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HOMEWARD  作者: 佐倉蒼葉
3/7

第3章

 台風は昨夜のうちにその姿を現し、雨を落とし様々な物を吹き飛ばして、朝には後ろ姿を見せ始めていた。私は折り畳みの傘を選んで部屋を出た。午後には雨もあがるだろう。ぐっしょりと濡れた道路の端は水溜まりとたくさんの木の葉を集めている。

 土曜日は会社の殆どの部署が休みで、入力室もメンバーを半数に分け、勤務時間も半日だ。私はクリーム色のシャツとジーンズに、リュックを背負って会社へ向かう。スニーカーの爪先に滲みる雨水が気にかかった。

 サブチーフの杉田さんが朝のミーティングを行い、後は普段通りに黙々と仕事をする。人数が半分だとキーを叩く音も静かだ。隣の開発部は休みで、扉の向こうが薄暗い。

 お昼休みの終わる頃には雨もあがった。まだ時々強い風が吹いて柳の枝が大きく揺れるのを窓から見下ろした。二時半、終業のブザーが鳴った。

 入力室の掃除は毎朝だが、土曜日は帰る前にする。来週の当番のための用意があるのだ。今週の当番の私は、皆のカップと雑巾をそれぞれ漂白する間に部屋の掃除をした。自分の家でもこのくらいすればいいのに、と朝出てきた時の部屋の惨状を思い出して苦笑いする。一緒に当番だった森さんは親戚に不幸があって休んでしまったので、皆が帰った後の、一人きり。キーボードを拭き終えると、それまでのカチャカチャという音が消えて、しんと静まり返った。もう風も止んだのだろう。

 何の物音もしない。

 このフロアに、私しかいないのだろうか。

 早く帰ろう。給湯室で大急ぎでカップを洗い、休憩室に戻す。それから今度はトイレに置いたバケツの雑巾を洗って、それも休憩室のロッカーにしまう。暗い廊下を行ったり来たり走り回ったが、誰もいなかった。やっとリュックを自分のデスクに置いて、抽斗を開ける。

 澤田さんと諒介のメールの紙があった。

 抽斗を腰で閉めながら、自己批判か、とまた読み返す。それまで読み飛ばしていた文字も目が拾った。



  From: ryosuke izumi Subject: Re: 台風二連発

  Date: 09.-- 1:27 PM

  Received: 09.-- 4:35 PM


   何をしたのか知らないが、諦めて反射神経を鍛えろ。合掌。



 時刻。

 受信が四時半で、という事は一時半は諒介の送信の時間だろう。澤田さんはそば屋から戻ってすぐメールを送ったのだろうから、諒介も昼休みに返事を寄越したと思われる。

 たった一言の答えが三時間後。もし澤田さんがこの時にアクセスしなければ、月曜まで届かない一言だ。

 もしも、ずっと、置き去られてしまったら。諒介の一言はどうなるんだろう。

 キーンと耳鳴りがしてきた。

 静かなフロア。私の他に誰も居ない土曜日。

 バン、と音がして風が吹き込んだ。振り返ると風がかき乱す髪で向こうが見えない。左手で前髪を上げた。

 窓が開いている。

 右手に汗が滲んだ。紙をぎゅっと握りしめる。

 昨日、飯塚さんが鍵をかけた後、誰か、───いや、あんな重い窓がどうして、

「誰だか知んないけど」と言う市川チーフの声が思い出された。

 私は慌てて窓へ駆け寄り、取っ手を引いて窓を閉め鍵をかけ、指差し確認もした。

「閉めた。閉めた。絶対閉めたからね」

 鍵に言い聞かせた。後は逃げるだけだ。私はリュックを背負って折り畳み傘をつかむと入力室を転がるように飛び出した。エレベーターは一階まで降りている、そのまま通り過ぎて階段を駆け下りた。

 諒介。

 諒介。

 どうしよう。

 諒介がいない。




 夜、先週借りたビデオを返して、何も借りずに部屋に戻った。

 眠る他に、したい事がない。




 一日中、部屋で過ごした。

 映画に買い物、里美とのお喋り、一晩中のビデオ。楽しかった一週間前が嘘のようだ。昼過ぎまでベッドでうつらうつらと眠り、起き出して牛乳とクラッカーをお腹に入れた。それからまたベッドに戻って羽根布団を被り、ぎゅっと目をつぶる。

 何も見えないのではなく、闇が見える。

 月曜の朝に、会社に着いた私が真っ先にした事は、窓の鍵の確認だった。

 閉まっていた。

 大丈夫、大丈夫、と今度は自分に言い聞かせた。話しかけられてもぼんやりしている私に、皆は「血圧下がってるな」と笑った。

 午後の休憩でトイレから戻る時、休憩所に澤田さんが居た。くわえ煙草で文庫本を読んでいる。私に気づいて軽く手を挙げた。私は衝立に両手を掛けて、目だけ見せて覗き込むような格好で話しかけた。

「澤田さん、煙草吸ったっけ?」

「俺は女性の前では吸わない主義やねん」

と答えながら、もう煙草を灰皿に捨てている。

「ふうん」

 私はそんなの気にしない。諒介は気にしないんだろうか。

 ふわ、と澤田さんの前髪が揺れた。彼は顔を上げて天井の辺りを見た。つられて私も見る。空調の送風口があった。そこから流れて来ているらしい。何だか緊張してきた。振り返った澤田さんは、珍しく真顔になった。

