に力は入らずどうすることもできなかった。
その場に蹲り朦朧とする意識の中、何かが草木を踏みしめながら近寄ってくるのが分かった。
野獣がまだいたか…。
剣を握る力もすでに残されておらず、背後の木に背中を預けそっと目を閉じた。
ガサリと一際大きな音がして覚悟を決めて息を深く吐き出した時、茂みから飛び出してきたのは野獣ではなく一人の少女だった。
「大丈夫ですか!?」
その声に驚いて閉じていた目を開けると、視界に飛び込んできた美しいブルーの瞳に目を奪われた。
風に巻き上げられた髪は陽の光を浴びてキラキラと輝き、穏やかで優しい色をした瞳は海と同じ色をしていて、森の中にいるのにひどく不釣り合いなその姿に天使でも舞い降りたのかと思ったのを覚えている。
彼女の手当ては的確で、その場でそのまま数時間大人しくしていると毒による痺れも体の重怠さも次第に抜けてきて肩を借りれば歩けるほどまで回復した。
彼女はしきりに俺の心配をしずっと傍についていてくれた。
彼女の肩を借りて街まで戻ると、夕刻になっても戻らない俺を探しに来た団員にぐったりとしてまだうまくしゃべれない俺の代わりに色々と説明してくれた。
王都に戻っても彼女のことは忘れなかった。
あの海の色を思わせるブルーの瞳が強烈に脳裏に焼き付いて消えなかった。
何度も彼女に会いに行こうと思ったが、王都から遠く離れた国境近くの街まで行くことは容易ではなかった。
怪我をしたのは利き腕ではなかったが、剣を振るう際はどうしても以前のようにはできなくなっていた。
そろそろ辞するべきかと考えていたところに、とある公爵家で令嬢付きの騎士を探しているという話を耳にした。上司からも騎士団を辞めるつもりならどうかと勧められ、特に断る理由もなく引き受けた。
そしてお嬢様に出会ったのだ。
初めてその姿を目にした時、俺は驚きを隠すことが出来なかった。
目を見開き、息をのむ俺をお嬢様は訝しむように見つめていた。
その澄んだ美しいブルーの瞳で。
過ぎ去った年月の分、記憶の中の彼女の姿は曖昧になっていた。
覚えているのはあの海を思わせるブルーの瞳と陽の光を浴びて輝く金色の髪。
それだけが辛うじて頭の片隅にあった。
靄がかかったようにおぼろげだった彼女の姿が、目の前の公爵令嬢を見た瞬間に鮮やかに容作られた。
国境近くの田舎街にいたはずの彼女がなぜ目の前に!?と身を乗り出しそうになって踏み止まった。
まさかそんなはずがないとじっと見つめていると顔を上げた令嬢の瞳に陽の光があたって鮮やかな光を帯びた。
違う!彼女じゃない。
瞳の色が僅かに違う。
そのことに気づき何とか冷静さを保つことが出来た。
その後、護衛騎士としてお嬢様の傍に仕えるようになってからは日に日に彼女のことを考えるようになった。
彼女はどんな花を好むのか、どんな紅茶を好むのか。甘い菓子は好きか、どんな物に興味を示すだろうかと彼女への気持ちは募っていった。
そんな思いが時折表に現れてしまっていたことに気づいていなかった。
お嬢様の姿を目にするたびに、彼女の姿を重ねて見てしまっていたことに。
それを指摘されたあの日。
俺はついに彼女の存在をお嬢様に話してしまったのだ。
「別に謝罪の言葉が聞きたいわけじゃないの。もう一度言うわ。誰を重ねて見ているの?」
お嬢様に問いだたされ、口を噤んでいることも許されず俺は慎重に言葉を選んで話した。彼女のことを。
「以前、森で怪我をして動けなくなっていた所をセレーノ様にそっくりな女性に助けられまして…」
「ふぅん。それで、恋情を抱いてしまったというわけね」
「申し訳ございません」
「そうね、私には失礼よね。だって貴方、恋情を抱いているのはその女性に対してでしょう」
「っ!」
明確な気持ちだったわけではなかった。
その名をつけることすら曖昧な感情で。
「最初の頃は普通だったわ。けれど最近はそれが変わってきた。貴方はうまく隠しているつもりだったのでしょうけど、分かるのよ。その瞳が雄弁に語っているわ。私と同じ瞳をしているもの」
戦慄した。
お嬢様がこんなにも慧眼の優れた方だとは思っていなかった。
