名もなき村人Aは故郷を守りたい ~理不尽な化け物の群れから家族を守るため、ただの村人が知恵と罠で立ち向かう~
俺は、森に囲まれたこの辺境の集落に住む、ごく普通の村人だ。
特別な魔法が使えるわけでも、剣の才能があるわけでもない。強大な運命を背負っているわけでもない。どこにでもいる、名もなき「村人A」でしかない。
毎日畑を耕し、山の恵みを拾い、冬を越すための薪を割る。そんなありふれた、泥臭くてちっぽけな命だ。
だが、俺には、俺の命よりも大切なものがあった。
妹が生まれたのは、春先のまだ冷たい風が吹き抜ける朝だった。
夜明け前の薄暗がりの中、母のいる丸太小屋では慌ただしい気配が続き、俺は落ち着かないまま戸口の前を行ったり来たりしていた。
炉にくべた薪がパチパチと焼ける匂い。煮立った薬湯のむせ返るような湯気。産婆の婆さんの低い声。湿った土のにおいを含んだ風が頬を撫でるたび、胸の奥がざわついて仕方がない。
――その時だ。
『オギャア、オギャア!』
世界に強烈な光が差し込むような、小さな泣き声が響いた。
瞬間、ずっと喉の奥に引っかかっていた鉛のようなものが、するりと溶けて落ちた気がした。ギィ、と古びた木の戸が開き、産婆の婆さんがしわだらけの顔をほころばせる。
「元気な子だよ。入りな!」
親指をぐっと立てる婆さんに促され、俺は転がり込むように小屋へ入る。
そこには、汗で額を濡らしながらも安堵した顔で笑う母がいた。腕の中には、まだこの世界の光に慣れていない、小さな命が包まれている。目をギュッと閉じて、か細い声で鳴くたび、胸の奥がどうしようもなく熱くなった。
「見てごらん」
母がふわりと微笑んだ。
「おまえに似てるよ」
「マジかよ。どこが?」
「この、妙にしぶとそうなところがね」
「生まれたばっかの赤ん坊捕まえて、なんだそりゃ」
「ふふっ、こういうのは直感でわかるもんさ」
母はそう言って、赤ん坊の頬をそっと撫でた。窓から差し込む朝日の柔らかな光が、二人の姿を暖かく照らし出している。
名前は、まだ決まっていなかった。
父さんが生きていれば、きっと村中を巻き込んで大げさなくらい立派な名を考えただろう。だが、父さんはもういない。三年前、森の外れで『例の化け物たち』の群れに遭遇してしまったのだ。
だから、この子の名は母と俺で決めるしかなかった。
「とにかく、元気に育つ名前がいいよな」
俺が言うと、母は少しだけ視線を落とし、静かに答えた。
「……生き延びる名がいいよ」
その台詞は、やけにシリアスな響きを持って俺の胸に突き刺さった。
俺たちの村は、豊かな森にすっぽりと囲まれた小さな集落だ。
澄んだ泉のそばに素朴な家が並び、青々と茂る畑があり、家畜の囲いがある。朝になれば活気に満ちた声が響き、日が沈めば広場の焚き火を囲んで酒と昔話に花を咲かせる。
毎日腹いっぱい食えるような楽な暮らしじゃない。冬の寒さは骨身にしみるし、無慈悲な雨で作物が全滅することもある。
それでも、ここには俺たちの『確かな日常』があった。
誰かが怪我をすれば薬草の知識を持つ者が駆けつけ、子が生まれれば村中でお祭り騒ぎになる。屋根が壊れれば、どこからともなく親父たちが集まって直してしまう。
間違いなく、ここは――ただの村人である俺たちが、命を懸けて守る価値のある場所だった。
だから、あの報せが駆け込んできたとき、広場にいた全員の空気が一瞬で凍りついたのだ。
「来たぞぉぉぉっ!!」
見張り役が息を切らし、ほとんど転がるような勢いで飛び込んできた。喉を引きつらせ、ひっくり返った声で叫ぶ。
「森の境だ! 『例の化け物』の足跡を発見した! しかも、四体だ!!」
ざわっ、と村人たちの間にこれまでにない緊迫感が走る。
