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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

執筆練習、短編集

マリオネットな貴女、マグネットな僕

作者: 結川さや

この作品はバッドエンド、読後感も悪いと思われる作品です。苦手な方はご注意ください。

 黄昏の空を眺めながら、貴女は言った。

『もう、終わりにしましょう』と。

 僕は答えた。

『最初から、始まってなんかいない。それが僕たちじゃなかったのかい』

 彼女の瞳から、涙は流れなかった。

 ただ代わりにすいと立ち上がり、長く美しかった黒髪に鋏を入れた。自慢の髪は、ものの五分もせずに床に流れ落ち、彼女は背を向けた。白く細い首があらわになって、彼女のまとう赤いドレスは、夕焼けの光を受けて不気味なほどにより赤く見えた。

 彼女は振り向き、同じ赤の唇をゆがめて微笑んだ。短すぎる髪の不ぞろいな毛先が、泣いているように跳ねていた。

『さようなら』

 彼女は言った。

『さようなら』

 僕も言った。

 壊れた人形のように、彼女は笑っていた。ただ、静かに、悲しく笑っていた。


        *


 読み終えた後、佑香ゆうかさんはタバコを取り出した。

「ねえ、今回のホン、どう思う?」

 僕は訊ねる。裸の肩が寒くて、くるりと毛布に丸まっている状態だ。そんな僕の頭をぽんと撫でるようにして、佑香さんは微笑む。

「うん。いいんじゃない」

 その『いいんじゃない』が本当にいいと思っている口調じゃないのは、いつものことだ。でも、今日の佑香さんは機嫌がいい。タバコをおいしそうに味わい、ゆっくりと煙をくゆらせるのはその印。僕は本当は窓を開けて換気したいのだけれど、佑香さんのご機嫌を壊したくないから、我慢している。

「それにしてもさ、この結末は何なの?」

「何って?」

「だって、結局あれだけぐちゃぐちゃやって、別れるわけでしょう。それなら最初から付き合わなきゃいいと思わない? こんな時間と労力の無駄をやるような、そういう馬鹿な女じゃないと思うんだけど、『エイコ』は」

『エイコ』は、僕の今度のホンの主人公だ。つまり、僕が所属している大学のサークル――映画研究会で今度撮る予定の、短編映画の台本。二年生の僕は、一応脚本家なのである。

 大学の講義とバイトのかたわら、こうしてホンを書いて、誰よりも先に佑香さんに読んでもらう。それが僕の日常だった。

 僕の薄茶の髪をこれまた子犬に対するように撫でて、佑香さんはホンを捲る。

「ま、でもそういう馬鹿をやるのが恋愛でもあるんだけど。あたしはエイコみたいにはなりたくないな」

 言い切って、佑香さんは灰皿にタバコを押し付けた。細い指で器用に火をもみ消す仕草だけは、とてもセクシーで好きだ。こんなことを思うのは、相手が佑香さんであるからだけれど。

「待ってよ、佑香さん」

 ベッドサイドに置いてあった銀の腕時計をつける、その仕草は嫌いだった。もうすぐ六時。冬の日は暮れていて、彼女との時間の終わりを告げている。

 彼女が帰ってしまうと、ホンも映画も、どうでもよくなる。何もかも、存在している意味がなくなってしまう。僕は急いで起き上がって引き止めた。

「ねえもう少し。もう少しだけ」

 そう言って、後ろから抱きしめる。まだ何も身につけていない僕と違い、佑香さんは着てきたワンピースのファスナーまで上げてしまっていた。もう一度それを途中まで下ろし、素肌にキスをすると、佑香さんは小さくため息を吐き出した。

「聞き分けがない子は嫌いよ。ね?」

『嫌い』の言葉に、僕の心臓がどれだけ締め付けられるのかを、佑香さんは知っている。知っていてやってるんだから、タチが悪い。それなのに、そんな悪い佑香さんも僕は好きだ。彼女が彼女であるだけで、そこにいてくれるだけで、空間に光が生まれ、色が生まれる。彼女がいると、僕が生きている実感が沸く。それぐらいに、僕は佑香さんに夢中だった。

