井の中の蛙、大海を知らず
初めて圭太が病室に訪れた時、そこは何もない、真っ白な部屋だった。
もちろん、そこは病院のなかでも長期入院を必要とする患者を受け入れるために作られた部屋であるから、ベッドや風呂、トイレや洗面台といったものは揃っていて、何もないわけではなかった。そこに入るべき人もいたわけだし、全く何もなかったわけではないのだ。
ただ。
ただ、圭太が初めてそこへ訪れた時、彼にはそこに滞在している人物も、そこに収められている生活用品たちも、真っ白に見えたのだ。
純粋で、潔白で、穢れを知らなくて――だからこそ何もない、白い部屋で。
「初めまして。家庭教師をしてくれるっていう人ね。よろしくお願いします」
中村圭太と藤原めぐみは――出会った。
めぐみが病室から出ることは出来ない。それは彼女の病気が故に。
めぐみは生まれてからというもの、病室から外に出たことがないらしい。母親からの遺伝で継いでしまったその病気は、母親の胎内から出ると同時に発覚したそうだ。
だから彼女は外のことを何一つ知らないまま、それまでを生きてきた。知りたくても知る方法がなかったから。
病室は光の量から酸素濃度、食事から排泄まで細かく看るための部屋で、「箱入り娘ってカンジかしらね」と自嘲気味にめぐみが言っているのを圭太は聞いたことがある。反応が取り辛い話で、圭太は何も言えなかったのだが。
そこまで管理されて、制限されて、かつ外界との関係を遮断されて――教育に手が届かなかったのは、仕方のなかったことと言えば、そうなのだろう。
当時、めぐみを担当する医師が家庭教師として連れてきたのは、担当医自身の息子で、それがすなわち圭太だった。
突然、家庭教師をやらないかと話を持ちかけられ、連れられるまま、病室に入った。それが、圭太が十六歳の時で、めぐみが十七歳の時。
教師というより、同年代の話し相手を用意する目的だったのだろうことを圭太はなんとなく察して、読み書きが出来る程度だっためぐみにそこまで熱心に勉強はさせず、外の話をすることにした。
足し算や引き算、掛け算や割り算を教えながら、休憩がてら外の世界のことについて話し――。そんなことの連続で、およそ一年が経った日のことである。
圭太はいつも通り、高校の授業が終わると直接病室に向かった。
春が訪れてしばらく経った時期であり、気温は心地よく過ごせるくらいに調度いい暖かさで、それに加えて程よい強さの風が吹いている。そんな日だった。
心地よい外の空気にあてられてのんびりした気分になっていた圭太は、めぐみのいる病室に近づくと、いつもより騒がしさを感じた。
もともとめぐみが明るい性格であることによって、その病室全体は大抵いつも賑やかではあるけれど――今日は何か、違う。圭太の脳裏にに嫌な考えがよぎった。まさか、めぐみの容態が悪化したのか。
「すみません。あの、めぐみに何かあったんですか?」
一年間通いつめている病院ということもあって、知り合いは多い。圭太は、すぐそばですれ違ったとした看護師に訊いた。
「えっとね……。圭太くん。落ち着いて。落ち着いて、聞いて欲しいんだけど」
看護師の口調からして、よくないことだということは分かった。黙って頷くと、
「あの子の症状が悪化してきて……。お母さんの時と大体症状が一緒なの。だから……」
今夜保つかどうか。というよりは今夜のうち、いつ頃になるかの問題なのだと、看護師は言った。
「そんな……。だって、昨日までは――」
――昨日までは、あんなに元気だったのに。圭太はそう言おうとしたが、すぐに口を閉じた。
彼女の病気にはほぼ前例がない。だから、昨日がどうだったという話は、無駄。そう、一年前に医師から話を聞いていたのを、思い出したのだ。
「あの子には家族どころか、親族もいないの。圭太くん、あの子と一番親しいのはあなただから――お願い」
圭太の耳にはもう、看護師の言葉は入ってきていなかった。目の前のことに必死になる彼の性格が故でもあるし、この状況ならば誰だってそうなったかもしれない。