それからお嬢様はご自分が慕う男性の話をしながらも、俺に彼女のことを尋ねてきた。
誰かに話せるほど彼女のことを知っているわけではない。
だから俺は苦笑を零すだけにして多くを語ることはしなかった。
「貴方もそろそろ彼の想い人を迎えに行かないと、ぐずぐずしていたら誰かに獲られてしまうわよ」
「それは……」
「この私に瓜二つの姿をしているのでしょう。周りの殿方が放っておくはずがないもの」
お嬢様は肩にかかった髪をすくい上げ背中に流すと優雅に笑った。
風に吹かれ、お嬢様の美しい髪がふわりと宙を舞い、陽の光を浴びてキラキラと輝いていた。
その姿が眩しくて俺はそっと目を伏せた。
閉じた瞼の奥に浮かぶのは名前も知らない彼女の姿。
いつか会いに行こうと心に決めていたが、それは一向に実現することなく時間ばかりが過ぎていった。
*・*・*
「貴方の想い人に会いに行くわよ」
突然お嬢様がそう言いだした時は聞き間違いかと我が耳を疑った。
「フォルティス、私以前から言っていたわよね。私にはお慕いする方がいると」
「はい」
そのことと、彼女に会いに行くことになんの関係があるのだろうか。
お嬢様が言わんとするその考えが分からず、俺はその言葉の続きをただ黙って待つことしかできなかった。
「かねてから考えていたことがあるの。きっとこのままでは私はあの方といっしょになることはできない。だから……」
思いつめた表情をしているお嬢様は葛藤する胸の内を吐露するかのようにぼそりと小さく言葉を紡いだ。
「見てみたいのよ、貴方が言う彼女がどれほど私と似ているのか」
「……わかりました」
懇願してくるお嬢様を無下に出来るはずもなく、俺が了承の意を返すとお嬢様は満足そうに笑った。
数日後、お嬢様と共にあの街へと向かった。
驚いたことにあの街の近くには隠居した前公爵夫人が邸を構えておられた。
お嬢様は暫くお会いしていなかったから様子を見に行きたいとご両親に掛け合い、特に問題もないことから簡単に承諾を得ることができたのだ。
前公爵夫人の邸に滞在してから、お嬢様はあれこれとうまく理由をつけてあの街へと向かう旨を夫人に伝えると翌日には俺と二人で街へと向かった。
お嬢様の姿は普段と違ってかなり地味な出で立ちだった。
突然同じ姿をした女性が現れると彼女を知っている街の人たちも驚いて騒ぎになってしまう可能性がある。
しかもその女性が豪華なドレスを身に纏い護衛騎士までつれていれば、さぞかし目立つし面倒事になりかねない。
例え別人だと分かっても、余計ないざこざに巻き込まれてしまうのではないかという疑念があった。
だから俺は彼女に迷惑を掛けたくなくて、前公爵夫人の邸に到着するなり、胸に湧き起っていた不安をお嬢様に伝え、どうしても彼女に会いたいお嬢様が考えた末の結果がそれだった。
髪を結い上げ眼鏡をかけ、身に纏ったローブのフードを被る。
そうするだけで自然と髪は隠れ瞳は輝きを失い、僅かに身なりの良い商家の娘のような出で立ちになった。
そして例え彼女に会えたとしても、今回はその姿を確認するだけで直接の接触はしないとお嬢様はそう約束してくださった。
街に辿り着き、まずは大通りを進み彼女の姿を探した。
そして教会の近くに差し掛かった時、探し求めていた人の姿を見つけた。
遠目からでもすぐにわかるその姿。
お嬢様に声を掛けようとして振り返ると、俺が口を開くよりも早くお嬢様が手で制した。
「言わなくても分かるわ。あの人ね」
お嬢様の目は俺ではなく教会の前で神父と話をしている女性に釘づけだった。
数年ぶりに目にした彼女の姿は、完全にお嬢様と一致していて自分でも驚いた。
動き出しそうになる足を腕を必死に押し留め、俺は彼女を一身に見つめていた。
「アリシア、こっちへきて手伝ってちょうだい」
「はーい」
神父と話を終えた彼女が教会の中にいた人に呼ばれてそちらへ向かう。
あっという間に彼女の姿は建物の中に消え、俺たちからその姿は見えなくなってしまった。
「アリシアというのね、貴方の想い人は」
「…俺も初めて知りました」
彼女が消えた教会の入り口を見つめたまま呟いた俺を見上げたお嬢様は次の瞬間にプッと噴出した。
笑い出したお嬢様の様子に驚いてそちらを見る。