 だから、仕方なく付き合ってくれているようなキスを、五回交わしたところでなんとか耐えた。最後にもう一度だけ彼女の甘い唇を吸って、心を抑える。

「次、いつ会える?」

 長い黒髪を指で梳いて、訊ねた僕に、佑香さんは微笑んだ。

「そうね。また、会いたくなったら」

 この刹那。この刹那だけは、佑香さんが佑香さんであることを憎みたくなる。

 僕は、それでも微笑み返した。

「待ってる」

 佑香さんは、背を向けたまま手を振った。左手の薬指に、銀の輝きをきらめかせながら。


 次の日は、講義のない日だった。

 でも僕は大学に向かう。冷たい部屋の中で、一人でいることに耐えられそうになかったからだ。かといって人ごみの中に出る気もせず、バイトも入っていない日。

 だから、僕は映画研究会の部室にいた。夕方のうだうだした時間に集まっている連中なんて、みんな似たようなものだ。このまま飲みに行く流れに、僕は身を任せるつもりでいた。何度となく見た携帯に彼女からの連絡はなかったし、何よりも彼女の予定は知っていた。今日は、彼女のご主人が出張から帰ってくる日。まるで何事もなかったかのように、良い妻の笑顔で手料理を準備している頃だろう。

 そんな家庭の、夫婦の平和を乱す気は僕にはないし、それだけはしないことが最低限のルールだと思っている。どうせ不倫――何をかっこつけることがある、と人はののしるだろう。けれど、僕は佑香さんが好きなのだ。彼女から連絡があれば何を置いてもかけつけるし、たとえバイトを休んででも、一緒にいたかった。

 思い出すとまた胸が締め付けられて、息が苦しい。だから、僕はわざとくだらない馬鹿話に大笑いしながら、結局飲み会に参加していた。

 なあ大橋、お前なんで彼女作らねえの? 顔もいいし、モテるだろう? あ、遊びが楽しくて一人に決めたくないってやつ? なあ、そのうち一人でもいいから回してくんねえ? いいじゃん、大橋―。

 そんな会話に適当な相槌を打って、ビールを煽って、飲めるだけ飲んで、トイレに立った、その時だ。同じサークルの、最近参加したばかりの女が僕を待っていた。

 二人で抜けようと誘われた時、正直またかと考えた。僕はみんなの言う通り、わりと見た目がいいほうだから、こんな機会にも恵まれてはいた。

 いつもなら断るそれを受けることにしたのは、昨日の行為の疼きがまだ残っていたからか。それとも、彼女の手料理を味わい、乾杯でもして、今頃彼女を押し倒しているだろう男のことを考えると、気が狂いそうになるからか。とにかく、気づけば僕はその、名前も知らない女とホテルにいた。

「大橋くんのこと、前から気になってたの」

 女は恥ずかしそうに言った。けど、そんなことどうでもよかった。何と返事をしたのかも、僕は覚えていない。ただ、女の唇が喋るのをやめるまで待って、そこに吸い付いた。口紅も全部落ちるぐらいに、めちゃくちゃしつこくキスをした。女は息を荒げて、しがみついてきた。だから押し倒した。それだけだ。

「好き」

 そんな言葉を聞いたからじゃない。潤んだ瞳を向けられたからでも、細いのに豊満な胸を見たからでもなく、平均より可愛いほうだろうという顔をゆがめ、僕を誘ったからでもなかった。その女が、今、この瞬間にここにいたから。どうしようもない衝動と鬱憤をもてあました僕の前で、脚を開いたからでしかない話。

「可愛いね」

 適当に褒めて、服を脱がせて、僕はキスした。でも内心では、佑香さんと比べていた。こんな時、佑香さんならもっとうまくキスを返してくれるのに、とか。逆にこちらが翻弄されるぐらいに舌を絡ませ、冷静でいられないように僕を散々煽って、最高のセックスをさせてくれるのに、とか。

 そんなことを考えながら他の女にキスをし、愛撫をし、その体に自分の爆発しそうな感情を流し込むのは、僕が最低野郎な証拠だ。でも、唯一持ち合わせていた良心のかけらが、全て終わった後に僕を凍らせる。佑香さんを裏切ってしまった。そう思って、僕は苦笑する。もともと、裏切られているのは自分のほうだと。いや、彼女にとっては僕などただの暇つぶしだ。出張の多い旦那の、穴埋めのようなものなのだ。

