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革命前夜  作者: 卯月 朔
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Ⅴ. 「ありがとう」



 暴君のオルゴールは曲に合わせて人形が踊る上等な代物だが、シエリカの知る限り、元から古くて調子っぱずれな骨董だった。




 だから、その日も暴君はなにかとてつもなくくだらない、ささいなことで機嫌を悪くしたのか、さもなければ別段これという理由もなく、気まぐれにオルゴールを叩き壊してみたくなったにちがいないと、そう思った。音がおかしいのだ、と暴君は言うが、シエリカにしてみればそんなのは初めからで、今さらだ。

 けれども今さらというなら暴君の癇癪や性質の悪い思いつきこそ「今さら」で、寝支度ですでに灯りを落とした部屋のなか、寝台脇のランプを頼りに夜目を利かせてオルゴールの残骸を拾い集めるシエリカは深々と嘆息する。壊すのなら、床に叩きつけて終わりにしていれば良かったものを。物音に気付いて振り向いた時には、すでに止める間もなく室内履きの足で粉々にしてくれていたのだ。おかげで破片で切れた暴君の足の世話までしてやらなければならなかった。

 面倒な、と思えばもうひとつ余分にため息が出る。


「――大体、こんなにしなけりゃ直せたかもしれねェだろ。何やってンだよ」


 暴君の寝所は集めるだけ集めた蒐集品でいっぱいだ。

 どれほど価値のある物も、どんなにつまらない物も、手にした途端に興味をなくす暴君のせいでがらくた同然の扱いを受けるこの部屋にあって、いまや無残に打ち壊されたオルゴールだけは特別な存在なのだと、シエリカは思っていた。使い込まれて古び、音のはずれたオルゴール。暴君が独り寝をする夜にはきまって聞こえるその音色を、まるで子守唄のようだと思っていた。


「大切だったんじゃねえのか」


 暴君は寝台のうえから馬鹿馬鹿しげに鼻を鳴らす。


「それは幼い頃、母上にいただいたものだ」

「は?」


 出し抜けな昔語りにシエリカは虚を衝かれ、思わず顔を上げて振り向いた。

 視線を受けて、壊れたものに興味はないとばかりによそを見やっていた暴君も振り向き、目を合わせて口端を持ち上げる。その顔にシエリカは抜かったと舌打ちするが、すでに遅い。暴君は歌うようにつづける。


「あるいは叶わなかった初恋の思い出。いや、それよりも私をだれより慈しみ、愛し育ててくれた乳母が宮廷を追われる日に、形見にと涙ながらに渡された品だという筋書のほうが、貴様好みだろう。いかにも陳腐で、実にくだらん」

「勝手に決めつけてんじゃねえよ、気色悪ぃ……っ」

「照れるな」


 シエリカは拳で寝台の柱を殴りつけ、暴君は喉を詰めるようにくっくと笑った。前言撤回だ。そもそも暴君の行動に、機嫌の良し悪しで違いなどない。


「貴様はそうして地べたに這いつくばっているのが、やはり良く似合うな。シエリカ」

「誰のせいだと思ってやがる」

「それは壊れたものにいつまでもかかずらう自らの卑小さを問う言葉か? 犬畜生の分際で、哲学などやめておけ。憐れに堪えん」

「てめぇが壊したせいだろうがッ!」

「――壊れたのだ」


 暴君は何気なく、けれど断固としてそう言い切った。

 拾い集めたオルゴールの残骸の代わりに、シエリカはため息を落として立ち上がる。寝台のそばにある小卓に手のなかの破片をがらがらと広げれば、ランプの明かりに照らされて恨めしげに宙を仰ぐ人形と目があった。舌打ちは存外大きく響く。

 オルゴールは壊れていた。

 シエリカが暴君のものになってから、あるいはそれよりもずっと前から。調子っぱずれで、人形の動きもぎくしゃくして、それが今さら、何が「壊れた」というのか。この寝所を埋め尽くすがらくたと同じようにほうっておけば良かったものを、どうしてわざわざ壊したのか。手にかけるほど気に入っていたなら、なぜ――諦めたのか。

 考えるだけ無駄なことだ。

 暴君のことなどシエリカにはわからない。わからなくても構わない。

 目の前にいるのは『死なない』暴君。

 それだけわかれば充分だ。


「いつまで未練がましくしているつもりだ」


 シエリカが振り向けば、暴君はにこやかに微笑する。


「目障りだ」

「てめえ……っ」


 脳裏につぎつぎひらめく殺し方といっしょに、シエリカは胃の腑のあたりから込み上げる吐き気じみた罵声をぐっと飲み込んだ。虫の居所がすこぶるいいらしい暴君に余計なことを言ってもろくな目に遭わない。正確にはいつ何時にもろくでもないのが暴君である。もう夜も更けていた。これ以上の面倒は御免だ。

