01 愚か者の主人公
そして、私は記憶を探索する。
引き出すものは、どこかで聞きかじったサバイバルに関する知識だ。
『水を3日絶つと息絶える』
『食料を一週間絶つと動けなくなる』
『体温の異常は致命的な問題に直結する』
髪の毛を払うと、かき氷のような湿った雪が頭から落ちていった。
木造の建物の中とは言え、
真冬のような気温に制服を着ていても耐えられないほどの寒さを感じる。
学ランに防寒性は大してない。
ワイシャツの下には何も着てないし、ズボンも容赦なく外気を通す。
たかが氷点下に近い隙間風が、こんなにもつらい。
皮膚の露出した顔や耳、手といった部分にはもう正常な感覚がない。
運動靴も雪でぐしょぐしょに濡れ、
靴下に染み込んだ水が容赦なく体温を奪っていく。
外に死体があった。
体の震えが止まらない。
寒い。
人気のない廃屋の部屋の隅で、身を縮めて震え続けていた。
扉や窓が開け放たれた建物の中は雪や風の侵入を許し、端的に荒れていた。
朽ちて倒れた家財道具で床は散らかり、長い時間人が住んでいないことが分かる。
なぜこんなにも寒いのだろうか?
なぜこんな場所にいるのだろうか?
……全く事態が把握できない。
大隅空。高校二年生。
テストが終わり、家に帰って疲れ果てたまま玄関に体を投げて少し休憩をしようと思って寝てしまい……、気が付いたら見知らぬ極寒の地に私はいた。
理解不能。自分で思い返しておいて、訳が分からない。
『水を3日』
最悪の場合、雪を口にするしかない。
『食料を一週間』
空腹感はあるがまだ問題にするほどではない。
『体温の異常』
口がガタガタと震えている。
何か、対策を取らなければ。
持ち物と言えばポケットに入っているスマートフォンくらいだ。
行動を起こすなら早いほど合理的だ。
時間の経過で、状況は改善しない。
何もしないまま夜を迎えるのが最も恐ろしい。
頭ではわかっている。
わかっているはずなのに、心は脅えて体を動かそうとしなかった。
「死ぬわけないんだ、きっと助かるはず」と根拠もなく死の受容を否認していた。
ここで立ち止まって、ここで蹲っていればあと何時間かは生きていられる。
こっちの水は甘い……だけども、その先に待っているのは死だ。
……くそっ! まだ死にたくねぇ!
身体に鞭を打ち、建物の中から飛び出せば広がっているのは銀色の廃墟だ。
大通りは雪の海となり、並ぶ建物の軒下からは氷柱がカーテンのように育っている。
道の端に目を向ければ、成人男性の死体が一つ。
雪に埋もれた彼は意外なまでに元の形を保っているが、
動物にでも齧られたのか所々白い骨が見えている。
生前の面影もくっきりとしていて、
言いようのない嫌悪感を容赦なく撒き散らしていた。
現代日本ではまず見ない、わかりやすい非日常だ。
もう二度と動かない死体。
胸を撫で下ろした。
この死体は、動かない。
目を背けるようにずぼずぼと重たい雪の上を進んでいく。
周囲に私以外動くものはない。
おっかなびっくり建物の影を進んで、私は扉を開けて別の建物に侵入した。
『外敵の存在』
ゾンビに追われている。
私の現状を一言で表すならばこれが適切だろう。
恐らく、このサバイバルは初めからほぼ詰んでいる。
だが足掻くしかない。
諦めたらそこで何もかも終わりだ。
「生きていれば……きっとどうにかなる……」
誰にも聞こえないように、小声でつぶやいた。
自分で自分を励ます気休めの言霊。
こんな切羽詰まった状況でなければ、無性に殺意が湧いてくるような言葉だろう。
何しろ根拠がない。説得力がない。無責任だ。
けど、おまじないなんてそんなものだ。
ネガティブになるな、ポジティブに行け。
腐敗臭がしないか建物の中の空気をかぎ分けながら、
音をたてないようにゆっくりと歩く。
木造の平屋である。
建物の中は、意外なほど荒れてはいなかった。
入口には不揃いな木材を組み合わせた木製のバリケードが連なっている。
冷たさで感覚の鈍った手でバリケードをどかしながら、建物の中を進む。
部屋に入ると、中は大量の人骨で溢れかえっていた。
例外なく皆白骨化していて、区別もつかないほど積み重なっている。
どれも頭蓋骨に、似たような大きさの穴が開いている。
その時、背後からがさりと音がした。
「――っ!」
白骨の中で足を動かすと、金属の重さが靴を押し返した。
反射的に足元を調べれば錆びているリボルバーが目についた。
それを拾い、逃げ道を確認する。
(逃げるか? 隠れるか?)