「貴方、何て顔をしているの。捨てられた子犬みたい。あははは」
「っ!そんなことはありません」
「自分では気づいていないのね」
笑い過ぎて目じりに浮かんだ涙を指先で拭いながらお嬢様は俺に告げる。
からかい交じりだということも分かってはいるが、ここまで笑われるとこちらとしても面白くない。
「貴方にそんな顔をさせるなんて彼女もすごいわね。世間では氷の騎士様なんて呼ばれていた時期もあったのに」
「古い話です。今更持ち出さないでください」
ごほんと咳払いをしながらお嬢様から視線を逸らした。
吹き抜けた風が森の香りを運んできた。
ああ、あの森だな。彼女と出会ったのは。
おぼろげになりつつあった記憶も彼女の姿を目にし、こうして森を見ていると鮮明に色付いて思い起こされた。
その後もお嬢様にからかわれ続け、帰りますよと踵を返したところでそれは起こった。
彼女の姿が見れた喜びとお嬢様にからかわれた焦りから気持ちが緩んでおり、背後の細い道から人が出てきていたことに気づいていなかった。
突然進行方向を変えて振り向いたせいで、目の前に現れた女性にぶつかってしまった。
「きゃっ」
「危ないっ!」
俺の体に弾き飛ばされたその女性を咄嗟に手を伸ばして抱き寄せた。
女性の髪がふわりと宙に舞い、陽の光を受けてキラキラと輝く金色の髪に目を奪われた。
鼻腔をくすぐる甘い香りに思考が停止し、女性を抱きしめたまま体も硬直していた。
「すみません、ありがとうございました」
腕の中で身を捩った彼女が俺を見上げてそう言った。
海の色を思わせる綺麗なマリンブルーの瞳が俺を見ていた。
あんなにも触れたいと、声を聞きたいと、その瞳に俺の姿を映して欲しいと願った存在が今、自身の腕の中にいた。
「フォルティス!いつまでそうしているの」
背後からお嬢様の声がしてハッと気づき、腕を緩め彼女を解放した。
「すまない」
「いえ、私の前方不注意でしたし。助けて頂いてありがとうございました」
二度目のお礼を告げふわりと笑う彼女の姿に、抱きしめたいと僅かに動いた腕をもう片方の腕で必死に抑え込んだ。
「それでは失礼します」
こちらに背を向け街の方へと駆けていく姿から目が離せず、お嬢様に腕を引かれるまでずっと見続けてしまっていた。
「予想外のことに驚いたけど、彼女の瞳の色も確認できて良かったわ」
前公爵夫人の邸に着いても心ここに在らずな様子を見せる俺をお嬢様がからかってくる。
「貴方も愛しのアリシアを腕に抱けて、一層に想いが募ったのね。氷も一瞬で溶けてしまいそうだわ」
「お嬢様っ!」
自分でも分かるくらい熱が体中を駆け巡っている。きっと顔も赤くなっているだろう。
深呼吸を繰り返してどうにか気持ちを落ち着かせ、今後の予定を確認してから部屋を退出した。
「本当にそっくりだったわ。記憶が混乱している、その状況がつくり出せたなら、きっと……」
この時、夜空を彩る星々を見つめながら、お嬢様が密かに何かを決心したことを俺は知る由もなかった。
それから数カ月が経ったある日。
いつもと変わりなく離れにあるテラスで優雅にティータイムを過ごしていると、俺とお嬢様専属のメイドであるシリルしかいない時を狙ってお嬢様はその言葉を口にした。
「私はこの公爵家を出てあの方の元へ行くわ」
「お嬢様!?」
「殿下ではダメなのよ。私はあの方でないと。このままではいずれ笑うこともできなくなってしまうわ」
そこまで言ってお嬢様は俺を真っ直ぐに見据えて言った。
「フォルティス、貴方なら分かるでしょう?」
「っ!」
「どういうことですか!?セレーノお嬢様!」
シリルはお嬢様の言葉に驚いて尋ねてきた。
俺は返事を返すこともできず視線を彷徨わせた。
「フォルティスにはね想い人がいるのよ。どんなに姿形が似ていても本人でなければ意味がないの!貴方なら分かるでしょう?」
「……はい」
お嬢様の言葉に俺は頷くことしかできない。
それは俺が一番分かっている事だからだ。どんなに瓜二つの姿をしていても、俺が求めるのはマリンブルーの瞳をした彼女だ。
お嬢様の想い人を見たことはないが、第二王子殿下とは背格好が少し似ているそうだ。
