Ⅱ. 起きる前の一騒動
シエリカは殺し屋だった。
けれど、もう――むかしの話だ。
***
暴君の寝室をひと言であらわせば、すなわち、むだに豪華な物置である。
帝都のもっとも華やかな場所に建てられた宮殿の奥、かの暴虐な君主のねぐらにはありとあらゆる品々が所狭しと押し込められていた。暴君には極端な蒐集癖があり、興味をそそられれば是が非でも手に入れなければ気がすまないくせに、手にした瞬間冷めるので、どれほど貴重な品であっても扱いはひどい。そのくせ目の届くところに置いておくのだからこのざまだ。
金持ちの悪趣味な寝室など飽きるほど見てきたシエリカをして、いまだ見るたびにどっと疲れさせてくれるのだから相当である。
「――起きろよ、暴君! とっくに正午だぜ!」
今日も今日とて、むだに荘厳なつくりの扉を押し開れば、部屋のすみからがらがらと崩落の音が聞こえた。あきらかに何かが潰れている。しかしそれよりも、シエリカに室内へ入るのをためらわせたのは、扉が開くと溢れだした強烈なにおい。ひどく甘い。
媚薬の香りだ。
きのうはずいぶんお愉しみだったらしい。
見れば、部屋のあちこちに脱ぎっぱなしの衣服が散らかり、がらくた然と積み重なる蒐集品になかば埋もれる寝台のまわりには、昨晩の夜伽の連中がぐずぐずと居残っていた。寝ているのだか起きているのだか、わけもわからない様子だ。むりもない。
シエリカは鼻面にしわよせて嘆息する。
足の踏み場を見極めるのも面倒で、がらくたを適当に踏みつけながら部屋中を歩き回って衣服を拾い集め、夜伽どもをひとりずつ廊下に叩きだし、まずは扉を閉めた。
それから壁際まで行って、ずっしりと垂れ下がるカーテンをわきにまとめ、露台に出るための大窓を全開する。
とたんに、湿っぽい風が室内に吹き込んだ。
窓の外にはいかにも帝都らしい薄曇りの空と、煤と煙を噴き上げる工場群の遠景。
街並みは遠くなるほど色合いを地味にし、近付くにつれ白く変わる。貧富の層が文字通り目に見えて手にとるようにわかった。宮殿の敷地はむだに広々として、眼下の庭園では着飾った紳士淑女があちらこちらにうごめいている。
あいかわらずの景色だ。変わり映えのなさに吐き気がする。
それでも、ひとの息や汗のにおいと媚薬のまじった悪臭をかがされるよりは、煤臭い風にあてられているほうが数倍マシだ。露台のすみにうずくまっていた大きな獣がのそりと起き上がり、腰元にすり寄ってくるのをシエリカはされるがまま迎え、その額を掻き撫でてやる。この獣もまた暴君の蒐集品。南方で、人を喰らって捕らえられたのを商人を通じて暴君が買いとった。しつけたのはシエリカだ。
けだものを愛でる趣味などないが、それでも、ごろごろと重ったるく喉を鳴らしてすり寄られれば悪い気はしない。
「おまえはまだ入るんじゃねえよ」
言い置いて手をはなせば、獣は心得たように悠然と巨躯をひるがえし、元の場所におとなしく寝そべった。シエリカはそれを見もせず室内を振り返る。
気を取り直して、ため息をひとつ。
がらくたを蹴散らし、寝台にずかずかと歩み寄り、いきおいそのまま天蓋を支える柱の一本を殴りつける。そして怒鳴った。
「――起きろっつったろうが! おい! 聞いてンのかっ」
返事はない。
「朝はいらねぇが昼には食うなんて言いやがるから、昼餐用意させてンだぞ!? スープの具がふやけてるだとか癇癪起こしても知らねえからな! 食えよっ!」
部屋中の埃を舞い上げるシエリカの大音声にも、暴君はぴくりと身じろぎしなかった。さんざんにしわよったシーツのうえ、あられもない裸身に掛布を絡ませ、やすらかに眠っている。ように見える。
本当はまどろんですらいないくせに。
大仰なわりに神経質な暴君である。これだけ騒がれて、目醒めないはずがない。
そもそも昨夜、眠ったのかどうかさえあやしいものだ。独り寝ですら深く寝入れない手合いが、あれだけ他人をはべらせてまっとうに眠れるものか。起床係など、まるで必要のないむだな仕事を言いつけてくるあたり、嫌がらせにほかならないのだ。ばかばかしいにもほどがある。
いっそこのまま永遠に眠らせてやろうか――などと、我ながら頭の悪いことにその方法を取り急ぎ十通りほど考えつつ、シエリカは口の端が引き攣るほど愛想のよい笑みを貼り付け、暴君の耳元でささやいた。
「おい……本当にいい加減にしとかねェと、どうなっても知らねえぜ?」
「――ほう?」
目が合った。眠気など微塵もなく澄んで強い視線だ。
暴君の薄い瞼が開いてからの数秒は怒涛のように過ぎ去り、思い出すのももどかしい攻防の末、気付けば寝台に引きずり上げられ、のみならず利き腕を後ろ手に極められた状態で、シエリカはうつ伏せに組み伏せられていた。
暴君は器用なもので、片手でシエリカの利き腕を封じ、片膝で腰の中心を押さえ、もう片手でシエリカの頭を寝台に押しつけながらもまったく力の入っている風情がない。喉で笑いながら、じつに余裕だ。
