Ⅳ. 二人を結ぶ絆の名
「――暴君」
かつて、ひとりの女が権力を夢見た。
きらびやかなものに憧れ、高貴なものを眺めるだけに飽き足らない野心を持ち、その情熱と美貌で宮廷の華として生きる彼女に、惹かれたのが時の摂政だ。
すでに隆盛を極めて爛熟し、当時から腐りかけの芳しさを漂わせていたとはいえ、帝国と呼ばれるほどの国の玉座がともすれば私生児として不遇の一生を送るはずだった年端もいかない子どもに廻ってきた理由を語るには、おそらくそれで充分だろう。
手垢にまみれたくだらない三文芝居に似ている。
ありがちで、わかりやすい。
だからその顛末も――じつにあっけなく、あっさり、語られるのだとシエリカは思う。いつか。どこかの、誰かによって。
物笑いの喜劇のように。
「逃げないのか、暴君」
問いかけに返事はなかった。
本の頁を繰る音だけが、雑然とした寝所の片隅にちいさく響く。
がらくた同然に積み重なる蒐集品のなか、使いようのない暖炉のそばに置かれたテーブルで、暴君は擦りきれた本を読んでいる。名も知れぬ作家の小説だ。シエリカも一度読もうとし、けれど半分と目を通さないうちに表紙を閉じた。高価で高尚な本も、ばかばかしくてくだらない本も、この部屋には探せばいくらもあるだろうに、暴君はいつも同じ本を読んでいる。
普段どおりの昼の装いで、おだやかに頁を読み進める暴君の背後、カーテンを開けた大窓の向こうには晴れ渡る空が広がっていた。つねに陰鬱な帝都の空にしては冗談じみた快晴だ。おかげで近づいてくる喧騒までもがひどく現実味のない音に聞こえる。
夢のなかの出来事のように。
白々しく、曖昧で。
ただ、目の前の沈黙だけが、そこに確固として存在していた。
暴君は応えない。
顔を上げることも、一瞥をくれることさえない。
あの日から、あの雨の日から――おそらく自分も、この部屋のがらくたと同じになったのだ。
シエリカはそう理解している。
――かつて、ひとりの女が権力を夢見た。夢見る彼女に惹かれたのが時の摂政だ。
思いがけず玉座に登る子どもは、野望を抱く大人たちの傀儡として、そこに存在するはずだった。王冠を頭上に戴く小奇麗な人形として。
それが数年後にはみずからの操り手を粛清し、絶対の君主になったのだ。
子どもだからこそ無垢で高潔な王者だった。
すべての悪徳を正義によって排除し、信念をもって理想を叶える。
あとは腐って落ちるのを待つだけの帝国に、ふたたび花を開かせ、それを百年も千年も散らないようにすることが、子どもの描く夢だった。
壮大で、清浄で、うつくしい夢だった。
だからきっと、その夢はきらきらしたチンケで重い額縁に入れ、手の届かないところに掛けて、眺めるくらいがちょうど良かったのだ。
うつくしい夢のなかで暮らすには、ひとはあまりに無知で卑屈で不純なのだから。
子どもにはそれがわからなかった。
自分がひとより優れていることも、ひとが、自分の思うよりずっと救いがたく、劣っていることも。わからなかったのだ。
だから暴君はあきらめた。
完璧な幸福へ至る道は見えている。繁栄は約束されている。妥協するくらいなら、いっそのことすべてをあきらめた。わからなかったのだ。ひとが、どうして、いずれ辿りつけるはるか彼方の遠大なしあわせを無碍にしても、たまさか足元に落ちてきたあるかないかの幸運を拾い集めることで満足できるのか。
暴君にはわからなかった。
だからあきらめた。
シエリカにはそうとしか理解できない。
そもそも、暴君の考えなど測りようもないのだ。出会った時には悪逆非道の君主だった。過去の記録を調べたところで、暴君は語らない。いまさら真実を聞かされたとして、理解できるとは思えないし、わかりたいとも思わない。
シエリカにしてみれば、それがいくら素晴らしかろうと、絵のなかの楽園よりも空腹を満たしてくれるひとかけのパンが大切だ。喉が渇いて死にそうなのに、先々のだれかのために井戸を掘れと言われても、いま自分を潤してくれる一杯の水を探すのが先決である。
そんなごく当たり前の、平凡な感情を――。
わからせたいとは思わないし、理解されたくもないのだから。
この国も、ここにあるがらくたも、自分すら、暴君に見放されたのならそれでいい。
まだしも、それがいい。
