Ⅲ. それぞれの過大評価
――歌が聞こえる。
使われなくなったワイン蔵のなか、かすかに高く、反響している。ひどく場違いな感じだった。明るく、優しげなその曲調に、わざわざ殺さずに残しておいた何人かを痛めつけながら、シエリカは苛立ちを募らせる。
いったい、どこの馬鹿がこんな――。
拷問の最中に聞くには吐き気がするほどのどかな歌だ。けれどいやに耳馴染む。どこかで聞いたことでもあったのか。
わずかな逡巡のすえに思い出し、シエリカは苦虫を噛み潰した。
――暴君のオルゴール。
かの横暴な主人が、独り寝の夜には決まって鳴らしていた、あのオルゴールの曲。題名は知らない。いつだったか、音がおかしくなったからと、暴君みずから叩き壊した。古びた小さなオルゴール。静かな夜に、奏でられた子守唄。
それをくちずさむのが誰でもない、自分自身だと気付いた瞬間――シエリカは目の前の男の肩を踏み砕いていた。
すでに両手足を踏みつぶされていた男が、人間の声とは思えない絶叫を上げて薄汚い壁際で悶え苦しむ。その声で意識が現実に引き戻され、足元を見れば、涙も洟もいっしょくたに、よだれと血反吐にまみれながら、それでも這いずって逃れようとしている男の姿が目に映る。そんなになっても生きながらえたいのか。
もはや悲鳴なのかなんなのかわからないか細い声を上げている男の腹を蹴り転がし、髪を掴んで引きずり起こす。男は恐怖に引き攣りながらぴいぴいと鼻を鳴らしていた。
哀れなものだ。
「もういいだろう……そろそろ、喋ってみたらどうだ? お前らは、ここで、なにを、していた?」
声を荒げて脅すでもなく、シエリカは淡々と、いっそおだやかな声音で、もう何度目になるかもわからない質問をくりかえす。
男は顔を歪めて呼吸を乱しながら、それでもなお首を振った。歯の根もあわずに震えている。それでも。
「なにも、なっ、なにも、なんでもない、な、な、なんでもな、い、ぃひっ、ひっ、お、おお、俺たちは――」
「わかった。喋りたくなければ、いい」
脂汗をにじませる男の喉を切り裂き、掴んでいた髪をあっさり手放す。男は今度こそ声もあげられないままもがいている。じきにおとなしくなるだろう。
シエリカは嘆息した。
近頃は、こんなことばかりだ。
郊外にあるこの場所で、夜ごとに集会が開かれていたのは明白だ。現にこうして男たちが集まっていた。届け出のない市民集会は立派な違法行為である。とはいえ、法はつねになんらかの形で犯されるもので、闇集会などむかしからいくらでも存在している。
けれど――この頃は、それも異常だ。
集会の数も、頻度も、やたらに多い。こうなれば帝都に暮らす市民のほとんどが、日々なにかしらの集会に参加しているのではないかと思えるほどに。
勝手な集会は違法だ。
そしてこの国の市民集会の取り締まりは、気が触れたように苛烈である。
そもそも、法に則り届けを出したところで、めったに許可など下るものではない。そこをおして法を犯せばひととも思えない罰が待っている。だれでも知っていることだ。それでなおこの現状。集会につどうのは男ばかりではない。時には女や子供まで、少なからずまざっている。参加者はもっぱら中流以下の低階層だが、どこぞの名家の使用人風の者がいることもしばしばだった。
この異常を、大会議も察している。
集会の取り締まりはなおいっそう強化された。もっとも、この期におよんでもまだ利権やら地位やらに固執している連中が、てんでばらばらに指揮をとっているのだから、うだつの上がるはずがない。
こんな時にこそ本領を発揮するべき暴君はといえば、あいかわらず、大会議や識者の諫言に耳を貸すどころか歯牙にもかけなかった。事態は日ごとに悪化して、華やかな宮殿には、疑心と不安が膨らむ一方だ。
シエリカにしてみれば、だからどうしたということもない。
シエリカが従うべき主人は不本意なことに暴君ただひとりである。暴君がこの件に感知しないというなら、自分もいつもどおり、世俗のことなどほうっておけばいいのだと、そう思う。いままでも世事にかかわる大概のことは大会議がいいように収めていた。