婚約が決まり一度は諦めようと思い殿下と会ったが、二度目に会った時に違うと心が拒絶したのだとお嬢様は続けた。
その想いは日に日に大きくなり、そして彼女にアリシアに会いに行った。
自分とそっくりだと言われたその姿がどの程度似ているのかを確かめるために。
そしてその姿を見て心が決まったのだとお嬢様は言う。
「彼女を私の身代わりとしてこの公爵家に住まわせ、私はここを出ていくわ」
「いけませんお嬢様!」
「そうです!危険です」
「どんなに危なくても私はもう決めてしまったの。あの人のいない地であの人ではない殿方と一生を送るだなんて私には耐えられないわ!」
お嬢様が吐き出す胸の内を俺はただ黙って聞いている事しかできなかった。
そしてお嬢様はご自分が考えたその身代わり計画に関する内容を我々に伝えた。
その計画には彼女の、アリシアの存在が必要不可欠だった。
「フォルティス、私は決心しました。貴方にも手伝って頂きますよ」
お嬢様の決意は揺るがなかった。
俺は掌をギュッと握り込み歯を食いしばってお嬢様の話を聞いていた。
すまないアリシア。君を巻き込んでしまう。
全力で護るからどうか許してくれ……。
*・*・*・*
お嬢様から身代わりを立てるという計画を聞いてからはあっという間に時間が過ぎていった。
全ての準備を終えた俺達は街に向かった。
馬車の中ではメイドのシリルが待機している。
俺はお嬢様と二人でアリシアの後を追い森に入った。
彼女は数日に一回この森に薬草を採りに出掛ける。
以前俺と出会ったのも彼女が薬草を採りに森に来ていたからだった。
森の奥へと入っていく彼女を追いかけ、街からは絶対に見えない位置まで来たとき俺達は彼女の前に姿を現し、そしてお嬢様が彼女に告げた。
「貴方、私の身代わりになってくださいな」
地面に座り込んで薬草を摘んでいた彼女がお嬢様を見上げ、その姿を困惑の表情で見つめていた。
「私はセレーノ・ラッセルと申しますわ。ラッセル公爵家の長女でこの度縁談が決まったのだけれど、私にはすでに心に決めた方がいますの。でもお父様もお母様も聞き入れて下さらない。だから私、強行手段に出ることにしたのよ。私はこれから伝を頼って隣国へと逃れるから、貴方は私の身代わりとなって公爵家令嬢として過ごしてちょうだい。私が無事に隣国へ逃げおおせたら貴方は解放して差し上げるわ。御礼も十分にするつもりよ。悪い話ではないでしょう?ただほんの僅かな時間、私の身代わりとして過ごすだけで貴方が今まで手にしたこともない大金が手に入るのよ」
突然の出来事に彼女は呆然としていた。
お嬢様の声が耳に届いているのかも怪しいほどに微動だにすることなくその場に座り込んでいた。
目の前に現れた自分とそっくりな姿をしているお嬢様をただじっと見つめていた。
その瞳がちらりと俺の方を見て、彼女は漸く言葉を紡いだ。
「無理です。私などに勤まるはずがない……」
「あら、それは大丈夫よ。私に考えがあるもの」
「そんなの危険すぎる……絶対に上手くいく筈なんて……」
彼女の視線は地面へと落とされ、紡いだその声も震えていた。
「嫌です。私には関係ない。巻き込まないで……」
彼女の心情が手に取るように分かる。
座り込んだ膝の上でギュッと衣を握り込み、彼女は小さく震えていた。
「言ったでしょう、考えがあると。貴方に拒否権はないの。ごめんなさいね」
彼女の返答を聞き震えているその様子を見てもお嬢様はその拒絶をなんなく跳ね除けた。
拒否された場合の手筈も事前に教えられていた。
お嬢様の声を合図に俺は足を踏み出した。
こんな形で君に会いたくなかった。
怯えた表情で俺を見上げ震えている彼女の目の前に膝をつき、ポーチから一錠の薬を取り出す。
お嬢様から渡されていたものだ。
服用すれば数日に渡って高い高熱を出すが、その後は熱も下がり後遺症も残らないというものだった。
この生活環境も生い立ちも何もかもが真逆の二人が入れ替わる為には必要不可欠な物。
お嬢様が立てた計画は身代わりをたて公爵家で過ごしてもらい、その間に自分は伝を頼って隣国へと逃れるというものだった。