 なのに、僕一人がいつも乾いている。余り物のおこぼれではなく、僕がメインであってほしい。違う。僕だけであってほしい。彼女を、独り占めしたい。

 そう思いながら吸うタバコは、まるで毒のように苦かった。咳き込んだ僕の背を、女がさする。

「大丈夫? みおくん」

 そう呼ばれた瞬間、僕の頭は冷えた。鬱憤を吐き出せたと思ったのは一瞬で、より大きな感情が押し寄せた。

『あたしはエイコみたいになりたくないな』

 佑香さんの声が脳裏で蘇り、僕は女の手を思い切り振り払った。

「……なよ」

「え?」

「馴れ馴れしく名前なんて呼ぶなって言ってんだよ。お前なんて、ただの暇つぶしだ」

 タバコの苦さがそのまま声になった、最低最悪の台詞。もっと最悪だったのは、次にこの台詞をホンに使ってやろうかと思ったことだ。そして最悪な僕は、もちろん女に頬を叩かれた。ついでに枕元に置いてあったペットボトルの水も頭からかけられて、僕は女の背中を見送ることになった。

「二度とその顔見せないでよね! 最低!」

 言われた言葉は胸にかすりもせず、僕は笑っていた。ただただ、ひどく喉が渇いて、もう一度部屋で飲みなおそう、と決めた。


 お互い、会えない時に何をしているかなんて、佑香さんは聞きもしない。当たり前か。だって彼女が旦那と過ごしている時間のことなんて、僕だって聞きたくない。

 だから、今日も無言で抱き合うだけ。連絡が入った時点で僕は部屋を片付け、彼女の気に入るような音楽をかけたりもする。でも、佑香さんには音楽などどうでもいい。そして僕も同じ。佑香さんの声を聞きたくて、唯一彼女が乱れる時の一音一音を聞き逃したくなくて、結局音楽も消す。

 時間の許す限り、裸の彼女を隅々まで視界に焼き付けて、これ以上ないぐらいに興奮して、中学生みたいにどきどきして、僕は彼女を抱くのだ。しなやかで、滑らかで、傷一つない肌に唇を寄せて、跡を残さない程度に吸い付いて、味わって。胸の先端にまで舌を遊ばせると、彼女は鳴く。美しい獣のような細い声で、喘ぐ。その時ばかりは、世界中に僕と佑香さんしかいないような気になれる。

 たとえ薄い壁の向こうで隣人が迷惑がっていようとも、階下にきしむベッドの音が届いていようとも、気にしない。気にしている余裕もない。今、この時間に、佑香さんをしっかり抱きしめて、全て聞き逃さずにいることで精一杯なのだから。

「澪……澪、好きよ」

 かりそめの、偽りの、愛の言葉。自分の名前を呼ぶ、最高の嘘の瞬間、僕はめちゃくちゃに感じる。彼女が感じている姿を、見る余裕も失ってしまうぐらいに。

「愛してる」

 かすれ声で囁き、耳たぶを噛む僕に、佑香さんは頷いた。とても、ちゃんと聞いていないほど上の空で、行為に熱中している顔で。でも僕は満足だった。この瞬間だけは、佑香さんが確実に自分のものだから。

 でも、そんな夢のような時間は行為の終わりと共に消えて、現実が戻ってくる。

「もう行かなきゃ。またね」

 感じるのをやめたら、佑香さんが僕の名を呼ぶことはない。それは、この関係が始まった時から――五年前から変わらない、彼女の中のルールだ。

 もしかしたら、旦那との時間に間違えて名前を呼んでしまうことを恐れているのかもしれない。今はそれが旦那で、二年前は違う恋人で、そのまた前は不倫相手のオヤジだった。それだけ。

 常に僕は本命ではなく、残り時間を埋める存在。本当なら、腹を立てるべき扱い。でも、僕は初めて彼女と会った時から、そんな彼女を好きになった。家庭教師としてやってきたくせに、親のいない家で、僕の部屋で、童貞の少年を誘うような、悪い女を。

 僕の親はそんなことを知らないし、たとえ僕が告げ口をしようと信じはしないだろう。彼女は優秀で美しく、理知的な大人の女性。進んできた道筋も完璧で、すばらしいキャリアと、その後の安定した結婚生活を手にしている。僕なんかと遊びにも付き合うような女性ではないからだ。

 でも、僕は知っている。完璧な佑香さんが、何かに飢えていることを。その飢えは、僕にも、そして旦那にも癒せはしない。

 唯一彼女が没頭できる行為――愛という仮面に隠した、濃密な体の関係。それだけが、彼女が男を求める理由でしかないようにさえ思えるほど、『悪い女』は最高に『淫らな女』だった。そして僕は、そんな淫らな佑香さんを愛している。僕自身、それに佑香さんにさえもわからないほどに、深く深く、愛しすぎて苦しいほど。

