9 日常への帰還
ゼノス帝国での騒乱から一ヶ月。
アルテミス王国の王都は、何事もなかったかのように穏やかな春を迎えていた。
王太子クロヴィスは、先の騒動でいまだ混乱しているゼノス帝国との定期的な交流を続けているようだ。
侯爵家では、バラの咲き誇るガゼボでエレオノーラがセレスティーナから届いた手紙を読み、満足げに微笑んでいる。
アフターヌーンティがセッティングされたテーブルの向かい側には、愛すべき彼女の妖精、リリアーヌが幸せそうに、特別に用意された厳選スイーツを楽しんでいた。
隣国で何が起き、誰がそれを掃除したのか。それを知る者は、この国でもごく僅かだ。
「……はぁ。やっと、ソフィアさんの『マナー強化月間』が終わったぜ……」
『星屑の天球儀』の地下、いつもの薄暗い待機室。
リンは、ボロボロになった『マナー入門』と書かれた本を片手に、深いため息をついた。
隣ではガイが、ナディアが置いていった『正しい紅茶のマナー』と銘打たれた本を片手にティーセットと格闘している。
「本当だよ。報酬ゼロの上に、あの特訓……。俺、一生分の『お行儀』を使い果たした気がするもん」
「全くだ。……ぜんっぜん、割に合わねぇ」
リンは、まだ少し痛む耳をさすりながら、天井の低い灯りを見つめた、その時。
地下のさらに深層、カイルの作業場へと続く重い扉が、凄まじい勢いで跳ね上がった。
「リン君! ガイ君! ついに、ついに完成したよ!!」
現れたのは、無給での労働を強いられているはずの男、カイル・モートンだ。
相変わらずエレオノーラに強制された「美形」のままだが、その瞳にはマッドサイエンティスト特有の、嫌な輝きが宿っている。
「……嫌な予感しかしない。ガイ、逃げる準備」
「了解。いつでもいける」
「見てくれたまえ! 前回の反省を活かし、耐久性を極限まで高めた新型集音魔導具、『絶対に離さない蟹の抱擁』だ!」
カイルが掲げたのは、前回よりも一回り大きく、もはや凶器にしか見えない集音機だった。
「今度のはすごいよ!蟹の脚が八本、直接頭蓋骨をホールドして音を伝えるんだ! これなら爆風の中でも外れないし、一度装着すれば、専用の解除キーを使わない限り、二十四時間は絶対に外れない!!」
「それ、ただの拷問器具だろ!!」
「誰がつけるか、そんなもん!!」
二人が一斉に立ち上がったが、カイルに、逃す気はない。
「さあ、実験だ! 千の実験で一つの成功! その一つが今、君たちの頭上で輝くんだよ! 逃げないでくれ、これの試運転を成功させないと、私の給料が一生マイナスなんだ!!」
「知るかよ! 自分の失敗は自分で背負え!!」
逃げるリンとガイだが、イカれた研究者、美形中年カイルは逃さない。
「……あああ!蟹が 挟まった! ガイ、助けろ!」
「無理! 俺の頭にも蟹が!!」
その断末魔が地下通路に響き渡るのを、上の階の応接室で聞きながら、ソフィアとナディアは静かにお茶を啜っていた。
「あら、随分と賑やかね」
「ええ。こんなところまで聞こえるほど騒々しく出来るなんて『お行儀』が悪いわね。まったく何を学んできたのかしら?」
「ふふ、ナディアったら。まぁ、マナー講習は気長に、身に付くまで付き合って差し上げましょう」
お姉様方の優雅で恐ろしい微笑みが、今日も『星屑の天球儀』に満ちている。
アルテミスの平和は、こうして今日も、不憫な魔導士たちの犠牲と、美しき暴君たちの微笑み、そして一人の迷える発明家の暴走によって守られていくのであった。