敵は入口から。
骨だらけの部屋から出ると、階段を見つけた。
音を立てないよう慎重に二階に上る。
拾ったリボルバーは古いパーカッション式リボルバー。
黒色火薬と鉛玉を用いる前装式拳銃だ。
表面がぽつぽつと錆が生まれていて、
シリンダーやハンマーは動くものの弾が装填されていない。
(クソっ!)
心の中で悪態をついた。
状況を変えるための何かが欲しい。
例えば、武器だ。
だけどそんなものはどこにも見当たらない。
何かが変わることを祈って、逃げ続けるしかない。
上の階に移動し、窓から大通りに逃げようとした。
外に逃げることができそうな部屋は方角的に2つ。
扉が開け放たれている部屋に入り、窓の外を見ると、
おぼつかない足取りでふらふら歩く一人の男を見つけた。
そして、下の階からも足音。
部屋に隠れる場所はない。
もう一つの部屋は扉が閉まっていた。
fight-or-flight。逃げるか、戦うか。
戦う選択は頭の中からすぐに追い出された。
しかし逃げるにしろ、外に他の敵がいれば意味はない。
閉まってる部屋の扉に手をかけた。
内側から打ち付けられているようだが、力を入れると軋む音がした。
一か八か、音が出るのも厭わず思い切り扉を蹴ると、
扉を塞いでいた木材が折れて開いた。
中には白骨死体が一つ倒れていた。
右手には黒ずんだ血の色をしたリボルバー、
左手には小さな樹脂製のキャリングケースがある。
隠れる場所も、状況を打破する存在は見あたらない。
リボルバーは例のごとく弾が装填されておらず、
私はとっさにキャリングケースを掴んで窓へと走った。
固まったガラス戸を開ける。
その高さを感じて、一瞬戸惑った。
二階の高さから飛び降りても大丈夫なのか?
振り返ると扉の奥に人影が動いているのが見え、ついにその姿が確認できた。
私を追いかける薄汚れたホームレスのような男性は、間違いなく死体だ。
濁った角膜には生気といったものは一片たりとも宿っておらず、
また、その視線もどこに向いているかうかがうことはできない。
全身の皮膚に見える紫色はおそらく死斑で、
どこかで怪我をしたのか体のあちこちには乾いた血がこびりついて、
肉も骨も内臓も露出してしまっている。
全身が総毛だった。ゾンビの嫌悪感は高さの恐怖を上回る。
窓枠に両足をかけ、私は建物から飛び降りた。
着地する。
湿った雪がクッションのように衝撃を緩和してくれるということはなく、
両足に強い衝撃が走った。
全身の服に雪が付着する。
「はあ……はあ……」
運動なんてほとんどしない貧弱な体は、
寒さと慣れない雪の足場によって悲鳴を上げていた。
口から吐き出される水蒸気はすぐにみぞれが混じる白色の風にかき消される。
息を吸い込むたびに鼻頭と唇が寒さに痛みを発し、
それでも体は酸素を求め肺を動かし続ける。
慣れない運動に息は絶え絶えになり、
ハイペースで鼓動を続ける心臓を鎮めるため、
私は一度足を止めて大きく息を吐き出し、
肺の奥底へと目いっぱい空気を吸い込んだ。
体が叫んでいる。生きるために酸素を吸い込んで、心拍を増やして体を動かせと。
心が叫んでいる。あれに捕まると、自分という存在が消える。
なによりもこんなところで一人で死にたくない! 痛いのはいやだ! 生きたい!