僕に――僕に、出来る事は――。思考するよりも先に、圭太は走り出していた。
――めぐみの病室へ。
「どうしたの、圭太。そんなに急いで」
圭太が病室の扉を開くと――拍子抜けしてしまうほどのんびりとした口調で、彼を迎える姿があった。
栄養が行き届いていないかのように細い手足、血が足りていないみたいに白い素肌。淡い青色のパジャマを着た、精巧な人形のように美しいその存在は、今にも消えてしまいそうなほど不安定なようにも見えた。
正面に立つ少女――藤原めぐみの様子を確認して、すぐに圭太は笑顔を浮かべた。
「いや……。何でもないよ」
予想していた最悪の状況が目の前にないことに安堵する。圭太は、ひとまず手近にあった椅子に腰掛け、ようやく部屋の全体を見渡すことにした。
「変なの」
くすりと笑うめぐみは部屋に唯一存在する大きな窓の縁に座っている。そのすぐ下にはいつも彼女が寝ているベッドがあって、脇には本棚がある。お風呂や洗面台、トイレまでついているこの部屋は、彼女が病室から出なくても生活出来るようになっていて、それは初めて圭太がこの部屋にやってきた時と同じだ。
変わったことと言えば、ベッドや本棚、洗面台に、可愛らしいぬいぐるみや分厚い本、キャラクターの描かれたコップなどが置かれていることだろう。
「圭太。あなた、相変わらずすごい髪ね。それでも整えたの? 科学実験に失敗して大爆発を起こした、みたいな髪型になってるわ」
と、めぐみは圭太の髪に目をやって、訊いた。
「今日は忙しかったから、櫛を入れている暇がなかったんだ。朝の事だったから、大分ましになったと思ったんだけど」
圭太はせめてものの抵抗、と手を櫛の代わりにして髪を整えながら、
「それはそうと、今日は本を持ってきたよ。それなりに厚い本だから、読むのには結構時間がかかるかもね」
膝の上に乗せた鞄を開けて一冊の本を取り出し、めぐみの方へ表紙を向けた。
「作者はこの間渡した人と同じだけれど、ジャンルは違うから面白いと思う――って、おっとっと」
不意に強い風が吹き込んで、圭太は手の上に乗せた本が倒れそうになるのを片手で止めた。
「今日は風が強いからね。気をつけなきゃ――って、え?」
圭太は持ってきた本をしまおうと、本棚へ歩み寄り――立ち止まった。
「めぐみ!」
「ど、どうしたの、圭太」
突然大きな声を出した圭太に、めぐみは驚いて窓の縁からベッドに落ちる。
「どうしたの、じゃないよ! どうして窓を開けてるんだ! 閉めないと!」
いつもはそんなことしないのに、どうして今日は。圭太は怒って、窓に向かう。
――と。
「ああ。そのことね。――良いんだって。先生が言ってくれたのよ。今日は窓を開けていいよって」
めぐみは屈託のない笑顔を浮かべ、圭太を止めた。
「なんでも、今日は珍しく調子の良い日なんだって。だから、今日は特別に窓を開けていいよって。言ってくれたの」
五年ぶりくらいかしら、外の空気に触れたのは。めぐみは嬉しそうに呟いた。
その言葉を聞いて――、圭太は、理解した。してしまった。
今夜保つかどうか。
看護師の言っていたことは紛れもない事実で。彼女はもう――。
だから、いつもなら絶対許されない、窓を開けることも。今日は良しとしたのだと。理解した。
「それでね、それでね。あんまり気分が良いものだから、この前圭太がくれたCDを流してのんびりしていたのよ」
これだけ普通に笑っていて。これだけ普通に話していて。これだけ普通に生きていて。今夜は保たないなんて――。圭太はそれでも、信じきれていなかった。
症状なんて、どこにも見えないじゃないか。そう、思った。
「やっぱりいい曲ね。この、サイレント・ソングって曲は。わたし、この曲が大好きよ」
素敵な歌、と彼女は呟いた。
「気に入ってくれたのなら、今度来る時はそのアーティストのCDを持ってくるよ。デビュー曲がすごかったから評判も良くて、最近はテレビでも取り上げられて、とても人気があるんだ。この前、新しいCDを出していたから、それを持ってくる」