シエリカは自由な片手と両足で踏ん張って、どうにか起き上がろうともがきながら舌打ちする。
「てっめぇ……やっぱり起きてやがるじゃねえか! ちくしょう、くせェッ、離しやがれ臭いがつく! 服が汚れンだろうがッ」
「朝から吠えるな、やかましい犬め……貴様自身がこの世の汚穢の一部だと言うのに、そもそも薄汚いその身なりに今さら気をつかうなど、滑稽を通り越えて憐憫すら感じる。無知とはじつに残酷だ」
「朝も昼もわからねェ素っ裸のイカれに言われる筋合いはねえよ……!」
「吠えるな、と、言ったぞ。簡単な言いつけも守れないのか?」
持ち上がりかけていたシエリカの頭を、暴君はなかば叩きつけるようにしてふたたびシーツに押しつける。後ろ手に捩じられた利き腕にいよいよ遊びが無くなり、シエリカは低くうめいた。下手に動けば肘から肩から軒並み壊れる。腹立たしいほど完璧な極め方だ。これを外せないのはけして自分の体術がお粗末なせいではないと、誰にでもなく心のうちに言い聞かせる。
どうにか頭の向きをずらし、目玉を精一杯動かして、指の隙間から憎悪をこめて見上げれば、暴君は満足そうに口角を吊り上げた。ぞっとする。
「貴様はそうして、口を閉ざし、私のまえに這いつくばっていればいいのだ。身の程にふさわしく。いっそ名前も変えてしまえ。あまりにも不相応で、名乗るのが恥ずかしいだろう――死神などと」
「俺が名乗ってンじゃねえ……てめぇが、勝手に、呼んでるだけだろうがっ……!」
「当然だ。飼い犬に名前を付けるのは、主人の義務だからな」
露台に控える南方の獣には、名前どころか声すらかけたこともないくせに。よくも。
シエリカが言いかえすより早く、暴君が身をかがめ、その顔が近付いた。唾でも吐きかけてやろうか。子供じみた思考がシエリカの脳裏をかすめ、しかしこの体勢からうまくいくとも思えず、考えてしまった分だけ苛立ちが募るばかりだ。
甘い匂いが鼻につく。汗まじりの媚薬の香り。
「それで……いい加減にしなければ、どうしてくれるのだ? 私を」
耳朶に絡まる蜜のような声で、暴君がささやく。
シエリカは張り裂けそうに笑った。
「殺してやる」
これまで何度も何度も考えたように。そのすべての方法、あやらゆる手段で。
けれどそのどれかひとつも成功すると思えたためしがない。
「――無様だな。死神」
暴君はそう言って目を細くする。未練もなく顔を遠ざけ、身動きのつかないシエリカを見下ろして、機嫌のよい猫のように。
嘲いながら。
「あわれなほど低能な貴様に、もう一度はじめから教えてやろう。まずは主人に対する口の利き方を。貴様のそのおが屑ばかりが詰まる頭で、覚えられるとも思えないがな。たまには時間を浪費してみるのも一興だ。それがどれほど不毛で、くだらなく、滑稽で、ばかばかしい行いだとしても、退屈するよりはいい。そうだろう、シエリカ?」
幼児に言いきかせるようなひどく優しい声音で。
暴君が言う。
「死にたくなければ、愉しませろ。私を。――出来なければ殺すぞ?」
シエリカはきつく目を閉じた。
ああ――。
最悪だ。
***
――かの帝国の君主は、死なないことで有名だった。
どんな暗殺者も返り討ちにしてきた、その戦歴はじつに華々しいもので、輝かしい記録に挑む何人目かの挑戦者としてシエリカが選ばれたのはしごく当然の成り行きだったと言える。その頃、シエリカもまた有名に過ぎるほど名を馳せていたからだ。
もっとも、当時はまだ「シエリカ」などと呼ばれていなかった。
物心つくかつかないかで親に売られ、十把一絡げにギルドに買われ、適当なところでどうでもよくくだばるはずだったのが、うっかり長生きしたがために気付けばもとの名前が埋もれて見つけられないほどの異名持ちになっていたのである。ギルドの連中からはもっぱら、各々の故郷の言葉で「死神」と呼ばれていた。安っぽい二つ名だったが、ありきたりなものには特段の文句も付けがたい。
仕事を依頼してきたのは商いで身を立てる小国の、それなりに身分ある誰かだった。もう顔も思い出せない。帝国と戦えば負ける、戦う前に勝負をつけたい、じつに判りやすい依頼で、それもまた、断る理由がとくになかった。
あまりにも名が売れすぎたからと、頭目の座をひとつ用意して、ていよく厄介払いしようとするギルドの長老どもが、うっとうしかったせいもある。それにおもねって自分を担ごうとする連中をあしらうのもわずらわしかった。頭目などという柄でないのは自分が誰よりわかっている。しかし、いずれ流れに圧し負けるのも目に見えていたから、いい口実があればすこしでも遠ざかっていたかった。そんな思いもたしかにあった。
けれど、なによりも気にかかったことが、ひとつ。
本当に、それは――。
けして『死なない』相手なのか?