表向きには、お嬢様が乗った馬車が外出先で野盗に襲われ、連れ去られたお嬢様を救出に向かった護衛騎士である俺が激戦の末お嬢様を救いだし邸に連れ戻る。邸に戻ったお嬢様は襲われたショックで高熱をだし、記憶障害に陥り声も出せなくなるという設定だ。
実際には身代わりとなるアリシアに薬を飲んでもらい、熱を出している状態の彼女を連れて公爵家へと戻るというものだった。
だが、そんな薬を簡単にほいほい口にするはずがない。
いくら相手が自分と瓜二つの容姿をしていても、今初めて会ったばかりの人の話を素直に聞き入れるわけがない。疑われて当然だ。
俺の一挙一動を声も出せず怯えた表情で見つめていた彼女の顎を左手で掴み逃げられないように固定した。
次いで取り出した薬を自身の口に含むと、彼女に荒々しく唇を重ねた。
強引に唇を押し開き、舌先を押し入れて薬を口内の奥に押し込んだ。
一旦唇を離すと彼女の顎を掴んでいる手を持ち上げて上を向かせ薬を吐き出せないようにした。
用意していた水を口に含むと再び彼女の唇を塞ぎその水を口内へと流し入れた。
上を向かされ口内に水を流し入れられれば先に口に含んだ薬は飲み込むしかない。
彼女の喉が上下し、飲み干したことを確認すると俺は彼女の顎を掴んでいた手を離した。
彼女の望まないことを強引にやってしまったことに後悔の念が体中を駆け巡る。
掌をぎゅっと握り込み、睨み付けてくる彼女から目を逸らすこともできずに見つめていた。
薬が効いてきて彼女の肌が熱を持ち頬が赤みを増す。
態勢を保っていられなくなった彼女の体がぐらりと傾いて、俺は彼女の体が地面に接触する前に腕に抱き留めた。
気分の悪さからその綺麗なマリンブルーの瞳は細められ息遣いも荒くなっていく。
意識を失う寸前の彼女の瞳が俺の姿を捕えた。
眉根を寄せ、情けなくも顔を歪ませて見ている事しかできない俺の無様な姿を。
*・*・*・*
ぐったりとして意識のないアリシアを連れて俺達は国境沿いにある別の街に来ていた。
ここからお嬢様たちとは別行動になる。
「くれぐれもご無理をなされませんよう。御自愛ください」
「分かっているわ。貴女の大切な人を身代わりにするのだもの」
今後お嬢様と会うことはないだろう。
俺の元にはお嬢様と瓜二つの姿を持つ愛しい人が残された。
お嬢様を見送ると俺は路地裏に入り込み、小さな宿屋に身を置いた。
人通りの少ない路地にあるここはこじんまりとしていて利用者も少なく、病人を連れていても変に目立つことはないだろうと思っての事だった。
アリシアはかなり高い熱が三日三晩続いた。
その傍らを離れず俺はずっと彼女の容体が落ち着くまで看病を続けた。
時折漏れる苦しそうな呻き声を聞くと胸が張り裂けそうに痛んだ。
体中を襲う苦痛から彼女の頬をつたい零れ落ちる涙をそっと拭い続けた。
彼女の容体が安定するまで俺はほとんど不眠不休で彼女の傍に居続けていた。
移動に耐えられるだろうと思えるほどに熱が下がると、俺は彼女を連れてラッセル公爵家へと戻った。
セレーノお嬢様が出かけると言って公爵家を出て七日が経っていた。
俺がお嬢様を連れて戻ったことを聞きつけた公爵夫妻は玄関の外まで駆けだしてきて、涙を流しお嬢様の様子を確認した。
まだ熱があることを告げるとすぐさまお嬢様の部屋まで連れていきベッドに寝かせるようにと指示があった。
彼女の体をそっとセレーノお嬢様のベッドに寝かせ、その目尻に浮かんでいた涙を拭うと俺は指示があるまで部屋の外の廊下で待機していた。
*・*・*・*
公爵家に連れてきてからもアリシアは数日は熱が下がらなかった。
お嬢様付きのメイドは入れ替わり、年若いリィナという名の女性に代わっていた。
シリルは隣国へと向かうお嬢様について行ったからだ。
その為計画を実行に移したあの日の一週間前には仕事を辞めてこの邸を去っていた。
その後打ち合わせ通りに落ち合い、今後のお嬢様の事は彼女に任せあの街で別れた。
俺はお嬢様から今後のアリシアのことを任されていた。
彼女が何を話しても、どんな行動に出ようともすぐさま対応できるように。
普段は呼ばれない限りお嬢様の部屋を訪れることはないが、今は違う。