一度来るたびに何か一つを持ってくる。そういう、約束だからね――と。
今度来る時――と、言ったのはおそらく、圭太自身がそう望んでいたからなのだろう。
次に来る時もまたこの女の子の笑顔を見たい。そう、望んでいたからなのだろう。明日も明後日も、来週だって来年だって、何度だってここに来るから。そう、伝えておきたかったからなのだろう。
「それは無理よ」
だから、めぐみがそう言った時、圭太は驚きを隠せなかった。向いてしまっていた。彼女の方へ。
「もう、最後だから」
それは、窓から流れる風に消えてしまいそうなほど弱々しい声なのに、圭太の耳には叫び声のように響いて聞こえた。めぐみの髪が、冷たい風に吹かれて揺れている。
「分かっているわ。今日なんでしょう。……わたしが死ぬのは」
めぐみの顔には、先ほどまでの笑顔はなく。圭太が目にしたのは、真っ直ぐに圭太を見据えた迷いのないめぐみの表情だった。
「……知ってたの? 誰かから、聞いたの?」
圭太が訊くと、めぐみは目を伏せて首を横に振り、
「誰かから聞いたという話ではないわ。ただ――分からないわけ、ないでしょう?」
彼女は伏せた目を窓に向けた。
窓を開けても良い。
そんなこと、いつもなら言うわけがないのに。彼女の病気は何が影響してくるのか分からないからと、医者たちはそれまで、常に厳しく接していたというのに。それが途端に優しく、寛容になってしまえば、誰でも気付く。
そういう、ことだった。
「気遣ってくれているのは、分かっているのよ。同情してくれているのも、分かっているわ。それを拒むつもりもない」
それでも出来ることなら、普通でいて欲しかったかな、と彼女は寂しそうに笑った。
「今朝の検診があった後、泣きそうな顔をした看護師の人に訊かれたわ。欲しい物は無いかって。会いたい人や、したいことは無いかって」
看護師としては、ただ純粋に何かをしてあげたくてしたのだろう。だが、どれも露骨過ぎた。
悪いわけでは、無いのだろうけれど。
「もう……何も出来ないの? どうにも、ならないの?」
圭太は声が震えそうになるのを必死で抑えつけながら、訊いた。
「薬を飲むとか――、何かしらの手術をするとか――」
「――多分、どれも無理よ」
意味が無いの。彼女は言った。
「以前にわたしの病気の話はしたでしょう? 前例が一つしか無い、珍しすぎる病気なのだって。いえ、そもそも病気と言えるのかどうかも怪しいのよ」
「それは――聞いたけれど」
続く言葉が見つからず、圭太は口を閉じる。
「わたし自身でさえ、なんとなく分かっていたことなのだから。もう、そういう時期なのかしらってね。身体が――変わっていく感覚というのかしらね」
わたしには。
彼女は風に揺れるカーテンに視線を向けて、
「わたしには、血が流れていない」
患者のために支給された服の袖をまくり、めぐみは腕を露出させる。
「本来あるべき身体の内部には、血液や血管、臓器すらも存在しない。今のわたしは、そもそもどうして生きていられるのかが分かっていない」
めぐみは腕を持ち上げて、月の明かりに照らす。
「わたしを構成しているのは――砂」
透き通るように真っ白な肌は、月に照らされて――透けた。
透けた。
光に当てられた腕は一応、影を描いてはいた。だがそれも、一応、といった程度のもので――、腕の形をした影には小さな穴がいくつも出来ている。まるで、目の粗い布を光に当てたように、影にはところどころ、隙間が在った。
彼女のレントゲンは何度も撮られている。症状が症状だけに、精密な機械を用いて幾度も彼女の身体を調べようと医師たちは手を尽くした。
でも、彼女の身体を通った筈の光は何もとらえなかった。レントゲン写真には何も映らなかったのだ。内臓どころか、骨の一本も。
結果。分かったのは、通常あり得ない症状であることと、心臓のあたりに腫瘍のような物があること。腫瘍というより、核らしい――というのは、圭太がめぐみから聞いた話だ。それも、その腫瘍が、病気の原因であるかは分からないのだそうだ。
「唯一ある前例というのはお母さんだったよね?」