一体だけでも厄介なのに、四体の群れ。誰も大声では言わないが、最悪の噂は全員の脳裏に焼き付いていた。
――全身を銀色に輝く異常な『外骨格』で覆い、巨大な牙を振り回す個体。
――赤いヒレのような薄膜をまとい、手にした枯れ枝から『炎』を吹き出す個体。
――真っ白な繭のような布に包まれ、不気味な光で仲間の傷を瞬時に再生させる個体。
――そして、闇色の体毛に覆われたように黒く、前足から二本の鋭い爪を伸ばして命を刈り取る個体。
やつらは気まぐれに森へ現れ、俺たちの住処を見つけると容赦なく蹂躙する。逃げる者の背中を切り裂き、泣く子どもも、立てない老人も見逃さない。命をいたぶることに何の躊躇いもなく、むしろそれを娯楽として楽しんでいる。
父さんを奪ったのも、その理不尽な化け物の群れだ。
「落ち着けぇい!!」
広場の中央。ドンッ! と村長が杖を地面に叩きつけた。老いて背は曲がっていたが、その一撃でパニックになりかけた空気はピタリと静まる。
「相手は四体。これまでで最大規模の襲撃だ。だが、怯えるな!」
「冗談じゃねえ! 俺たちみたいなタダの村人が、四体も相手になんてできるわけがねえ!」
若者が震える声で叫ぶ。
「そうだ。俺たちにはあいつらみたいな異常な魔法も、硬い殻もない。正面からぶつかれば一瞬で全滅だ」
村長はあっさりと首を縦に振り、しかし鋭い眼光で村人たちを見回した。
「だが、相手は力に驕り、群れているからこそ油断する。我らには地の利がある。連携がある。罠を張る知恵がある! そして何より――絶対に守り抜くべきものがある!!」
その言葉に、俺は反射的に母の小屋を振り返った。
生まれたばかりの妹。俺の家族。
守るものがある。その一言だけで、腹の底からゴウッ! と熱い炎が燃え上がるような気がした。ただの村人Aだろうと、引けない時はある。
「総員、戦うぞ!!」
村長の号令で、村は巣をつつかれた蟻のように一斉に動き出した。
戦闘力のない老人や子ども、産後の母親たちは、裏手の岩場にある隠しシェルターへ一直線だ。細い割れ目の奥にある空洞で、身を潜めるにはちょうどいい。食料、水、毛布が次々と運び込まれる。
一方、防衛組は罠の構築に全力を注いでいた。相手が四体の化け物となれば、一つや二つの罠では到底足りない。
ザシュッ! ザシュッ!
俺も丸太を運び、ひたすらに木を削って鋭利な杭を量産する。
村の入り口には超特大の落とし穴。底には即死級の木杭を敷き詰める。上空には蔓で吊るした振り子仕様の巨大丸太を三箇所に設置。弓を使える者は矢尻に痺れ草から採った強力な毒液をたっぷりと塗りたくる。
さらに、炎を吹き出す個体に対抗するため、広場には水と泥を入れた桶を大量に配置し、素早い個体の足を絡めとる細いワイヤーのような蔓を獣道に幾重にも張り巡らせた。
夕暮れのオレンジ色の光の中、俺は泥だらけの手で縄を引き、手の皮を何度も剥いた。隣では幼なじみのギドが汗だくになって杭を運んでいる。
「なあ……四体なんて、本当にやり切れると思うか?」
「やるしかないだろ。足跡があるんだから」
「でもよ、もし罠を見破られたら……」
「見破られる前に、四つまとめて地獄に落とす」
俺は削りたての杭を夕日にかざして鋭さを確認した。キラーン、と切っ先が鈍く光る。
「来たら……全員、この杭のサビになってもらうだけだ」
ギドはひきつったように笑ったが、その笑いには力がなかった。
深夜、少しだけ休憩の時間があった。
たき火のオレンジ色の光が、村人たちの強張った顔を照らす。パチッ、と薪が割れる音だけが、やけに大きく聞こえた。
「おまえも避難すればよかったのに」
荷物を背負い、妹を抱いた母が俺を見上げて言ったのは、その前のことだ。
「俺は残る。罠の起動と、トドメを刺す役目がいる」