凍り付いて固まっている足元の雪は運動靴を滑らせ、
その上に降り積もった新たな雪がさらに歩行を阻害してくる。
周囲は見渡す限り廃墟で、他人の気配は私を追いかけるゾンビ以外うかがえない。
なぜゾンビ以外の、まともな人間に出くわさない?
逃げたのか? 死んだのか? 殺されたのか?
私も殺されるのか?
向かい側に見える建物めがけて走り、シャッターの開いているガレージに逃げ込んだ。
とりあえず雪が積もっていない平らな場所ならいい。
拾ったばかりのキャリングケースを地面に置き、開ける。
ウレタンスポンジが敷き詰められた中には、自動拳銃が一つ、予備マガジンが6つ。加えてリローディングツールと説明書が乱雑に詰め込まれていた。
「……! マジか……!」
中に入っていたハンドガンには南京錠のようなガンロックがかかっていた。
後退したスライドにある排莢口からグリップ内に太いワイヤーケーブルが通っており、スライドも引けずマガジンを装填することすらできない状態だ。
ガンロックの鍵も見当たらず、そもそもハンドガンの弾もない。
中身のすべてをガンケースに戻すと、急いでガレージを飛び出し――
「――ぁ」
どこからかやってきたゾンビと、ばったり出会った。
絶望に喉の奥から声にならない声が漏れだす。
身体をふらつかせながら死んでも動き続ける生ける屍が、
吸い寄せられるように組み付いてきた。
ゾンビの白濁した眼が間近に迫る。
引き剥がそうともがくが、死体とは思えない膂力に難なく組み伏せられ、
首筋に万力のような力で噛みつかれた。
「ぐぁ……っ!!」
熱した鉄を差し込まれるような痛みに、全ての行動が停止する。
歯が皮肉を突き破り肉をえぐり骨をかみ砕く感触と、
首元から噴き出した血液の温かさ、のしかかるゾンビの重み。
もがくも私の細腕ではどうにもならず、逃れることのできない死が近づいてくる。
ゾンビは飢えた野犬のように私の体を貪り続ける。
首元に走る激痛と遠のく意識。
引きはがそうとするも、ただただ時間だけが過ぎていき、血を失っていく。
意識が薄れ、何も考えられなくなっていく。
耐えることのできないまどろみのようなものに意識が引っ張られる。
全身を支配する虚脱感、私はふと目を閉じた。
○
血の匂いと、焼けた肉の焦げ臭さと、燃えた髪が発する鼻を突く臭い。
首筋に噛みつかれる激痛はもうどこにもなかった。
宙から発生した肉体が地面に落下する。
着地の衝撃に、一瞬にして現実へと引き戻される。
「……あれ?」
「えっ?」
自分でも驚くほどすっとんきょうな声が出て、
その声に対する誰かの反応が返ってきた。
この場所には、人の形をした肉が4つ存在していた。
2つは目の前には血みどろになった自分の死体と、
頭を焼かれて動かなくなったゾンビだ。
もう2つは、自分の死体を眺めている私と、一人の少女。
現実感のないほど並外れた美少女がそこにはいた。
顔立ちの整った、少し幼さの残る少女だ。
背は小さく、体の線も細い。
雪のようなきめ細かい白い肌。背中まで長く伸びた艶やかな黒髪が目を引く。
身に纏っている黒いポンチョは、銀色の町の中では驚くほど激しく主張していた。
頭にはニット帽、首元にはマフラーがぐるぐる巻きになっていおり、革のブーツと手袋とぴっちりと着込んでいる。
ゾンビだらけの町に全く似合わない小さなバッグだけを持って、
何を考えているのか分からないミステリアスな視線が自分を見つめていた。
「死んで、蘇った?」
少女の視線は私と、先ほど死んだ自分の死体を行ったり来たりしている。
自分も飲みこめていない状況に、頭の中が真っ白になった。
何故私は生きている?
何故ゾンビは動かなくなった?
この少女がやったのか?
「どういうこと?」
少女の質問に、私は首を横に振った。
すると少女はゆっくりとこちらに歩み寄って、私の頭にその手を乗せて――
その瞬間、私は意識を失った。