めぐみはじっと、月に照らされた自分の腕を見ている。
その様子に耐えられず、圭太は歩み寄ってベッドに腰掛けると、めぐみの腕を降ろさせた。
「そうよ。前例はお母さんのみ。そのお母さんも、何年も前に死んでしまったから、データというデータはない」
心臓の核は、お母さんにもあったらしいのだけれど。めぐみはどうでもよさそうに言った。
その母親が死んだ時には母親の遺体は残らず、代わりに砂のような粒が残ったため、レントゲンに映らなかった身体が砂で構成されていたらしいということが分かったのだ。
でも、それ以外のことは何も、分かっていない。
「もう、なにをしても無駄――ということなのでしょうね」
先程まで屈託のない笑顔だと思ったその表情も、今では疲れを読み取ることが出来る。圭太とは一つしか年齢が違わないはずのその少女は、圭太とは段違いに年を取っているように見えた。
「そんなこと」
圭太はその次に繋がる言葉を、頭では浮かんでいたその言葉を、発することは出来なかった。
そんなこと無い。大丈夫。――そう、言えるわけがないのだと。分かっていたから。
諦めて欲しくない、まだ生きていて欲しいという一心から口に出てしまった言葉を、めぐみはきちんと、理解したようだった。彼女は圭太の性格を、分かってくれている。
「ありがとう」
だから素直にお礼を言ってくれたのだろう――。圭太は思った。今一番気を使われるべきなのは彼女の方なのに。今一番大変なのは、めぐみ自身だというのに。彼女は死に際になってまでも、他人のことを心配する。
初めて会った時からそうだ。自分の命が長く続かないことを分かっていながら、めぐみは他人のことばかりを気にしていた。いや、自分が長く生きられないと、分かっていたからこそなのかもしれない。
あの先生は元気なように見えているけれど、勤務時間が随分キツイようで大変そうだとか、たまに遊びに来る隣の病室の子供はいつも寂しそうだとか。他人の事ばかり。
「そんなに――他人のことばかりじゃなくてさ」
だから――圭太は言ってしまう。
「自分のしたいこと――やりたいことを――」
禁句だ。そう思ったのは、口に出てしまってからだった。
「…………」
めぐみが、辛そうに微笑むのを目にして、圭太は苦しくなった。
「ごめん」
そう言うことしか、出来ない。今一番めぐみが言われたくないことを言ったのは、圭太なのだから。
それでも、めぐみは首を横に振って、
「いいよ。圭太は純粋に、わたしを気遣ってくれたのでしょう?」
「でも――」
「――良いのよ。大丈夫だから」
貴方のことは、よく分かっているから。彼女はそう言って、もう一度優しく微笑んだ。
「わたしにとって、圭太のことを分かっているというのが、嬉しいのだから」
「めぐみ?」
「――ごめんなさい。今のは聞かなかったことにして」
めぐみは慌てたように付け足すと、前髪を触りながらそっぱを向いた。が、耳が赤くなっているのを圭太は確認することが出来た。
でも、なかったことにしたいみたいだし、と圭太が考えていると、
「それよりもね、圭太」
わずかながらに耳が赤いままであることを分かっているのかいないのか、めぐみは再び圭太の正面に向かい、
「……あるわ」
「え?」
圭太には何の話をしているのか理解できず、訊き返すと、
「だから、やりたいことよ。まさか、この会話の流れで別のことはあり得ないでしょう」
「そうだけどさ。でも、めぐみってボケーッとしているところあるから、頭のなかで別のことを考えながら今まで僕と話していたのかなって思って、一応確認したんだ」
「そんなことないわ」
心外、といった表情のめぐみに対し、
「そんなことあるよ。特に朝とかはね。めぐみは覚えていないだろうけれど、この前なんか僕が部屋に来てから一時間くらいしてからようやく、僕が来ていることに気付くんだもの」
「そ、それはわたしが本を読んでいたとかでしょう?」
「いや。一時間くらい、きみは何もせず、ベッドに座ってぼーっとしていたよ」
と、ここまで話して、めぐみは自分の旗色が悪いと悟ったのか、