「何や」

「何が」

「覗いても脱がへんで」

「バカ」

 がっくりと力が抜けた。風が止む。私達はまた送風口を見た。

「調子悪いんかな」

「うん」

「由加も調子悪いんか」

「うん」

 彼の右手の、文庫の表紙に目を凝らした。『嘘八百』。深まる澤田さんの謎。

「何かあったら言えや」

「うん」

 入力室へ戻る自分の足音が、ポトポトと聞こえる。ごめん、空調がおかしいのは、私のせいです。




 気遣いは嬉しかったが澤田さんには言おうにも言えず、その夜、大阪に電話をかけた。

 留守番電話の「和泉です」を聞くと、何も言えなくなってしまう。そのまま受話器を置いた。翌日も諒介は留守で、水曜の午前には業者が空調を調べに来てしまった。皆に「泉ちゃん」と呼ばれると、もうだめなのだ。

 何で同じ『いずみ』なんだ、バカ。

 業者さんには本当に申し訳なく───当然、故障ではないのだから───原稿台に突っ伏して心の中で謝った。でも、窓が壊れるよりマシだと思いたい。

「泉ちゃん、具合悪いの?」

 隣に座る佐々木さんが小声で訊ねた。

 ふわふわふわふわふわ。

「ありゃ、」

と彼女は風にめくれる原稿を手で押さえた。

「直したんじゃないの?」

「止めてもらっちゃうかぁ」

 チーフが傍らの電話に手をかけて言った。内線で一時空調を止めてもらうよう頼む。しばらくすると暑くなってきた。マシンの熱のせいだ。チーフは「あと十分くらいだから」と立ち上がり、扉を開けて開発部に声をかけた。

「申し訳ないんですけど、暑いんで」

「いいですよー。こっちも暑いから窓開いてる」

「あと十分、うるさいけど耐えてください」

 アハハと笑い声が聞こえた。

 扉を開け放していると、外を通る人達はちらりとこちらを覗いていく。気にしないよう、原稿だけを見ようとするが、原稿台の向こうに、立ち止まった人の影がぼんやりと見えていた。なかなか立ち去らない。キーを叩く手に力が入る。だから、空調の事は許してくださいったら。

 くすくすと笑い声があちこちから上がった。

 何だろう、と思わず顔を上げて、サスペンドも忘れて手が止まった。

 外に諒介が居た。壁に凭れて入力室を見ている。

「あ、」

 腰が浮きかけると、「泉ちゃん、あと五分」と、チーフ。皆が笑った。

 一体どういう事なんだ。私のキーボードがダダダダダと鳴った。あと何分?

 ブザーが鳴ると同時にバッチ終了、原稿をパチンと留めて駆け足でテーブルに戻し、外に急いだ。諒介はニッコリと笑った。

「久しぶり」

「どうして」

 家に居ないでここに居るのよ。

「イテェ」

 どっと笑い声がして我に返った。つい、殴ってしまった。電話をかけても居なかったくせにいきなり目の前に現れたので、妙に腹が立ったのだ。周りを見ると皆が笑っている。赤面したのが判って、両手で頬を押さえた。

「いきなりこれか。ここまで何しに来たんだろう」

「殴られに来たんちゃうんか」

と澤田さんが笑った。諒介と向かい合って、扉側の壁に寄り掛かって立っていた。

「言ったやろ、こっち側の方が賢明やて」

「今度からはそうする」

 ずれた眼鏡を直して、諒介は「さて、どうしようか」と横目で睨んだ。




 並んで歩く諒介と澤田さんの後を追って、平謝りに謝ったが、諒介は「うん、うん」と言うだけだった。信号待ちで追いついてもそっぽを向いたままだ。歩調が速い。こういう時の諒介は何事か考えていて、機嫌が悪い。私は殆ど小走りになっていた。

「これで判ったやろ、俺の苦労の程が」

「うん」

「おまえの代わりに殴られる日々」

「それは濡れ衣だ」

「それは澤田さんが変な事言ったりするから」

「うん」

「割り勘でええっちゅうのは変か」

「それはごめんって」

「和泉は由加を驚かしたろ、ってだけやってんな」

「だからごめんって」

「うん」

 突然立ち止まった澤田さんの背中にぶつかった。振り向いた二人に睨まれて萎縮した。 「覚悟はいいか」と諒介。

「…はい」

 ふう、と溜息を吐く諒介を上目遣いで見ると目が合った。

「よし、飯にしよう」

「え?」

 先週、澤田さんと来た串焼きの店が目の前にあった。

「芸風変わらんな、和泉」

「いや、気が済んだから」

 二人は笑い出した。諒介はおかしくてたまらないというように「同じ手に二度ひっかかるなんて」と外灯に寄り掛かって言った。

「ああ、帰って来たって感じ」

 目の前に橋が架かった。

 誰にも見えない、バンドエイド・ブリッジだ。

 ぽろり、と涙が出た。

「うわ、由加」

「ごめん」

 そうじゃない、と口に出せず首を横に振ったが、二人は互いを小突き合って謝り続けた。


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