俺はリィナが彼女の傍を離れた僅かな時間にお嬢様の部屋に入り、アリシアの様子を窺った。
アリシアはまだ目を覚まさない。
そして様子を見に来るたびに彼女の涙がその頬をつたい流れ落ちていた。
俺は唇を噛みしめると、幾度となく繰り返しもう何度目になるかわからなくなったそれを繰り返した。
手を伸ばし頬をつたう涙をそっと拭う。
涙で濡れた指先を唇に押し当てれば、彼女の瞳と同じ色をした海に似た味がした。
*・*・*・*
アリシアが意識を取り戻したとの一報を受けた時、俺はほっと安堵の息を零していた。
彼女が起き上れるようになれば、今後俺が傍にいる時間も増えてくるだろう。
彼女にとってここは知らない人ばかりの未知の世界でしかない。
ここでの生活は彼女にとって果たして夢のような幸福な時間となるのか、それとも地獄にいるような愁然とした時間となるのか。
希くは彼女にとって笑顔多き時間であるように。
ただそれだけをいつも思っていた。
しかし、俺のその願いも空しくアリシアは笑うことも声を出すこともしなかった。
時折、俺と二人きりの時に話すことはあっても彼女の口から紡がれるのは『私をあの街に帰して』それだけだった。
それだけはまだ叶えてやることはできない。
俺は何も言うことが出来ず、手を握りしめてただ頭を横に振るだけしかできなかった。
そんな俺の態度に彼女はどんどんと塞ぎ込んでいった。
動き回れるほどに回復した体とは逆に彼女の表情は日に日に凍りついていった。
俺と言葉を交わすこともほとんどなくなっていた。
この公爵家で彼女の本当の名前を呼ぶことはできない。けれど彼女を『セレーノ様』と呼ぶたびに彼女はその表情を失っていった。
空を見上げることもしなくなると美しい瞳は輝きを失い、暗く海の底を思わせるほどに悲しい色を帯びていた。
元気になるどころかどんどん痩せ細り表情を失っていく彼女が心配で、気晴らしになればと思い湖に連れて行ったりもしたが、気が紛れるどころか更に彼女の表情は暗く沈んでしまった。
彼女のただ一つの願いはまだ叶えてやることはできない。
彼女の言葉に横に頭を振る事しかしない俺を見て悲しみに涙を浮かべる彼女のその青い瞳を見ていることができなくて、俺はぐっと奥歯を噛みしめ手を強く握り込んで全身を突き刺す痛みに耐えた。
*・*・*・*
彼女はもうすでにベッドから起き上がることもできないくらいに弱っている。
これ以上彼女をここに縛り付けるのは限界だと思っていた。
そこへ待ちに待った朗報が。
「差出人不明の手紙が届いたようです」
何かを手に足早にどこかへ向かう執事の姿を目にして、状況を知っていそうな者を捕まえて聞いてみるとそう返事が返ってきた。
ようやくきたか!
俺は逸る気持ちをなんとか落ち着かせながらアリシアのいる部屋へと足早に向かった。
ノックをして部屋に入ると、ベッドに横たわる彼女は虚ろな瞳をして窓の外でも天井でもないもっとずっと遠くを見ていた。
その姿は何度見ても俺の心をきつく締め付ける。
喉の奥から込み上げてくる苦々しいそれをぐっとのみ込むと彼女に手紙のことを問いかけた。
俺の声が聞こえているのかすら怪しかったが、ベッドに近づいても俺に目を向けることがなかったその瞳がゆっくりとベッドサイドに置かれた小さなテーブルへと移動した。
その視線を追って同じようにサイドテーブルへと目を向けると、そこに一通の手紙があった。
「中を改めさせてもらう」
断りを入れてからその封筒を手に取った。
彼女は特に何を言うでもなく黙って俺のすることを見ていた。
封筒を裏に表にと見てみたが、先に聞いていた情報通り差出人の名前はなかった。
次いで中身を取り出した。
すでに中身は不在だった公爵夫妻に変わりその長男であるセレーノお嬢様の兄によって検分された後で、これもまた聞いていた通り中から出てきたのは真っ白い白紙の便箋が一枚と色味の若干違う二つの青い宝石だった。
明るく澄んだ輝きに満ちたスカイブルーの宝石と美しい海の色をしたマリンブルーの宝石。
その二つの青い宝石が何を指示しているのか、この邸にいる者でそれに気づけるのは俺と目の前の彼女だけだった。
間違いない!セレーノ様からの手紙だ!