「そんなことより、圭太。あるわよ、わたし」
「ぼーっとすることが?」
「その話はもういいの。やりたいこと――したいこと。圭太に協力してもらわなくては出来ないこと」
どんなこと? と僕が訊くと彼女は少し得意気になって、引き出しにしまってあった櫛を取り出し――言った。
「ここに座って? 圭太」
めぐみのその動作があまりにも楽しげだったので、圭太は思わず笑ってしまった。めぐみはすでに櫛を構えて待っているのだ。
「なによ。別に良いでしょう?」
笑い出した圭太に、頬を膨らますめぐみ。
「ごめんごめん。でも、そこでいつもやってくれていることを希望されるとは、思わなかったんだよ」
圭太がそう言ってもまだめぐみは拗ねた様子だったので、
「でもめぐみ。本当に、そんなことで良いの? めぐみがしてもらうというより、僕がしてもらう事になるだけなんだけれど」
「いいんですー。わたしがやりたいって言うんだからいいんですー」
「ふーん。なるほど、めぐみが良いって言うのなら、良いんだね」
圭太は彼女の前まで歩み寄り、ベッドに腰掛けた。
「それじゃ、お言葉に甘えて。よろしくお願いします」
「はい、よろしい」
満足そうに言ってから、めぐみが僕の髪へ櫛をいれる。注意していれば、彼女の方から鼻歌まで聴こえてきそうだった。
何度か櫛を上下させて、
「相変わらず、すごい癖っ毛ね」
と、めぐみが微笑む。
「どうして少し嬉しそうなの?」
「整えるかいがあるから――かしらね」
続けて、
「ちゃんとトリートメントしてる?」
と訊いた。
「リンスならしてるけれど」
「なら、良いわ」
それにしてもすごい癖っ毛、と呟きながらめぐみは何度も圭太の髪に櫛を引っ掛けていた。
「…………」
しばらく経って、いつもなら気にならない筈の沈黙を認識してしまう間が、あった。
圭太は意識を自分の頭に向けながらも、何故かなるべく音を立てずに呼吸しようとしていた。
居づらいわけではなく。緊張とも、少し違う。
圭太が今自分を囲む状況を理解しようと思考を巡らせていた時。
「…………」
圭太の右手――手のひらに、何か冷たいものが触れた感覚があった。
「――ひゃっ」
驚いて振り返る。
「ふふ。変な声」
背後で笑っていたのは、もちろんめぐみだ。楽しそうな表情で、圭太の手に触れていた。
めぐみは手を放そうとして――今度は圭太がその手を掴んだ。
「な、何かしら」
珍しく動揺してるのかななんて思いつつ圭太は、
「さては、本当のお願いって、これだね?」
と、めぐみの表情を窺う。
「違うわ、そんなわ――」
「――冗談を言うの、めぐみは苦手だからね。わかるよ」
「今日は珍しく冗談が思い付いたのよ」
「めぐみって嘘をつく時には必ず一度自分の前髪に軽く触って、唇を舐める癖があるんだけど、気付いてた?」
「そうなの?」
「冗談だよ」
圭太が笑うと、
「いじわる」
とめぐみがまた拗ねることとなった。
それでも繋いだ手は放さないままだったのだから……そういうことなのだろう。
窓から吹く風が彼等の間を、通り抜けて行った。
窓には雲ひとつ無い空と、はっきりと見える月が映しだされている。
月の光が照らす先へ――圭太が視線を動かすと、目に映るのはもちろんめぐみの姿。月に映し出される彼女は真っ白で、綺麗で、それでいて儚げで。
数秒間見惚れていると、圭太は、彼女の頬に涙が零れていることに気がついた。
「……めぐみ?」
何か言おうとしたのだろう、めぐみは一度口を開けて――しばらくして、口から漏れてきたのは、嗚咽だった。
「あれ……変だな……」
彼女は呟いて、こぼれた雫を袖で拭い取る。
「決めたのに……。完全に、心のなかで決めてたのに……」
どうして。
「どうしてわたし、最後まで――」
「――めぐみ!」
言い切る前に、圭太は彼女を抱きしめた。
もちろん、彼女を抱きしめたのは初めてで――というより、彼女と直接的に触れることが、あまりなかった。
嗚咽がおさまり、しばらくしてから、
「……どうして」
めぐみが呟いた。
