孤独少女の生産
自身の存在価値あるいは存在意義は、他人に認められることによって初めて証明される。「誰かのために」「何かのために」と、自分が存在していることに何らかの意味や価値があるのかという手応えを、私は常に欲している。そうすれば、どんなに苦しい場面でも力強く乗り越えられることを知っているからだ。
故にその逆、自身の存在価値や存在意義が感じられなければ、どれだけ裕福な環境でも私の心は空虚さで埋め尽くされてしまう。私にとって自身の存在価値や存在意義の確立は、命の次に大切な物である。ただそれはきっと私だけでなく、多くの人も同じ考えをもっているだろう。
だから私新島千夏こと小坂千夏は、認められた価値や意義を一瞬にして失う瞬間が、死ぬよりも辛いと断言できる。死んだこともなければ、生死の狭間にいたわけではないので死がどれほど辛くて恐い物なのかは分からないが、一度全てを失った経験のある身からすれば、あの瞬間の表現のし難い喪失感は精神に異常を来してしまうほど辛いことであることは確かだ。
そんな絶望に落とされてしまった私だが、その原因となった根源が他者からの自身の存在価値や意義の肯定だとは気付いていなかった。何せ私自身がそれ自体に自覚がなく、それとは別に感じていた自身の弱さに、私は日々悩まされていたからである。その弱さを知った今だからこそ、昔何となく感じていた琴ちゃんこと柊琴美に対する親近感への謎が解決できたのだろう。
「ただいま…。」
日付が変わる目前に帰宅した私は、扉をソッと閉じると静かに靴を脱ぐ。つい二年前の私であれば喧嘩や夜遊びと言った理由で帰宅が遅かったが、今となってはそんな物騒なことは起こしていない。それでもこうして遅い時間まで出歩いているが、特別何か理由があるわけではない。強いて一つ挙げるとすれば、忘れないようにするためだろうか。
「お帰りなさい。」
玄関の電気の点灯と共に後ろから声をかけられると、私は一度靴を脱ぐ動作を止めて顔を上げた。そこには藍色のワンピースシャツパジャマを着た唯ちゃん、小坂唯が私の方を向いて立っていた。
小坂唯は、私が通う高校の文系クラスの担任。スラッとしたスタイルにワンレンロング、極めつけに勤務中は白衣と大人の色気を十二分引き出している、まさに男が理想とする女教師だ。
ただその外見とは一変、プロレス観戦やホラー映画鑑賞等が趣味で、更にはあり得ないほどのお菓子を常備するほどの甘党と不思議で満ちあふれている。しかし内面を知らぬ他校の男子生徒の視線を釘付けになるほどの美貌に、校内でも妥協できてしまうと言われている。ちなみに、うわさでは唯ちゃんのファンクラブなるものが存在するとか。
「前々から伝えているでしょ。別に帰りが遅くても責め立てたりしないって。もっと堂々と帰宅しなさいよ。」
「そうしたいけどよ、唯ちゃんの立場上、女子高生の私がマンションここにいたらヤバイだろ。」
一応親の許可を得ていることから未成年者誘拐罪が成立しないはずなのだが、私はギリギリ未成年。事情を知らない他人から見れば、私たちの関係は異様である。例え身内が許しても、周囲の評判は悪いだろう。
「まぁそうね。でも、あなたが心配する必要はないじゃない。もし誰かに、あなたが私の家ここに住んでいることがバレたとしても、罪に問われるのは私なのだから。」
「いや、私にとってもそれはかなり重要なことなんだけど。それに、私はまだ唯ちゃんに何もしてあげられていないし…。」
現在私は、訳あって唯ちゃんが住むマンションに約二年ほど同棲させてもらっている。最初はほんの数週間の予定だったのだが、いつしか唯ちゃんと過ごす時間が私を癒やす大切な時間だと実感してから、こうしてお世話になっているわけだ。
とはいえ私は、まだ唯ちゃんに何一つお礼をしてあげられていない。むしろ負担をかけさせている一方で、唯ちゃんにとって私はきっと重荷だろう。
「…それもそうね。けど、私はあまり見返りを求めない性格よ。ありがたいけどほどほどにするのよ。」
と一言私に伝えると、唯ちゃんは手で口を抑えながら小さなあくびをした。
「…最近よくあくびしてるけどよ、そんなに仕事大変なのか。」
「まぁね。まだ新人だし色々と雑用を任されるのよ。それに新人が雑用を任されるのは、教職だけじゃないからあなたも経験するわ。」
「…それと、悪いけど私はもう寝るわ。後のことはあなたに任せるわね。」