***
「――いつまでそうしているつもりだ? 主人の身支度も手伝えないのか、使えない下僕め。虫けらにも劣るその体に、ほんの塵ほどでも魂があり、それを尊ぶ心があるなら、貴様はいますぐ恥を知り呼吸を止めろ」
「うるせぇ、黙れ……頼むから死んでくれ……」
好奇心になど流されるものではない。シエリカはいまにして思う。
もしも時間を遡れるならいまよりもいくらか若かったあの頃の自分に説教くれてやるというのに、悲しいかな、時すでに遅し。がらくたに埋もれる暴君の寝台の上、腹這いで巨躯を伸べた獣の首筋に顔をうずめ、シエリカはぐったりしながら低くうめいた。
暴君はすでに寝台を出て、身支度も完璧に整えている。
「死んでくれ、とは殊勝な言い草だな。しかし怠慢だ。私が貴様にくれてやったその名を思い出せ。怠惰の罪は黄金より重い」
「てめえが名前変えろっつったろうが、さっき……」
「貴様ごとき、他に名乗れる名があるとでも? ゴミ虫とでも呼ぶべきか?」
「勝手にしろ」
喉を鳴らす暴君の笑い声を聞きながら、シエリカはやけっぱちに吐き捨てた。口論をする気力もない。縋りついた獣のあたたかさに身をゆだね、このまま眠ってしまいたいと、泥のように疲れた体が訴えている。
結局――。
あの日、あの時、あの場所で、シエリカは暴君を殺せなかった。
暴君は死ななかった。
そしてシエリカは捕らえられ、徹底的に貶められ、あらゆるしがらみを粉々にされて今に至る。暴君は気まぐれに生かした暗殺者を飼い馴らす片手間で、貿易路の要衝にあった小国を滅ぼし、帝国領内からギルドの手を駆逐し、シエリカが存在も忘れていた親兄弟から親族まで、血のつながりと息のある者をことごとく探し出して始末していた。
その頃のことははっきり憶えていない。おそらく思い出さないほうが幸せなのはわかりきったことで、だから思い出そうとも思わないが、これだけは鮮明に記憶している。
私が、貴様を飼ってやろう――暴君はそう言った。
だから名前をくれてやる、と。
(いまこの時より、貴様はこのように名乗るがいい。光栄に思え。それは、私の――死神の名だ)
「――シエリカ」
暴君の呼ぶ声に、シエリカはしぶしぶ顔を上げた。
開けたままになっている大窓から、どこかの部屋で奏でられている楽曲だとか、庭園を散策する紳士淑女の笑い声だとか、鳥のさえずりだとか、そういうありきたりに穏やかな音色が、湿った風に乗って聞こえる。寝室はおもちゃ箱を五つ六つひっくりかえしたような乱雑さだ。媚薬のにおいはもうしない。あんなもの、お互いなんの意味もなく、気は滅入りっぱなしでひたすらだるい。
ただひとり、暴君だけが目を細めて微笑んでいる。薄気味悪いほど機嫌よく。
「午餐の時間なのだろう、案内しろ。まずければどうなるか、わかっているだろうな?」
「俺のせいじゃねェだろうが、それ……」
シエリカは嘆息し、暴君は喉を鳴らして歩き出す。足元の蒐集品を無残にも踏みつぶしながら。シエリカの支度を待つ気はないらしい。期待もしていない。
シエリカは殺し屋だった。
けれど、もう――むかしの話だ。