 でもその愛は重くて苦い。全てをあらわにすれば、きっと僕も彼女も壊れてしまう。だから、心の奥深くに閉じ込めて、封印して、見えないようにしておくのだ。

 今日も、その扉の内側で『もっと』と叫ぶ自分を知りながら、僕は笑った。

「またね、佑香さん」

 タバコを吸い終えるわずかな時間だけ、彼女を見つめて、軽くキスを交わして、見送る。全てが始まり終わるまで、一時間もなかった。


 僕の中の毒は、決して消えることはなかった。それからも続く佑香さんとの関係の中、音もなく降り積もる雪のように、あるいは灰のように、僕の心を埋めていく。いや、覆い隠そうとしているだけだ。僕の、強すぎる欲求を。叫びを。彼女を求める、自分の声を。

「ねえ、あんたでしょう、美晴みはるのこと泣かしたの」

 呼び止められて振り向いた僕には、何のことだかわからなかった。しばらく考えてから思い出したのは、先日ひどい言葉を投げつけて帰した女のこと。そうか、あの女は美晴という名前だったのか。

 今更そんなことを考えていた僕は、その美晴とやらのオトモダチがものすごく正当な怒りをぶつけてくるのを、聞くともなしに聞いていた。

「で、用件ってそれだけ?」

 興奮した声で喋っていた女は、僕がそう返すと目を剥いた。

「それだけ、って――もっと、あんたには誠意ってもんがないの? ちゃんと美晴に謝りなさいよ! あの子、あれからずっと沈んじゃって、全然元気がないんだから」

 正義感に燃えたオトモダチ女の顔は、あの時の美晴とは違うタイプの今時顔だ。どちらにしても、まあまあ可愛くて、見分けがつかない系統。僕の冷めた目つきにひるんだ様子もなく、身長差をものともせず、必死で睨みつけているのだけは可愛いと思った。別に、その場だけの感情だったけれど。

 反応がない僕に怒り、またつっかかってきた女を、僕はいいかげんウザイと思った。だから、背後のドアを閉めた。かちゃりと鍵までかけたから、今、この映画研究会の部室に、僕とこの女だけがいることになる。時間はくしくも夕方。僕が一番嫌いで、一番好きな、中途半端な時間。

「な、何よ……怖い顔したって、何も怖くなんかないんだから! あんたにちゃんと謝らせるまではあたしは一歩だって――」

 最後までは言わせなかった。突き飛ばしてソファに沈めて、唇を奪ったからだ。

「んん……っ、な、何す……やめて!」

 その甲高い声にだけは、ちょっとそそられた。それで舌を入れてみた。押し倒して、動けないように手首を掴んで、閉じようとする唇を舌でこじあける。必死の抵抗は、ものの数分ともたなかった。優しく優しく、何回も差し入れた舌を、女は受け入れた。少しだけ唇を離して、瞳を見つめて、反応を待った僕の前で、女は言葉も出せずにとろんとした顔をしていた。

「あたし……そんなつもりじゃ」

 小声で言い訳するのを、キスで止める。くだらない言葉なんかどうでもいい。いらない。ただ、このむしゃくしゃした気持ちと体を静めてほしい。また奥底で暴れ始めた感情を、欲求を、僕は逆に優しい愛撫で発散させた。

「君みたいな友達想いの子、好きだよ」

 適当に言った台詞に、女は返事をしなかった。できなかったのだろう。僕が服を脱がせ、胸の谷間に顔を埋めたから。

「美晴……ごめん」

 囁きみたいな最後の抵抗を、僕は舌の動きを激しくすることで押し流してやった。

 女は、喘ぎながら泣いていた。そんな涙は見たくなくて、僕はめちゃくちゃに腰を動かした。この女とはまた会ってやってもいいと考えたのは、思ったより中の感触がよかったから。それだけのことで、その程度の思いだった。

 

 僕の最低な行動は、数日とも経たぬ間にキャンパス中に広まった。また会ってやってもいいと思った女は、良心を選んだらしく、僕の前に顔を見せなかった。美晴とやらとどうなったのかなんて、考える気にもならなかった。僕は映画研究会にも呼ばれなくなり、自然に足も遠のいた。