目を擦る唯ちゃんに「おやすみ」と言うと、彼女も微笑みながら「おやすみ」と返し寝室へと戻っていった。寝室の扉が閉まるのを確認した私は、今度は特に遠慮することなく靴を脱ぎリビングへと向かった。
リビングに設置してあるテーブルにはラップで保存された肉じゃがとほうれん草のおひたしが置いてあり、「食後のデザートは冷蔵庫にあります」と丁寧な字で書かれたメモも添えられていた。とはいえすでに日付は変わっており、デザートのコンビニスイーツの消費期限を確認した私は、そのままスイーツを手に取ることなく冷蔵庫を閉めた。
先に食事を済ませようかとテーブルに置いてあった肉じゃがを電子レンジに入れたものの、私の衣類から微かににおう汗の臭いにたまらず、その足で洗面所まで早歩きで向かって行った。
「っはぁぁぁ。癒やされるぅぅぅぅ…。」
と一人お湯に浸かる私は、魂が抜け出しているかのようにビブラートを効かした。少々おっさんぽいが、お湯に浸かっているこの時間も、私にとっては至福の時間なのである。
「…それにしても、もうここにきて約二年か…。長いようで、なんかあっという間だったな。」
二年という言葉は聞いただけではとてつもなく長いと感じてしまうが、経ってみると案外そうでもなかったりする。しかし、たばこ臭かった私の身体もいつの間にか唯ちゃんと同じ香りに変化していたり、髪質の変化と二年という年月で人は見違えるほど変化が起きる。性格も、人柄も…。
…私が唯ちゃんと出会ったのは約二年前の夏。私が家を飛び出した翌日のことである。その発端は、やはりあの事件に関係している。あの事件があったからこそ唯ちゃんや今の私に出会えたわけだが、逆に言えばノ事件があったからこそ、私は何もかも失ったのである。
中学三年生の秋、私は大切な琴ちゃんを自身のせいで傷つけてしまった。私も傷を受けてしまったものの、琴ちゃんが受けた傷はとても深く、事件後から私は琴ちゃんに避けられ続けた。それでも私は琴ちゃんに声をかけ続けた。その成果か、私が卒業するまでに琴ちゃんは私や幼なじみの徹君には昔のように接するまで回復したのだが、私たちに心を開けることはなかった。
それでも私は琴ちゃんのことを救いたく、当時の担任等の助言に耳を傾けることなく高校に進学した。その最大の理由は、当時琴ちゃんが目指していた高校であることから、いずれ再び会えるといった考えがあったからである。まぁ結局夢のままで終わってしまった計画だが、あの高校に行ったからこそ今の小坂千夏が存在している。
高校に入学したのは良かったのだが、やはりあの事件のせいで私は他人からよく避けられてい続けていた。けれどそれは私の予想の範囲内であり、琴ちゃんを助けるため、むしろこれは私に課せられた罰だと認識しており、どれだけ自身が傷付いても許せていた。全ては、琴ちゃんを助けるために…。
そんななか私は高校に入学してまもなく、一つ上野先輩に喧嘩を売られてしまった。その原因はやはりあの事件のことで、私と同級生であった彼女の彼氏が徹君に殴られ、それに彼女が逆恨みしたのだ。
とはいえ、貧弱そうな容姿だった彼女は当初私に対して暴言を吐くだけで、それだけであればと私は堪えることができていた。しかし、彼女が琴ちゃんの悪口を言った途端、私の頭の中にある何かが吹っ切れてしまったのだ。琴ちゃんのことを知らないあなたが、どうして琴ちゃんを悪いように言うのか、琴ちゃん事を理解していないあなたが、どうして琴ちゃんを傷つけるようなことを言うの、と。
そして気がついた時には、私はボロボロになった彼女に跨がっており、更には彼女の首を力強く絞めていた。「苦しい」と涙を流しながらもがき苦しむ彼女の顔は、未だに夢の中で蘇ってくることがある。
その後突如訪れた恐怖のあまり、私はその場から逃げ出してしまった。自身の行動で誰かに死の恐怖を味わわせてしまった私自身を信じたくなく、同時にそんな過ちを犯してしまった私自身を酷く恨んだ。
だがしばらくして、私を埋め尽くしていた恐怖の感情は消え、新たに「琴ちゃんの守ることが出来た」という達成感のような感覚に、いつの間にか私は満たされていた。守られていたばかりの私だからこそ芽生えた感情で、その偽善の感情に私は呑まれてしまったわけである。
それ以降私は、琴ちゃんの悪口を聞く度その人たちを傷つけてきた。無論その行為が間違っていることは承知の上でだ。だがそれ以上に、正しい行いをした正義遂行の達成感に私は心から満足していた。
