霧崎舞の自由研究4
それは郵便屋が二十歳のことだった。いつもと同じぐるぐる眼鏡をつけて、やはりいつもと同じように郵便物を運んでいた。偏屈な老人宅を後にして、人魚のところに郵便物を運ぼうというところ、人のよさそうな顔をした幽霊がやってきた。
幽霊自体は夢見町では珍しくもなんともない。そこらへんにいつでも転がっているものだ。路傍の石と同じだ。誰も見ても気にしない。
例に倣って郵便屋も幽霊を無視しようとした。相手をするとろくなことがない。だが、幽霊は執拗に郵便屋についてきた。郵便屋が幽霊の熱視線に耐え切れず、何か用ですかね、と聞いたのは五分後のことだった。
幽霊が言ったのはこうだった。私は死んでしまった。恋人に私の遺体を届けてほしい。
「あんたが直接行けば、死んだって納得してもらえるんじゃないですかい」
「それが、もう成仏してしまいそうなのです、どうにも恋人の元まで持つ気がしません」
郵便屋は眉間にしわを寄せた。それならやる気と根気で持ちこたえなさいな、私ゃ知らんですよ、と言ってやると、幽霊は郵便屋の足にすがりついた。気にせずに足を動かそうとするが、ピクリとも動かない。何か不思議な力を使って幽霊は郵便屋の足を止めたようだった。こんな力を使えるぐらいのならその恋人の元へ行けばいいではないかと思いながら、幽霊を見る。幽霊は神に祈るような顔をしていた。郵便屋はため息をついた。
「ちゃんと、お金は払ってもらいますぜ」
「っはい!」
幽霊はうれしそうに微笑んだのだった。
「こんなに重いとは聞いてませんでしたぜ……!」
ずり落ちそうになった体を上に上げる。郵便屋は死体をおんぶしていた。誰かに通報されてもおかしくない見かけである。幸いなことに海の近くには誰もいない。人魚の家まではあと少しだ。幽霊は死体を受け取った後、すぐに消えてしまった。成仏しそうだというのは本当らしかった。
それより今はこれだ、この死体。生暖かいし、鉄くさい。服にべっとりと血のつく感覚がする。ああ、死体と一緒に荷車でも用意してくれたのならよかったのに!
また死体がずり落ちそうになって、舌打ちをしながら元の位置に戻す。ああ、重い、くさい、汚れる。三大嫌な要素がそろってるじゃないですか、と眉間にしわを寄せる。そうしている間にも、人魚の家は迫ってきていた。あと数メートル。あと一メートル。数十センチ。数センチというところでぴたりととまる。ドアをノックすると、数秒後に勢いよくドアが開いた。
「ユキオさん!」
美しい顔を必死な形相に歪ませながら出てきたのは、人魚だった。当たり前だ。人魚の家なのに人魚が住んでいなくては詐欺ではないか。人魚は男の名前をもう一度叫んでから、郵便屋だと認識したようだった。顔を落胆に染める。
「……ごめんなさい、郵便屋さん。今日の荷物は何かしら」
「ちょっとばかし大きいので中に失礼しますぜ」
「え?ええ、いいけれど」
中にずしずしと押し入り、死体を床の上に丁重に置く。最初は異臭に顔を歪ませた人魚だったが、死体をよく見て顔色を変える。
「嘘、ユキオさん……?」
「死体を恋人のあんたに届けろって依頼がありましたんでね、ちゃんと届けましたぜ」
はんこかサインをいただけますかね。そう言うも、人魚はすでに話を聞いていないようであった。ユキオさん、という男の名前と、嘘、という言葉を交互につぶやいている。
こりゃしばらく待たないと駄目ですかね、郵便屋は内心でそうつぶやく。しばらくたってから、人魚はふらふらとした様子で郵便屋のほうへ歩み寄ってくる。
「……どうして……」
「はい?」
「どうして、死体を私の元へ届けたりしたの」
静かな問いに、郵便屋は口を開いた。あんたの恋人に頼まれたからですぜ。
そう答えると、人魚はきっと郵便屋をにらみつけた。その鋭い視線に郵便屋は内心狼狽した。にらみつけられるようなことはしていないつもりだった。自分としては。
「どうして、どうして届けたの。届けなければ、私は希望を持って待ち続けることができたのに!」
その希望は今潰えたわ、あなたのせいでね。
そう叫ばれて、郵便屋は眉をひそめた。逆恨みだ、そんなもの。
人魚はふらふらと肉切り包丁を手に取った。郵便屋に包丁を突きつけながら、なお言う。
「あなたは分かってない、不老不死の生き物にとって愛してくれる人がどんなに貴重か、愛してくれる人がどんなに愛しいか、分かってない、分かってないわ!」
「分かりませんよ、そんなもの」
だって私は不老不死じゃない。付き合うのも面倒くさくて素直にそう言うと、人魚は顔を怒りのままに紅潮させた。そして、おもむろに包丁を振り上げる。とっさに手を交差させて身を守ろうとするが、それよりも包丁の振り下ろされる速度のほうが速かった。ダァン、と勢いよく包丁をテーブルにたたきつける音がする。郵便屋は無傷だった。無傷でなかったのは、人魚のほうだった。
「……何を、しているので?」
「あなたも、私と同じ立場になればいいのよ」
人魚は自分の右手の小指を切り落としていた。包丁を手放し、切り落とされた小指を人魚の左手がつかむ。
「これを食べなさい、そうすればあなたも不老不死になる」
「はあ?」
「あなたも不老不死を経験すればいい、それでも愛してくれる人の貴重さを知ればいい、それでも愛してくれる人を愛おしく思う気持ちを知ればいい、嗚呼、嗚呼、死体がなければ希望が持てたのに、この死神!」
話している途中で感情が高ぶってきたのか、人魚の言葉が荒れる。これは仕事よ、あなたの仕事、私の切り落とした指をあなたの胃の中に届けるという郵便屋の仕事、だから食べなさい、食べなさいったら!
狂ったように叫ぶ人魚を郵便屋は冷徹な目線で見つめた。そして、ため息をつく。
「これを、食べればいいんですな」
「……そうよ」
「料金、払っていただきますからな」
人魚の左手から郵便屋が小指を受け取る。ゆっくりと小指を口に含み、飲み込む。鉄くさい味がした。
「とまあ、これが全容ですな」
「そんな……」
郵便屋さんから話を聞いた私は絶句した。そんな、そんなの、人魚さんの逆恨みじゃないか。同時に、人魚さんが言っていたことに納得する。今はきっと逆恨みでやってしまったということを理解しているのだろう。だから、今は悪く思っている、と言っていた。
「これで、自由研究は完成しますかな?」
「……こんなの、書いていいんですか?」
思わずためらいの声が出た。人魚さんにとっても、郵便屋さんにとってもこの話が出ていいことになるとは思えなかった。不老不死を狙う人間はいっぱいいるのだ。夢見町にはそんな人はいないけれど、外部にはいっぱい。私の自由研究がそんな拡大されるとは思われないけれど、もしもということがある。
「書くも書かないも、君の自由ってやつですぜ」
「私は――」
私は、どうすればいいのだろう。悩んでいると、郵便屋さんがくるりと背を向けた。あ、何か言わなければ、何か、
「郵便屋さん!」
私は、口を開いた。