「相手はただの獣じゃない。規格外の化け物の群れだよ」
「わかってる」
「なら、なおさらだ」
母は厳しい顔をしたが、最後には小さなため息をひとつついて、妹の顔を見下ろした。
「この子の名前、まだ決めてないのにね」
「生きて帰ったら決めよう」
「そうじゃない。生きて帰るから決めるんだよ」
母の温かい手が、俺の額に触れる。火のそばにいたせいで、その手は少しだけ熱を持っていた。
夜明け。深い霧が村を覆い尽くした。
静寂。鳥のさえずりすら無い。風も止み、霧の向こうに何がいるのか見えないことが、余計に恐怖を煽る。皆が持ち場につき、息を潜める。心臓の音だけがうるさく鼓膜を打った。
ズシン……。
ズシン……。
微かな振動が足元から伝わってくる。一つの足音ではない。複数の、リズムの違う異様な足音が入り混じっている。
「――ッ! 来たぞ!! 『化け物』たちだぁぁっ!!」
見張り台の絶叫と共に、霧を引き裂いて『それら』は姿を現した。
先頭を歩くのは、全身をメタリックシルバーに輝く異常な『外骨格』で隙間なく覆い尽くした巨体。関節すら硬い甲殻で守られており、前足は光を反射し、恐ろしく巨大で鋭利な『牙』が握られている。
その後ろには、赤いヒレのような薄膜をひらひらとさせ、先端に赤い石が埋め込まれた不気味な枯れ枝を持つ個体。
さらに、純白の繭のような布で全身をすっぽりと包み、胸元に何かの呪われた紋章をぶら下げている個体。
最後尾には、闇色の体毛に覆われたように黒く、両の前足に短く反り返った鋭い爪を弄ぶ小柄な個体が続いている。
歩くたび、硬い殻がぶつかる金属音と、不気味な衣擦れの音が重なって鳴り響いた。あれが敵だ。俺たちの命を理不尽に奪う、暴力の権化。
無人の村の入り口に立った四体の化け物たちは、周囲を見渡し、耳障りで意味不明なノイズのような鳴き声を交わし合った。そして、先頭の外骨格の怪物が、その口元をわずかに歪めた。
――笑ったのだ。
弱者の巣に土足で踏み込むことを、純粋な娯楽として楽しむ下劣な笑み。
ヤツらは、罠など露知らず、ゆっくりと足を踏み出した。
あと三歩。
あと二歩。
あと一歩。
「今だぁぁっ!!」
俺の叫びと共に、手元のロープを斧で切断する。
バコンッ!!
地面が広範囲にわたって崩落した。先頭を歩いていた外骨格の巨体と、最後尾にいた黒い爪の個体が、足元を一気にすくわれ、前のめりに落ちていく。
直後、穴の底から耳をつんざくような絶叫と、重い殻が底の杭に叩きつけられる轟音が響いた。
「よし! かかった!」
だが、罠から逃れた残りの二体が即座に動いた。
赤い薄膜の個体が枯れ枝を掲げると、その先端に不自然に巨大な『炎の球』が生まれ、膨張していく。そのまま屋根の上の弓部隊へ放とうとした、まさにその瞬間だった。
「撃てぇぇっ!!」
村長の号令で、四方八方から毒矢の雨が降り注ぐ。
炎の球を掲げて無防備になっていた赤い薄膜の個体は、回避する間もなく全身に矢を浴びた。分厚い殻を持たないその柔らかな体には深々と毒矢が突き刺さり、炎の球は不発のまま空中で弾け飛んだ。不気味な叫び声を上げながら、赤い個体が地面に転がる。
すかさず、白い繭の個体が淡い光を放ちながら倒れた仲間に駆け寄ろうとした。傷を癒やす異常な再生能力が発動しかける。
「丸太だ! 落とせ!」
二本目の縄が切られた。
ブォンッ! と風を裂いて吊るされた大木が恐ろしいスピードでスイングし、白い個体の側面に激突した。メキィッ! という骨の砕ける嫌な音と共に、その体は紙くずのように吹き飛ばされ、広場の端に叩きつけられて動かなくなった。
二体を無力化した。あとは穴の中の二体だけだ。
しかし、穴の底からは黒い個体の断末魔に混じって、獣のような怒号が響いていた。
ガシッ!!