一見すると何も書かれていない便箋。
ただ光に透かしてみても何も変化はない。
俺はスカイブルーの宝石を手に取ると陽の光が当たるように向きを調節し、その青い光に真っ白い便箋を透かしてみた。
真っ白だった便箋に二行。
青い光を受けて数文字の短い文が浮かび上がった。
それは………。
無事に目的地についたわ。ありがとう。
貴方も解放してあげる。
待ちに待ったその言葉に体が自然と震えた。
アリシアの様子を見て強張っていた頬も緩み、口元には笑みが浮かぶ。
焦りと不安に揺れていた瞳に明るい光が戻ってくるようだった。
「これでようやくアリシアを救ってやれる」
それからの俺の行動は早かった。
公爵夫妻に容体がどんどん悪くなるお嬢様の様子を伝え、保養地へ療養に出してはどうかと提案した。
俺のその提案は公爵夫妻も前々から考えておられたようで、すんなりと受け入れられた。
全ての準備を整え、彼女の元へ向かった。
いつもと変わらずベッドの上で虚ろな表情をしている彼女に俺は優しく声をかけた。
「貴方はそのまま寝ているだけでいい」
俺はそう言うと、彼女の眼元に手を添えて何も映していないその瞳をそっと閉じさせた。
抵抗する力すら残っていない彼女は、俺にされるがままになっている。
厚手のローブでその身を包み込み、ここに連れてきた時よりも随分と痩せ細ったその折れそうな華奢な体を抱き上げた。
アリシアを抱きかかえたまま馬車に乗り込んだ。
保養地へと向かうのはお嬢様の身代わりであるアリシアと俺、メイドのリィナ、馬車を操る御者の四人のみ。
道中は順調に進んでいた。
だが保養地までの中継地点である街に差し掛かった時、アリシアの容体が少し悪くなった。
苦しそうに荒い呼吸を繰り返し、頬が紅潮していた。
俺はその好機を逃さなかった。
「お嬢様の容体があまり良くない。この街に宿を取って一晩様子を見よう」
俺の言葉にリィナと御者も頷いた。
宿に部屋を取り、彼女をベッドに寝かせた。
眠る彼女から少し距離を取り抑えた声で二人に告げた。
「少しでも容体が良くなったら後を追う。ここから半日も馬車を走らせれば保養地にある邸にはつくだろう。二人は先に行ってお嬢様が到着したらすぐに休めるよう迎え入れる準備をしていて欲しい」
「ですが、お嬢様が心配です」
「一刻も早く落ち着ける環境で休ませて差し上げたい。他に頼める者もいない。リィナ引き受けてくれ」
「……わかりました」
きゅっと唇を引き締め言葉をのみ込むと、一呼吸分間をおいてリィナは俺の言葉に同意した。
差し当たって必要なものを馬車から降ろし部屋に運び込むと、二人は目的地へ向けて出発した。
時間は夕刻に差し掛かっていた。
部屋の片隅に置いてあるテーブルの傍に立っていた俺は、アリシアに持たせる予定の荷物の中から小さな袋を取り出し机の上にその中身を取り出した。
明るく澄んだ輝きに満ちたスカイブルーの宝石と美しい海の色をしたマリンブルーの宝石。
袋の中から取り出した二つの宝石は窓から差し込む陽の光を受けてキラキラと輝いていた。
俺はその宝石を見て笑みを零すと、用意していた物を自分の荷物の中から取り出した。
二つの宝石の傍らに手に持っていたそれを置く。
差し込む陽の光をうけた濃いブルーの色をしたその宝石はその奥にある紫色の光を机に映し出していた。
この宝石の濃いブルーは俺の瞳と同じ色だ。
そのブルーの色に混じる紫の光は己が胸に抱く想いに似ていて苦笑を零した。
この濃いブルーの宝石はアリシアを街に帰すとき、彼女に持たせようと思って用意したものだ。
当初は別の宝石にするつもりだったが、色々と探し回ってそれを見つけた時に俺は迷わず買い求めていた。
彼女からすれば見たくもない色だろう。
彼女の中で公爵家で過ごした時間は思い出したくもない記憶となっているだろうから。
そうと分かっていてもどうしても彼女に渡したかった。
女々しい感情だと自分でも思うが、彼女に持っていて欲しい。
彼女の中で俺の存在は決して良いとは言えないものだろうが、それでも俺の一部を写した欠片だけでも彼女の傍にあって欲しいとその思いだけは捨て去ることができなかった。
二人きりで過ごす最後の時間。
俺はそれらの宝石を小さな袋に入れ腰に下げているポーチに仕舞うと、眠るアリシアに近づきその顔をじっと見つめていた。
「お別れだ」
俺はアリシアの額にそっとキスをすると彼女を抱き上げ宿を後にした。