だから、ほうっておけばいいのだと。
けれど――今回は、だめだ。
それではだめだ。
いやな胸騒ぎがしてたまらない。漠然と。得体の知れない、不吉な予感がする。
――否。
この不吉さの輪郭ははっきりしていた。胸騒ぎの正体も。もう、ずっと前からわかっているのだ。自分だけでなく。大会議も、宮殿で笑み交わす連中も、皆。
これから何が起こるのか、だれもがすでに知っている。
けれど、わからない振りをして、見ないようにしてきただけだ。王宮に満ちているのは不安などという可愛らしいものではない。ただの後ろめたさ。そこにあるものから目を逸らし、耳を閉ざし、何もないことにしようとしている。その後ろめたさだ。
ばかげている。
自分もそのばかのひとりというのが最悪だ。
本当はもっと早くに気付けたはずだ。夜な夜な集会場に出向き、慣れない尋問などする必要もなかった。こんなのはただの憂さ晴らし。仕事じゃない。喉を掻き切った男はもう呻いてももがいてもいなかった。吐き気がする。知っていた。わかっていた。
けれど、暴君がそれに興味を示さないなら、そこには何もないのである。あったとしても、取るに足らないものなのだ。
そう、思っていたかった。
「――暴君……」
その時聞こえたのは小さな金属音で、しかしすぐになんだかわかった。シエリカははっとして顔を上げる。劇鉄の上がる音だ。
振り向けば、銃口が見えた。
膝を潰して転がしておいた男がひとり、古ぼけたワイン樽を背に身体を起こし、両手に持った小さなピストルを向けている。いかにも労働者風の身なりをして、どこから手に入れた物なのか。痛みでか、恐怖でか、手は震え、視点も定まらず、とてもまともに発砲できるとは思えなかった。撃ったところで当たるとも思えない。
男は引き金を引くより早く、その息の根をとめてやるのは簡単だ。
けれど――シエリカは動かなかった。
動けなかった。
あの銃口は、自分に向けられているのではない。
あれは――。
暴君に向けられた銃口だ。
血の気が引くのがわかった。目が眩むようだった。指先が冷えて動かない。
急激に現実味をなくしていく視界のなかで、男はうるさいほど歯を鳴らして震えながら、まじないのように繰り返す。
「俺たちは自由だ。俺たちは自由だ。俺たちは自由だ。俺たちは自由だ。俺たちは自由だ。俺たちは自由だ。俺たちは自由だ。俺たちは――」
――自由だ。
「自由を、勝利を、栄光を。神よ、」
男がなにかを祈って、一瞬、ほんのまたたくあいだだけ、射線が定まった。
それがおそらくこの男に与えられた最後の奇跡だった。
その一瞬に、幸福な男は引き金を引く。
銃声が聞こえた。
***
夜半に振りはじめた雨は、夜明けが近付いてもまだしとしとと上がる気配がない。
きっと今日は一日このままだ。
帝都の空が陰鬱なのは、いまにはじまったことではない。
暴君は寝室の暖炉のそばで、がらくたに埋もれたテーブルをまえに、何をするでもなく椅子に腰かけていた。着替えたのか、それとも前日からそのままなのか。すでに昼間の身なりである。
薪の爆ぜる音がした。
半端に開いた大窓から、雨音と、湿った空気が入り込む。
「どこへ行っていた?」
視線もくれず問いかけた暴君に、シエリカは応えない。
大窓から寝室に這入ったところで立ち尽くしたまま、頭の先からしとどに濡れて、佇んでいるだけで絨毯に雨水のしみが広がっていく。すりよってきた獣が気遣わしげに鼻を鳴らしても、シエリカは顔を上げることさえしなかった。
「どこへ行っていた?」
暴君は暖炉の炎がひらめくのを、ぼんやり眺めているようだ。
しばらくは火花が散るかすかな響きと、雨垂れの音だけが聞こえていた。
どのくらいかして、シエリカは言う。
「お前、死ぬぞ」
暴君が鼻を鳴らした。
「ほう」
「殺されるぞ、お前」
「――それで?」