そしていつしか私は、自身の快楽のためだけに無関係な人まで傷つけるようになってしまったっていた。それはその時の私が、自身の行いは全て琴ちゃんを守るためと誤認していたのが原因であった。あの頃は誰かを傷つけることにためらいなどはなく、今思い返しても自身の行いが馬鹿らしく度々後悔している。
そんな快楽主義者の私ではあったが、お酒やタバコといった身体を壊すようなことは一切しなかった。私の身体は私のモノである以前に両親がくれた大切なモノ。例え私に危害を加えるあの父親であっても、親から貰った身体を傷つけるわけことは万死に値する、そのような考えがあの頃はあった。その考えが今も決してないわけではないが、たまに唯ちゃんや琴ちゃんの目を盗んでは吸っていることはある。隠れて吸っている理由は勿論、そんな姿を二人に見せたくないから。
次第に悪の道へと足を向けていた私を避ける人は増えていき、対比してそ・う・い・っ・た・人たちが私の周囲には増えていった。そして学校をサボっては悪事に働き、高校に入学して一年が経つ前に優等生のレッテルは剥奪されていた。
しかし、私にも僅かに自身の行いが悪いことだと理解しており止めなければならないと心のどこかでは思っていた。それでも止めなかったのは、私の周囲に集まってきた人たち全員が私を肯定してくれたから、私の価値を評価してくれたからだ。誰かに自身の行いが正しいと言って欲しかった私にとって、私を評価してくれる彼女たちとの時間が何よりも心地よかった。
だから私は、そんな彼女たちに自身が仕出かした過ちを味合わせたくない、今度こそこの関係を誰にも壊させはしないと心から誓った。故に自身の行いが悪いと理解していても、それが彼女たちを守るためならと目を瞑ってて見逃してきた。何度も、何度も、何度も…。
そんな自身の欲求を満たすためだけに築き上げた関係だったからこそ、その関係が崩れるのは容易いモノだったのだろう。
私がいたいわゆる不良グループは、私自身を含め八人と少し多めだった。そのうちの一人、私よりも少し背の小さな女の子と私は一緒に過ごした時間が他の六人と比べて圧倒的に長く、琴ちゃんと徹君を除けば親友と言える仲であり、私が荒れ始めた頃に初めて声をかけてくれた同級生だ。
名前はど忘れして覚えてはいないが中学校の頃から素行が悪かった彼女は、一年でありながら私たちのグループで一二を争うほどの女の子で、警察沙汰になるような事件を起こす常習犯であった。そのため、彼女と警察が一緒にいるところを私は幾度となく見てきた。
しかしそんな彼女は、私と出会った頃から脱ヤンを考えていたのだ。元々誰かに認めて欲しい、自身を評価して欲しいといった私と同じような理由で不良になってしまった彼女は、自身の欲求を満たした代償として両親や他人に迷惑をかけてしまい、そのことを後悔していた。
故に私に「なるべきではない」と助言をしてくれたのである。そのおかげで、私は警察のお世話になるような行為をすることはなかった。もし彼女の助言がなければ、最悪私は琴ちゃんの顔を一生見られなくなってしまってたかもしれず、私にとって彼女は恩人のような人だった。
そんな彼女は、しばらくしてとある男の子に恋をした。私にもそのことについて話しをしてくれたのだが、相手の名前や容姿といった個人を特定できるような情報は何一つ話してはくれなかった。詮索したい気持ちも確かにあったのだが、その時は「迷惑になるだろう」と彼について問いただす行為はしなかった。
そのため私は、彼女が好きになっていた相手のことは何一つ知らず、その相手の話し相手になっていたのだ。その光景をたまたま彼女に見られたのが原因で、後に私と彼女の歯車が狂うこととなったわけである。
最初の頃は「ただの世間話程度だろう」と彼女も我慢できていたらしいが、彼女は私に対する彼の態度の変化にある日気付いてしまっていたのだ。その頃から彼女は私に対して取る態度を変えていたらしいが、私はそれがどうしてなのかイマイチ理解していなかった。
そして彼とのメールのやり取りが激減した高校二年の夏。ついに我慢の限界にきた彼女は、呼び出した私にナイフを突きつけたことによって喧嘩が勃発した。その際に彼女が好きな相手が彼だと知り、喧嘩をしたくなかった私は必死に誤解を解こうとした。
だがすでに私と彼女の関係には亀裂が生まれていたため、彼女には私の言葉は一切通じなかった。そのため私は我に返そうと覚悟を決め、彼女に殴りかかったのであった。