6 乙女と牡牛の『お掃除』
ゼノス帝国学園の講堂は、異様な高揚感に包まれていた。
今夜は聖女サクラによる「国安寧の祈り」の儀式。
だが、最前列に陣取る男たちの目的は、祈りなどではなかった。
彼らは懐に「婚約破棄の宣言書」を忍ばせ、今か今かとサクラが自分を見てくれる瞬間を待っており、その目はどこか常軌を逸していた。
「……情けない。貴族ともあろう者が、あんなにのぼせ上って…」
「ナディア。あれはただの『お熱』よ。あまり攻めては可哀そうよ…」
留学生として帝国の文化を学ぶという名目で、全体がよく見える場所に配置された椅子に座るクロヴィスの後ろに控えるソフィアとナディアは、おっとりとその異様な光景を見守っていた。
その時。一人の男子生徒が、我慢しきれないといった様子で叫びながら立ち上がった。
「サクラ様! 私は今、ここで、愛なき婚約を――」
「あらあら。あんなに大きな声を出して。喉を痛めてしまいますわよ?」
ソフィアの鈴を転がすような声が響くと同時に、彼女の指先から魔法が放たれる。
それは静かにゆっくり、しかし確実に講堂全体に広がっていく。精神安定・状態異常を解消する『鎮静の香』の霧であった。
彼女は戦わない。会場全体に魔法を展開した後は、異様な熱気を持つ学生たちの前に、ただ、銀のトレイに載せた「お茶」を差し出す。
「皆様、落ち着いて。……こちら、精神を健やかに保つ特製のハーブティーですわ。まずはこれを飲んで、その手に持った『稚拙な台本』を読み返してみてはいかが?」
ソフィアの鈴を転がすような声と共に、強力な『鎮静の香』が講堂を満たす。
聖女の「魅了」というフィルターが剥がれ、正気に戻った男たちは、自らが書き上げた愛の宣言書という名の「恥辱の記録」を直視し、次々とその場に膝をついた。
「……僕、は……なんてバカなことを……」
「台本……これ、僕が書いたのか? 死にたい、今すぐ死にたい……」
あちこちで「賢者タイム」ならぬ「正気タイム」が訪れ、絶望のあまり頭を抱える学生が続出する。
その横を、ナディアがスカートを揺らして通り過ぎる。
彼女は、混乱に乗じて男たちの足首を、指先一つで床に「固定」し、動きを封じていく。
「お行儀よく、そこに座っていなさい。さて……リン、ガイ。皆様が羞恥に打ち震えている今のうちに、あの方の『お手入れ』を済ませてしまいなさい」
お姉様方の合図と共に、リンとガイが弾かれたように聖女の元へ駆け出した。
「了解!」
壇上の中心。
混乱に目を見開くサクラの前に、リンが立ちはだかった。
壊れた眼鏡はもうない。だが、リンの瞳にはすでに、サクラが展開している「バグった魔方陣」の全容が映し出されていた。
「……よう、聖女様。お姫様ごっこは楽しかったかい?」
リンが指先を宙に走らせる。描かれるのは、歪められた癒やしの魔法を、ガイの魔法に取り込み、その歪な澱を剝がしとるための精密な製図。
「ガイ、一気に発動して全部取り込め!あの「はしたない」ピンクを引っぺがすぞ!」
「了解! ……お姉さんたちが後ろにいると思うと、魔力操作の精度がいつもの三倍は上がるよ!」
ガイの両手から放たれた黄金の魔力が、リンの描いた魔方陣を透過し、サクラの魔法を包み込んだ。
「――っ! 何をするの、やめて!」
「やめねーよ。あんたも、こんなとこに居たくねぇんだろ? ……帰してやるよ、聖女様」
青白い光の柱が、聖女と二人の魔導士を包み込んだ。
一瞬の静寂の後、ふ、と聖女の力が抜け膝から崩れ落ちる。とっさに伸ばしたリンの腕が、彼女を支えた。
「…あ、あたし…」
聖女サクラの身の内の聖女の力はおそらく元の正常な状態に戻っている。例の眼鏡は使い物にならなくなっているが、自分の書き出した魔方陣には自信を持っている。失敗はしない。