がたりと、鳴ったのは椅子に押された蒐集品だ。耳障りな音を立てて小山が崩れる。暴君は目もくれす、足元に散らばった品々を無造作に踏み散らしてシエリカに歩み寄った。
機嫌の読めない曖昧な表情のまま、シエリカに問う。
「それで?」
シエリカは顔を上げた。貼りついた髪の先から頬を伝い、雨水が滴り落ちる。一度目は呼吸が空回りして、声にならなかった。
だから、大きく息をして、唇と喉に力を込めて、言う。
「お前は、殺されて、死ぬ」
暴君の瞳に映る自分は、なんだかおかしな顔をしていた。明日天が落ちるのだと、荒唐無稽な話をおそろしく真面目に口走っているような、そんな間抜けな顔だった。
暴君は一度、薄い瞼をゆるくまばたかせる。
「――死ぬか。私は」
つぶやいた唇の端が小気味よく持ち上がる。その隙間から漏れた吐息がすこしづつ大きくなる。暴君は目を細くして笑った。
声を立てて笑った。
「ははっ、は、ははははははははははははははっ! ははははははははははははははっ! 貴様、なんという顔をしている。その顔はなんだ? 私が、死ぬと。殺されて死ぬと! ははははははははははははっ! 貴様まで、私を、この私を! いったいなんだと思っている。この私を! ははは、ははっ、はははははっ、ははははははははははははははっ――!」
雨降りの静かな夜明けに、雷鳴のような哄笑が響く。
暴君がこんなに笑うのを、シエリカははじめて聞いた。息を切らせるほどの大声を出すところなど、見たこともなかった。こんなふうに。
怒鳴ることもあるのか。
「――貴様は、私を、いったいなんだと思っているっ!?」
シエリカは応えなかった。暴君が待つはずもない。
シエリカの外套の襟を掴むと、力任せに床へ叩きつけた。横様に倒れた身体を足蹴にされ、シエリカは山積みの蒐集品に背中をしたたかぶつけて息を詰める。獣が、怯えたようにひと声吠えた。咳き込みながら薄く開けた視界に暴君の影が差す。わき腹を踏みつけられた。外套に隠れているはずの銃創を。
踏みつけて、踏みつけて、足蹴にして、引きずり上げたシエリカをふたたび床に叩きつけ、腹と言わず顔と言わず蹴りはじめた頃には、暴君はいつもどおりの不機嫌顔だ。
たいして面白くもなさそうに目を眇め、口の片端にだけ、皮肉気な笑みを浮かべている。
そしてさんざんシエリカを罵ったあげくに言うのだ。
「私をなんだと思っている」
「この私を」
「貴様は、私が」
「私が――」
「――死なないとでも、思っていたのか?」
そうだよ。
喘鳴に喉が嗄れ、声にならないのが救いだった。
身体を起こされ、殴られ、蹴り倒されるのも、衝撃は感じるが痛みはどこか遠くへ行ってしまった。感覚はおぼろげで、けれど思考だけがはっきりしている。なんの業だ。
シエリカは思う。
――そうだよ、暴君。
あんたは俺が殺そうとして、だけど、殺せなかったんだ。
そんなやつは今までひとりもいなかった。
だからあんたに出逢うまで、俺はずいぶん優しい人間だった。どんなやつにも親切で、仕事以外じゃ殺生どころか、喧嘩もめったにしなかった。大概の連中からは好かれたよ。俺はよく冗談を言って、腹を立てたことなんか数えるほどもなかったんだ。どいつもこいつも、人間なんて、その気になれば呆気なく殺せるやつらばかりだったから。
だけどあんたは殺せなかった。
何度も殺そうとしたけれど、結局こうして生きている。
だから――。
だから、あんたは――。
俺の神様のようだった。
けして死なない暴君に、俺は会いたかったんだ。
もしかすると、いま、自分は泣いているのかもしれない。
あるいは泣きたいと思っているのか。暴君がなにか言っているような気もしたが、もう声を聞き取れなかった。思考が端からぼろぼろと崩れていく。
お前も――。
いっそ、泣いてしまえば楽なんだ。
意識が途切れる寸前にそう思った。誰に宛てたのかわからないけれど。最後に雨音がひとつだけ聞こえたような気がする。もう夜は明けただろうか。
――暴君。
じきに、革命が起こる。