「どうしてそう、何でもかんでも、分かってくれちゃうかな……」
「分からないよ。でも、その。僕はめぐみに、言いたいことがあって」
圭太は自分の頬が赤くなっているのを感じながら、言った。
聞いて欲しくて。言いたくて。伝えたくて。
「僕、めぐみのことが好きなんだと思う」
抱きついたまま伝えたその言葉は、めぐみの耳のすぐそばで囁かれて――めぐみはくすりと笑ってから、
「……思うって。圭太らしいわね」
嬉しそうに、そう答えた。
答えて、返事は――また嗚咽だった。
「どうして、今日なんだろう――」
彼女は、泣いた。
「どうして、わたし、もっと早くに言えなかったんだろう――。どうして、もっと早くに気づけなかったんだろう――。どうして、今日、わたしは――」
風が、吹いていた。
「ごめんなさい」
しばらくしてから。
彼女は真っ赤になってしまった目のまわりを拭いながら、
「本当は、何も言わないつもりだったのよ。何も言わず、そのまま逝くつもりだった」
「そんな」
「だって、そうでしょう? わたしは今日、死ぬのよ? そんな人に想いを告げられて、あなたはどうするというの――」
これから死ぬ人に告白されて。その人を置いて、自分は逝く。
「そんなこと、自分勝手過ぎるでしょう? そんなことをしたら、圭太、あなたは絶対――」
絶対、めぐみ一人を想ってこれからを生きていく。圭太なら、そうする。それは圭太自身にはもちろん、圭太をよく知るめぐみにだって、明白なことだったのだろう。だからこそめぐみは、言えなかったのだろう。
「でもね、めぐみ。僕だって直前までは悩んでいたんだよ――。これから逝ってしまう人に、そんなことを言ってどうするのかって。困惑させてしまうだけなんじゃないかって」
「……そう」
そっけなく返したように取れる返事はきっと、嬉しいことや悲しいことが入り混じって、返し方が分からなくなってしまったのだろう。
「でも今は、きちんと伝えられる」
彼女は窓の縁に腰掛け、笑顔で、
「好きよ、圭太」
圭太もめぐみと隣り合って座り――徐々に顔を近づけながら、言った。
「僕も」
「ごめんね」
長い間の後、彼女はまた謝った。
「一緒にいてあげられなくて」
多分。もう時間なのだろう。
「わたしは、世界を知らないわ。この世界のたくさんのことを知らない」
何も、知らない。
「いつかまた、わたしたちが会える時が来るのかは分からない。死んだらどうなるかなんて、分からないもの。だけど、もし天国があるなら。もし、そこでもう一度出会えるなら」
今度はわたしを、色々なところへ連れて行って。
めぐみはそう言って――微笑んだ。
風が強くなっている。彼女の周囲には、砂が舞っていた。
「圭太。これからいろんなところに行って――色々なものを見て、知って、教えてね。友達や、仲間、新しい恋人や――家族、色々な人と出会って」
わたしはずっと、待っているから。
「色々な話を、聞かせてね」
めぐみはもう一度圭太と唇を重ねる。
「うん、約束だ」
何度も。何度でも。彼等はお互いの気持ちを、確かめ合った。
理解、しあった。
圭太が目を開けた時、そこには誰もいなくて――そこにあったのは、幾らかの真っ白な砂と、真っ赤に輝く、石だった。
彼女の胸には、小さな腫瘍があって、それが核になっているのかもしれない。医者が以前、そんなことを言っていたことを思い出す。おそらく、その腫瘍というのは、このことなのだろう――そう思った。
それはとても小さな石で、手のひらで完全に包み込むことが出来た。
風が強くなってきている。
圭太は赤い石を手に取り――病室を去っていった。
――――あとがき――――
どうも。
風月白夜です。
好きな言葉は他力本願です。すみません、思いつきです。造語です、悪ふざけです。
加えて苦手なことは後書きを書くことです。
この度は、小説を読んでいただき、誠にありがとうございました。
そろそろ夏ですね。
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