やっと見つけた
「何度同じミスをすれば気がすむんだ、眉村!?」
怒鳴り声がフロアに響き渡る。俺は身を竦め、額に幾筋もの血管を浮き上がらせているスダレ禿の課長を見た。入社当初は優しい先輩だったが、今は鬼に見える。
「新人の頃が嘘のようだな。それとも、お前は眉村によく似た別人なのか?」
課長は次に陰険な顔つきになり、俺を見る。
「あ、いえ、別人ではありません」
俺は恐る恐る答えた。
「だったら、今のお前は仕事を舐めているとしか思えんぞ、眉村! 性根を入れ替えろ!」
「はい!」
俺は課長の大きな声に直立不動になった。
入社して十年。何事にも一生懸命だった俺は与えられた仕事を全力でこなし、できる事は全てするという姿勢で臨んでいた。その甲斐もあってか、五年前に係長補佐を拝命された。しかし、幾人かの部下と共に始めたプロジェクトは先方の手酷い裏切り行為でご破算となり、その責めを負って俺は係長補佐を辞し、平社員に戻ってしまった。
その頃からだった。優しかった女房の目が冷たくなったのは。無理をしてローンを組んで購入した一戸建ても、今は只重い足枷でしかない。できれば売り払いたいくらいだが、女房が承知しないだろう。ボーナス加算月が迫ると、本当に逃げ出したくなる。いっその事、自殺でもするか。そうすれば、保険金でローンは精算され、女房も一安心だろう。どうせ俺なんかいてもいなくても良いのだろうし。
しかし、死ぬのが怖い俺には自殺なんてとてもできない。それに自殺すると成仏できないとか、自殺現場から離れられなくなるとか、妙な知識だけは持ち合わせていたので、尚更だ。
課長に叱責された数日後、すっかり閑職に追いやられた俺は「自主退職要員」になっていた。クビにすると面倒なので「辞職」させたいのが会社の本音だ。だが、今の俺にはその自主退職すら怖い。
「会社を辞めた」
なんて女房に言ったら、何と言われるか。想像するだけで恐ろしい。
「眉村さん、もう定時ですよ。帰りましょう」
俺より先に「自主退職要員」にされた一年先輩の植村さんが言った。気づくと、壁の掛け時計は五時を過ぎている。
「はい」
俺は植村さんに苦笑いで応じ、机の上を片づけた。俺達が毎日している仕事は、古くなった書類の整理。OA化が進んでいるので、そんな仕事は必要ないのだが、俺達のような「要員」のためにあるらしい。植村さんの先輩の一人は、先月辞表を提出したそうだ。
「何で辞めちゃうんですかねえ。私なんか、天国ですよ、この部署」
植村さんは本当に嬉しそうにそう言った。俺には理解し難い人だ。
「周囲の目さえ気にならなければ、こんな楽な仕事はありませんよ。誰にも急かされないし、誰にも咎められないし」
「そうですね」
俺は鞄を手にしながら、植村さんに相槌を打つ。今、この部署は二人だけなので、植村さんとの会話は無碍にはできない。
「眉村さんは、元の部署に戻りたいのですか?」
植村さんが部屋のドアを開きながら尋ねて来た。
「はあ。できれば戻りたいです。確かにあそこはきつい課でしたが」
「そうですか。じゃあ、ここはつらいですね」
植村さんはニコッとして言う。いや、笑顔で言われる事ではないと思うが。
会社を出て駅に向かう。こんな毎日だ。俺は何をしているのだろう? 急に悲しくなった。
(明日辞表を提出しよう)
突然、そう思い立った。俺は植村さんのようにはなりたくない。閑職に甘んじて、おめおめと仕事を続けるのは嫌だ。
ところが、電車を降り、家に近づくにしたがって、そんな勇ましい気持ちは急速に萎んでしまう。女房の激怒する顔が浮かび、背筋がゾッとする。やっぱり、会社を辞めるのはよそう。植村さんのように割り切るしかない。我ながら情けないがそれも生活のためだ。こんなご時勢、次の職がそれほど簡単に見つかるとも思えない。
それにしても、俺は何のために頑張っているのだろう? 少なくとも女房のためではない。ましてや会社のためなんかではない。もちろん、自分のためでもない。
ふと目を上げると我が家の前だ。俺は門扉を押し開き、玄関へと進む。
「只今」
蚊の鳴くような声で告げる。女房からは応答はない。
「パパ、お帰り!」
その時、天使の声が聞こえた。一人娘の美菜。俺の命に代えても守りたい五年前に授かった愛しい存在。
「どーん!」
美菜が俺に抱きついて来て、
「お帰りのチュウ」
と頬にキスをする。それが俺にとって至上の喜びだ。
「只今、美菜」
美菜を抱き上げ、俺は気づいた。俺が頑張るのは全てはこの子のためだ。何があろうと美菜は守る。そして、美菜には幸せになってもらいたい。
「今日はパパの好きなシチューだよ」
「そうか、それは楽しみだな」
この子とのこんな他愛もない会話に俺はやっと見つける事ができた。俺の幸福を。