血まみれの腕が、穴の縁を掴んだのだ。
這い上がってきたのは、全身の殻の隙間に木杭を突き立てられた外骨格の化け物だった。なんと仲間の黒い個体を踏み台にして、強引に登ってきたのだ。兜のような頭部の裂け目から見える目は、狂気のように爛々と燃え盛っている。
ヤツが這い上がってきたら終わりだ。
「下がれ!!」
誰かが叫んだ。だが、体は動かなかった。気づけば、俺は足元に落ちていた槍を握りしめていた。喉が渇き、視界が極限まで狭くなる中、腕だけが勝手に動く。
「おおおおおっ!!」
怪物が縁に顔を出した瞬間、俺は全体重を乗せて槍を突き出した。
ドンッ! と硬い手応え。狙いが外れ、穂先は首ではなく肩口の硬い殻の隙間に食い込んだ。
「ギャアアアッ!」
外骨格の化け物が絶叫する。次の瞬間、デタラメに振るわれた腕の裏拳が俺の顔面に炸裂し、俺は地面に叩きつけられた。口の中に血の味が広がり、ひどい耳鳴りが響く。視界の端で、銀色の巨影が完全に穴から這い出してくるのが見えた。
終わりだ。
そう覚悟した瞬間――ようやく、肩口から入り込んだ矢の毒が効き始めた。
ガクンッ、と銀色の巨体が揺らぎ、振り下ろされようとした巨大な牙の軌道が大きく逸れる。
「囲めぇぇぇっ!!」
村長の咆哮。四方八方から、村の男たちの槍が怒涛の勢いで突き出された。
脇腹、脚、首元。次々と槍が深々と突き刺さり、銀の殻の隙間から嫌な色の赤い液体が何筋も流れ出す。それでも化け物は膝をついただけで、なおも俺たちを殺そうと這いずってくる。
そこへ、村長が一歩前に出た。老いた体で、杖の代わりに槍を握りしめる。
「ここは、貴様らの狩り場ではない」
化け物が何か、耳障りなノイズのような声を吐き捨てる。
村長は構わず、さらに一歩踏み込んだ。
「ここは――俺たちの村だ!!」
放たれた一撃が、怪物の喉元の隙間に深く、深く突き刺さった。
ビクンッ、と巨体が跳ね上がり、銀の殻がかすかに鳴った。それきり、ヤツはピタリと動かなくなった。
完全な静寂が降りた。
誰もすぐには声を出せない。ただ、生き残った者たちの荒い息遣いだけがあちこちから聞こえてくる。
最初に膝から崩れ落ちたのはギドだった。
「や、やった……のか……?」
ひっくり返った声に、俺は痛む頬を押さえながら答える。
「ああ……全部、片付いた……」
その返事を合図にしたかのように、村中から爆発的な安堵の声が上がった。泣き出す者、笑い出す者、座り込む者、傷ついた仲間の手当てに走る者。
俺はふらつく足で立ち上がり、恐る恐る外骨格の死骸へと近づいた。
これほどの罠と集中砲火を浴びて、仲間を失っても、あと一歩でこちらを全滅させる寸前まで這い出てきたのだ。まさに理不尽な化け物だ。
すると、ピクッ、とその口元がわずかに動いた。
まだ息があったのだ。
化け物は潰れた兜の奥の顔をこちらへ向け、血の泡を吐きながら、呪詛のような音を絞り出した。
「クソ……ッ、たかが、薄汚い……ゴブリン、の、分際で……」
ノイズにしか聞こえなかったはずのその音の中で、なぜか言葉が理解できるように、ひどくくっきり聞こえた気がした。
化け物はなおも、切れ切れに続けた。
「俺たちは……選ばれし……勇者パーティ、だぞ……」
そこでようやく、本当に息が止まった。
意味はわからないはずなのに、その言葉だけが妙に脳裏にこびりつく。
俺はしばらく、動かなくなったそいつを見下ろしていた。
それから、視界を塞ぐ汗を拭うために、自分の額に手をやった。ぬるい血と汗が指につく。
ふと視線を落とす。そこにあるのは、見慣れた、短くて、緑色をした、鋭い爪を持つ手。緊張で汗まみれだ。
「よくやったぞ」
背後から、村長のしわがれた声が響いた。
「一族の、誇り高き戦士たちよ!」
俺は振り返り、まだ震えの残る足で、大地をしっかりと踏みしめて立った。
恐ろしい侵略者の群れから、ただの村人Aである俺は、この愛する故郷を守り抜いたのだ。
木々の隙間から差し込む朝日が、俺たちの緑色の肌をあたたかく照らしていた。