 僕は、最後の居場所も失ったのだ。結局、一人の部屋に戻らざるを得ず、僕はそれまで以上に狂いそうな想いで佑香さんからの連絡を待った。それだけを待っていた。

 でも、連絡は来なかった。数日が経ったある日、僕は自分でその理由を知った。いや、突き止めたのだ。佑香さんのマンションの近く――今まで、絶対に行くまいと自分に固く禁じていた場所。その付近で、彼女が病院に入っていくのを見た。看板には、産婦人科の文字。出てきた彼女がどこか幸せそうにお腹を撫でていたことで、わかった。ああ、彼女にも、焦燥の終わる時が来たのだ。あれほど何かに飢えていた瞳が、不思議と静かに凪いでいた。僕を好きだと言った唇は、優しく微笑んでいた。

 旦那との子供ができた今、僕に用なんてないだろう。もう、終わりだ。

 ――違う。最初から、始まってもなかったじゃないか。

 自分が書いたあのホンの言葉が、台詞が、僕を押しつぶした。暗やみに生きていた僕の、唯一の光。どんなに自分勝手で、悪い、みだらな光だったとしても、それだけが僕の生きる理由だった。

 初めて、好きになった人だった。

 そう思った瞬間、僕は泣いていた。止まらない滴をそのままに、僕はうずくまった。道端で、彼女が消えた方向を見つめて、僕はなりふりかまわず泣いた。

 どうして、平気なふりなんてしたんだろう。いつだって、平気なんかじゃなかったのに。あの笑顔を、瞳を、体を、存在全てを――自分のものにしたかったのに。

 泣いて泣いて、声も出なくなるくらいに泣いて、どれくらい時間が経っただろう。僕は、立ち上がった。前へ進むためではなく、堕ちていくために。

 どうやって行動したのか、正直覚えていない。気づけば、購入したばかりのナイフを持って佑香さんのマンションへ戻っていた。部屋番号は知らない。けれど、いつか角部屋に住んでいることだけは話してくれた。階ごとにじっと見つめていたら、最上階の角部屋に明かりがついた。そしてそこに見えた人影が、確実に佑香さんであることを確認して、僕はエレベーターに乗った。

 ナイフをジャケットの内側に隠し、握り締めながら、僕は考えていた。

 佑香さんにとっての僕は、僕にとってのあの美晴という女や、そのオトモダチくらいの価値でしかなかったのだろうと。そいつらよりはもう少し長く続いただけの話で、彼女が求めるセックスを僕が提供できたから、それだけ。認めたくなかったけれど、僕は知っていた。最初から、僕に価値なんてないことを。

 そう思ったら、もう歯止めは利かなかった。最上階に着いて、佑香さんの住む部屋のチャイムを鳴らす。今頃、帰宅しているだろう旦那が出てくるかと思ったが、扉を開けたのは彼女だった。

 驚く顔が、いつもより薄化粧であることが苦しかった。部屋着が、僕の前で着るような鮮やかな色のワンピースでないことに胸が痛んだ。ナチュラルな色合いの、優しいブラウスとスカート。そんな格好の佑香さんは、見たことがなかった。その顔がゆがみ、唇が開いて、何かを言おうとした瞬間、僕は動いた。

 僕の中の焦燥を、鬱憤を、嘆きを――全部ぶちまけて、強く突き刺した胸から、映画みたいに赤い血が流れ出す。

「み……お」

 こんな瞬間にも、名前を呼ばれて嬉しいなんて、そう思う自分がみじめだった。玄関にどさりと倒れこんだ佑香さんを、僕は受け止めることができなかった。ナイフを手に、立ち尽くしていた僕は――そこでようやく気がついたのだ。

 夫婦二人生活であるはずの部屋に、まるでそれを思わせるような雰囲気がないことに。部屋の中は清潔で、シンプルで、どこまでも何も装飾がない。ナイフを持ったまま、必死で探し、開けた洋服ダンスにも、引き出しにも、彼女一人の衣服しか入っていない。そして見つけたベッドは、狭いシングルベッド。僕は、ようやく息をすることを思い出した。心臓は冷たく、なのにばくばくと高鳴っていて、唇は乾いて、全身に嫌な汗が噴き出す。滑って転びそうになりながら、戻った玄関で、僕は佑香さんを抱き起こした。

「ごめんね……澪」

 嘘をついて。何も話さなくて。真実を伝えられなくて。どういう意味であっても、もう遅かった。僕は、首を横に振る。何度も、何度も。

「だって……結婚、は……旦那の話……どうして」

 震えながら漏らした僕の言葉に、佑香さんはかすかに微笑んだ。

「好きよ……」

 それが最後の言葉だった。僕の腕の中、佑香さんの体は力をなくし、だらりと腕が落ちた。

「ゆ……佑香さ……う、そだ……嘘だ……」

 自分がやったのに、まるで嫌な夢を見ているようで、現実感がない。そんな一瞬の思いは、僕の服にまで染みてきた赤い血が消し去った。

 僕は、叫んだ。狂った獣みたいに、叫んで、叫び続けて、佑香さんをひたすら抱きしめて泣いた。かけつけた人々が僕と彼女を引き離すまで、ずっと。


 それから、何度季節が巡っただろうか。僕は世間から隔離された世界で、罪をつぐなうという名目で、ひっそりと生きている。でも、僕は自分が生きているのか、夢の中にいるのか、もうわからなくなっていた。