 シエリカは昂ぶりかける気持ちを鎮めるように重く長く息を吐く。怒気と殺意がごとごとと音を立てて足元に落ちていった。


「――もう寝ろ。伽がいるなら呼んできてやる」


 精一杯穏やかに申し出ると、暴君は小馬鹿にするように鼻を鳴らした。


「ずいぶん気の利いた申し出だな。しかし落ちた履物を拾うだけの芸なら路傍の犬にも出来ると思わないか? 卑しくも二本の足で立っていたければ、つねにみずから思考しろ」


 つまり今夜は独り寝をするというのだろう。シエリカは奥歯をぎりぎり噛んで凄絶に眉間を皺寄せる。暴君の舌は呪われろ! 安い芝居のように胸中で毒づいてみても即効性の奇跡など起こるはずはなく、悠々と身を横たえる暴君に寝具の上掛けをかけてやりながら、身のうちに溢れる呪詛で自分の息の根こそ止まりそうだ。

 さっさとここを出て、踏み砕かれて恨めしげなオルゴールの人形のことなど忘れて、どこかで酒をたらふく浴び、泥のように眠ろう。

 そう思って身をひるがえした矢先、なにかに袖を取られてシエリカは不覚にものけ反った。がくん、と膝が折れ、そのまま具合よく真後ろにあった小卓の椅子に尻を落とす。

 くっくと喉を鳴らす笑い声に、胡乱に眇めた目で暴君を見やった。


「……伽はいらないんじゃねぇのかよ……」


 いかにも大儀げに、億劫そうにうめくシエリカに、広い寝台の端で寝具に埋もれる暴君は猫のようにほくそ笑む。今夜の暴君は薄気味悪いほど上機嫌だ。だからきっとこれ以上なくくだらない我儘に付き合わされるにちがいない。


「私が眠るまでそこにいろ」

「は?」

「歌でもうたえ」


 思ったとおりだった。シエリカはげっそりしながらあらぬ方へ視線を向ける。

 暴君が眠るまで、ということは、ようするに朝までここにいろという意味と同義だ。暴君の眠りは極端に浅い。寝ないと言っても過言ではない。そのうえ、歌など。

 シエリカはもう数えきれないほどそうしてきたように、がらくたのなかを悠然とやって来た人喰いの獣の額を掻き撫で、嘆息しつつ小卓に手を伸ばした。オルゴールの残骸を素通りし、卓上に散乱する品々にかぶせて置かれた本を拾い上げる。これもまた、めずらしく暴君のお気に入りだった。

 どこのだれが書いたのかもわからない、巷にありふれた安い小説は、ひとむかし前に流行った駆け落ちもの。シエリカは読むでもなく頁を繰りながら、いつだったか、今夜のように機嫌の良かった暴君が饒舌に語ったあらすじを思い出す。

 百遍聞いた筋書きで、貴族の令嬢が下男と恋に落ちるのだ。手に手をとって逃げ出すふたり。けれど令嬢は育ちの良さから場違いな我儘で下男をわずらわせ、疲れ果てた下男は金銭と引き換えに、令嬢を屋敷の追っ手に渡してしまう。

 あえなく頓挫した逃避行ののち、下男は自責の思いと捨てきれない恋情に焦がれ、令嬢もまたみずからの行いを顧みて恥入り、下男を想うあまり病に臥せる。手にした金をすべて酒にして飲み干した下男はついに心を決め、令嬢の静養先へ走ると情けある侍女の手引きを受け、ふたりは再度の逢瀬を果たした。

 それから――。


「しかしもはやあの日のように、何もかもうまくいくと信じて駆け出すことなどできはしない。それでも胸には愛がある。血潮にたぎる情熱がある。今一度、嘘いつわりないその熱を交わしあえたことこそ、恋の神の祝福。あらゆる苦難に打ちひしがれ、結ばれることが今生叶わないのだとて、もはや我らは離れることさえ出来はしない――そして、ふたりは幸福のうちに絶望して死ぬ」


 退屈でくだらない話だ、と暴君が言う。

 ならばどうして何度も何度も読み返すのか、シエリカは訊ねなかった。オルゴールといっしょだ。いつの日にかこの本のことも、暴君は気まぐれに引き裂き、忘れるだろう。暴君にとって特別なものは何一つ、この世にないのだ。

 それでいいとシエリカは思う。

 きっと、神様なんてそんなものだ。


「ところで私は貴様に歌えと言ったはずだが? あれほど仕込んでやったのだ、せめて歌い鳥の真似くらいはやってみせろ。――出来なければ殺すぞ?」

「てめぇこそ死なねえうちに、さっさと寝ろ」


 暴君は愉快げに笑い、シエリカは本を閉じた。

 ランプの明かりを消し去ると、闇のなかに、けれどオルゴールの音色は聞こえない。




 おやすみ、暴君。






 おやすみ――。






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