「――」
開きかけた口から漏れ出た吐息は、意味のある言葉にならなかった。
銃声が聞こえる。民衆が騒いでいる。嘘くさい晴天の、目もくらむ明るい昼間に、祭りのような賑やかさで、なんともひどくやかましい。自由を、勝利を、栄光を。そんなものがこの世界の、一体どこにあると言うのか。
神様はもうこんな場所に興味などありはしないのに。
暴君は静かに本を読んでいる。
大窓から入り込んで室内を照らす陽射しに目を細くし、シエリカは何も言わず背を向けた。足元のがらくたを踏みつぶし、寝所の扉を押し開く。廊下に出て、扉が閉まると、とても清々した。ずいぶん呼吸もしやすくなった。
ほんのすこし前まで、退廃の甘い香りをさせて宮廷を賑やかしていた貴族や廷臣のあらかたが逃げ出し、あるいはすでに粛清をうけていなくなった宮殿は静かなものだ。逃げそこなった使用人やわずかばかり残る近衛兵があちこちで震えあがっている様子を見ると、ひさしぶりにむかしのように、おだやかで優しい気持ちになりもした。
だからせめて、目につけばひとり残さず苦しまないように殺してやりながら、シエリカはすっかり馴染んだ宮殿の廊下を歩いていく。
向かうのは階段室。
あの物置のようなねぐらに続く、唯一の道。文字通り、ほかには隠し通路のひとつもない。げっそりするほど広く豪奢な造りも含め、行き道はともかく退路までひとつに絞ってどうするのだと呆れて文句もなかったが、こうなれば便利なものだ。なにせ暴君の寝所に行こうとするなら、階段室を通るよりほかに手段がないのだから。
あそこに爆薬を仕掛けたのはもうずいぶん前になる。
あの頃、暴君は路地裏で拾った病気持ちの絵描きにむちゃくちゃな薬を使って描かせた踊り場向かいの壁の絵が気に入りで、ひまを見ては階段室に行って飽きもせず眺めていた。それから時折振り向いて、にやにやと上機嫌に笑ってくれるのが癪だった。
仕掛けの手入れは怠っていない。いいように爆ぜるだろう。
錯乱してわめきながら当たりもしない歩兵銃を撃ってくる衛兵の喉に短剣を投擲し、拾いあげた銃で振り向きざまに後ろを逃げようとしていた女中の頭を撃ち抜いて、シエリカは階段室に向け進んでいく。正門はもう押し破られているだろう。あのむだに広大な庭園を、じきに民衆が駆け抜けてくる。自由を、勝利を、栄光を。
革命だと恥じらいもなく叫びながら。
けれどまだ、いまは静かだ。
だからだろうか、どこからか――明るくて――優しげな――なつかしい――。
――歌が聞こえる。
シエリカのいない寝所はすこしばかり広くなった。
その片隅で、むくりを身を起こしたのは巨大な獣である。南方の人喰いは足の踏み場もない寝所を悠然と進み、暖炉のそばに置かれたテーブルのしたにその巨躯を落ち着けた。がらくたの隙間に身を伏せ、たくましく尾をしなやかにそよがせながら、うっそりと目を閉じる。
暴君はそれに視線もやらず、手元の本を読み続けていた。
どこからか聞こえる子守唄に、ありえるはずのない歌声に、じつにつまらなそうに、くだらなそうに、退屈そうに目を細くして。またひとつ、頁を捲る。
明るく静かな昼間だった。
帝国の瓦解を告げ、爆ぜる轟音が鳴り響くまで。
***
長年の悪政に耐えかねた辺境の反乱に呼応する民衆の正義による蜂起は、かくして野に放たれた火のごとく速やかに革命を為さしめた。帝都陥落の後、あらたに樹立した革命政府の手で宮廷の腐敗は一掃され、捕縛された王侯貴族の多くは裁判によってつぎつぎに断頭台へと送られたのである。帝国最後の君主もその例外ではない。
栄耀栄華の見る影もなく痩せ衰え、薄汚れたかつての暴君は、帝都ではめずらしくもないある曇天の日にギロチンの刃が待つ広場の中央へ引きずり出されると、集まった民衆に石や汚物を投げかけられ、あらゆる罵声と呪いの言葉を受けながら、やつれた首を一刀のもとに刎ねられて死んだ。
その末期の言葉は、とある戯曲家が歌劇にしたことで、やがて大陸の全土に知れ渡ることとなる。すなわち、かの暴君の言ったとおりに。
――諸兄らの栄光に祝福を!
この素晴らしい勝利が語られる時には、つねに私の名とともにあるだろう。
諸兄らの行いに、過ちはただひとつ。
いまこの場に、私の死神がいないこと――ただ、それだけだ。