 ただわかるのは、自分が刺し、佑香さんが赤い血を流したこと。病院に運ばれても間に合わず、彼女が息を引き取ったこと。僕は殺人犯として、刑に服しているという事実のみ。

 でも、現実感はなく、僕の胸から感情だけがすっぽりと抜け落ちていた。そんな頃、僕は手紙を受け取った。他でもない、彼女自身からの手紙だった。

 彼女のコートのポケットに入っていたというそれは、家族によって発見され、かなりの時を経て僕の手元に届いたのだそうだ。迷っていた母親が、僕の模範囚ぶりを見て送ってもいいと決めたとか。

 そんな伝言を話半分に聞き、僕は手紙を開いた。そこに並ぶきっちりとした文字を見て、僕は佑香さんがそんな字を書くことをようやく思い出した。家庭教師をしてくれていた頃、確かに彼女は几帳面な教師だった。遠い記憶を辿りながら読み進めていた僕の手は、震え始めた。何度拭っても、堪えても、あふれ出てくる涙が、手紙の文字に落ちた。

 ――拝啓 大橋 澪様

 真面目な書き出しから始まった文章は、彼女の懺悔だった。僕を苦しめたことへの、彼女の後悔と謝罪。予想外の真実が記された手紙を、僕は必死で読んだ。息が苦しくて、吐きそうで、倒れそうで、それでも最後まで読んだ。

『私の結婚生活は、半年で終わりました。それでも嘘を続けていたのは、あなたと向き合うのが怖かったから。いいえ、自分と向き合うのが怖かったのです。私は、人を好きになるのが怖かった。本気で、その人に全てを捧げるのが恐ろしかった。それなのに相手の想いがほしくて、空っぽな自分を満たしてほしくて、強いふりをしていました。わざと冷たくして、そんな女を演じることで、自分も強くなれると思った。でも、そうじゃなかった』

 何度も読み返したのは、最後の告白。

 ――あなたとの子供ができました。

 その一文に、嗚咽が止まらなくなった。僕は、僕と佑香さんとの子供も、彼女と一緒に殺してしまったのだ。

『小さな命ができたことで、私もようやく自分の仮面を取る決意をしたのです。あなたとちゃんと向き合って、ずっと前から抱えてきた想いを告げます。あなたを、愛していると、あなたの前で、微笑んで――』

 視界はぼやけて、それ以上読めなかった。僕と彼女には、もう未来はない。僕がこの手で、待っていたはずの未来を消してしまった。僕が、この手で――。

 僕が見ていたものは何だったのだろうか。好きだと、愛していると、あれほどに思いつめていたくせに、何一つ理解もできていなかった。彼女を知ろうともしていなかった。彼女の心に、気づくこともできなかった。

 涙でにじんだ手紙が、僕のホンと重なる。あの日の佑香さんの言葉が、僕の書いた台詞となって蘇る。

『さようなら』

 エイコにはなりたくないと言った佑香さんは、僕に本心を知ってほしかったのだろうか。

「さようなら」

 震える唇から、僕は言葉を搾り出した。ああ、ようやく、焦燥から解放される。僕は、僕の望んでいたものを、別の形で手にしたのだ。

「……さようなら、僕」

 隠していた紐で作った輪に、僕は首を差し入れた。最後に微笑んでいたのは、闇の中に光る笑顔を見つけたから。

 苦しく辛い世界で、僕が消した光。けれど、闇の奥には、両手を広げて待っている彼女がいる。だから、僕は行くのだ。

 さようなら、現実。

 僕は、僕の望んだ愛を、その最後の時に見つけたから――。


             (了)


読んでくださり、ありがとうございました。


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― 新着の感想 ―
[良い点] バッドエンドなお話ですが、一気に読んでしまいました。 こういう話も「アリ」、と素直に思います。 [気になる点] 「迷っていた母親が、僕の模範囚ぶりを見て送ってもいいと決めたとか。」(作中よ…
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