これから訪れる宵闇に乗じてあの国境沿いの街に入る予定だ。
遅くなりすぎれば彼女を連れていく予定の教会もその扉を閉めてしまう。
あの街に近づくにつれ彼女を抱く腕に力が入った。
胸の奥から込み上げてくる苦々しいものに必死で抗い足を進めた。
アリシアがずっと帰りたがっていた街の教会の扉が目の前にあった。
腕に抱きかかえている彼女の顔を見つめしっかりとその姿を目に焼き付けた。
「アリシア、今までありがとう」
最後にぎゅっと彼女を抱きしめてから俺は教会の扉を叩いた。
すぐに中から人が現れ、閉められていた扉が開く。
中から出てきたのは神父とシスターの二人だった。
「どちら様?」
シスターが声を掛けてきた。
俺はアリシアの姿が彼らに見えるように体の向きを変える。
「彼女はこの教会の人ではありませんか?」
俺の言葉に神父とシスターが腕に抱えたアリシアを覗き込んだ。
二人の目が驚きに見開かれた。
「「アリシア!」」
「ああ、良かった間違いなかったようですね」
「一体今までどこに…」
シスターが涙を浮かべてアリシアへと手を伸ばしてくる。
「薬草を探して入った森の中で彼女を見つけました。木の根元に蹲りぐったりとしていて。この街には何度か立ち寄り、珍しい髪の色をした彼女のこともよく目にしていたのでここで間違いないかと思って連れてきたんですが」
「ええそうです。間違いありません彼女はこの教会に身を寄せているアリシアです。ありがとうございます旅の方。行方が分からなくなっていてとても心配していたのです」
神父も目に涙を浮かべ彼女が戻ってきたことを喜んでいた。
「こんなに痩せてしまって…。一体今までどこに居たんだい」
眠るアリシアからの返答はあるはずもなく。
シスターの言葉を聞いて、表情にこそ出しはしなかったが俺の全身を痛みとも痺れとも言えない感情が駆け抜けていった。
「彼女の部屋はこちらです。そのままついて来て頂けますか」
神父の言葉に俺は頷いて後をついて行った。
教会の奥にある扉を抜け、渡り廊下を進むといくつもの扉が等間隔に続いている場所に出た。
その内の一つの扉の前に立ち、取り出した鍵で神父がカギを開け扉を押し開いた。
シスターが先に部屋に入り部屋の中にあったランプに火を灯すと、真っ暗だった部屋の中が僅かな光に浮かび上がった。
「アリシアの部屋です。中へどうぞ」
神父に促され部屋の中に入ると、壁際にあった小さなベッドに彼女の体をそっと下ろした。
公爵家のセレーノお嬢様の部屋とは比べ物にならないとても質素な部屋だった。
ベッドの上に置かれたマットレスも薄く、寝心地が良いとは思えなかった。
けれどここが彼女がずっと帰りたがっていた場所だ。
俺はこれ以上彼女に関わることはできない。
後ろ髪ひかれる思いで眠るアリシアから視線を外し、神父とシスターに向き直る。
腰のポーチからあの三つの宝石の入った小さな袋を取出し渡した。
「森で彼女を見つけた時、その傍らに落ちていました。彼女の物でしょう。目が覚めたら渡してあげてください」
「何から何までありがとうございます」
「本当に何とお礼を申し上げれば良いか」
二人の言葉に俺はゆっくりと頭を振り、必要ないと告げるとまだ何かを尋ねようとしてくる彼らに何も答えることなくその場を後にした。
教会を出て数歩歩いたところで振り返る。
月の光を浴びて、彼女のいる一室はこの宵闇の中でも良く見えた。
あの日森で動けなくなりもうだめだと諦めた時、彼女が現れて俺は一瞬で心奪われた。
あの時見た君の美しい海の色をした瞳が忘れられなかった。
あの日見た君の笑顔がずっと俺の胸を焦がしていた。
森で再会した君はもう二度とその笑顔を見せてくれることはなかったけれど。
ほんの僅かな時間でも傍に居られて俺は幸せだった。
たとえあの笑顔が見れなくても。
君がそこに居たから。
アリシア、ありがとう。
君に再びあの笑顔が戻る日がくることを願っている。
*Fin*
身代わりの令嬢へのたくさんのブックマークに誤字報告も頂きありがとうございます。
ハッピーエンドにする予定でしたが、騎士の心情のみ吐き出せれば、後の展開は読んで下さった皆様の考えにお任せしようと締めくくりました。
短編と銘打ちながら、三話分はある長さ。ヒロイン視点をなぞりながら書いたので、入れ込みたい部分は他にもあったのですがとにかく長いので端折りました。
ここまでおつきあい下さった皆様ありがとうございました。