腕の中で震える少女は、「聖女」ではなく、どこにでもいる一般的な「少女」であった。
「リン、どきなさい。淑女に不用意に触れるのは感心しませんよ」
ソフィアとナディアがリンの腕から、聖女サクラを預かりそっと背中をなでる。すると、ピクリと肩を震わせたが、やがて堰切れたように泣き出した。
「大丈夫よ、怖かったわね」
ナディアが優しく語り掛けながら目配せすると、心得たようにソフィアが「お茶」を差し出した。
「お飲みになって。落ち着きますよ?」
暖かな湯気を燻らせた、優しい香りのハーブティーだった。
お茶を飲むと、会場全体に充満している鎮静魔法の効果もあったのか次第に聖女は落ち着きを取り戻していった。
「あの…あたし…」
二人の女性魔導士の優しいまなざしに、少し緊張が解けたのか、「聖女」ではなく、ただの少女としての「サクラ」が語り始めた。
「聖女だって、遺跡の暴走を止めるって言われたんですけど。遺跡の暴走なんて分からないし、お祈りすればするだけ、なんだか体がカーってしてくるし。学園では男の子たちがちやほやしてくれて、周りの男の子たちもイケメンが多くて、だけどこんなゲームも漫画も小説も知らないし、もう訳が分からなくなっちゃって…」
ソフィアのお茶を大切そうに両手で包み込むように持ち、たどたどしくではあるが、ソフィアとナディアに必死に訴える。
「わー、何言ってるか、全然わかんないやー」
「安心しろ、俺だって分からねぇよ」
すっかり蚊帳の外に放り出されたリンとガイも、一応、聖女の言い分には耳を傾けてみるが、さっぱり理解ができない。
クロヴィスに至っては理解を放棄したようで、もはや聞いてもいないだろう。無駄に王族の貫録を出して椅子に座り続けていた。
「もう、帰りたいの…」
ぽつり、とサクラが俯きながらつぶやいた。
「全然、普通の家だったけど!友達がいるの!お父さんもお母さんも、弟だって生意気だけど!離れたくない人が沢山いるの!!!こんな…知らないところ…急に呼び出されても…」
それは、少女の本音だろう。ずっと向き合わないようにしていた感情だったのだろう。確かに承認欲求のような欲望もあったかもしれないが、さみしさから目をそらすために自らにかけた状態異常でもあったのかもしれない。
ソフィアとナディアは、何度も「大丈夫、大丈夫よ」と繰り返し、ちらりとリンとガイに目をやった。
「できるのでしょう?」
「解析は完璧だって、言っていたものね?」
お姉さんたちはいつだって、誰にだって優しいのだ。
優しいお姉さんたちに「お願い」をされたら、双子座の二人には「はい」か「イエス」しか選択肢はないのであった。
「「も、勿論ですとも」」
二人の返事を聞いて、サクラが弾かれたように顔を上げた。
「帰れるの!??」
頭の上がらないお姉さんたちへの引け腰気味な態度はとりあえず置いておくとして、リンとガイはしっかりと頷いて見せた。
「正しい魔方陣と、莫大なエネルギーがあれば問題ねぇ」
この国で明かすつもりは毛頭ないが、聖女の魔力から不純物を取り除くのは、クロヴィスの魔力から属性を剝離した原理とそう変わらない。聖女の魔力は失われたのではなく、正しい状態で聖女の中にある、ということだ。
このままでは、どうせまた出口を見失って迷惑なピンク色に濁るに決まっている。
王族の魔力も聖女も魔力も特殊性では変わりはない。めったにない膨大なエネルギーだという点ではリンにとっては同じものだといえる。
「あるんだよ、あんたの中にそのエネルギー源が。魔道数式の方は完成済みだ、やるぞガイ」
不敵な笑みを浮かべたリンに、いつものようにガイが「了解!」と短く答えた。
「あ、そういえば、最後に言っておきたいこととかある?」
ガイが何でもないようにサクラに問いかける。その間にもリンのペンがさらさらと膨大な数式を描き続ける。
「お姉さんたちにお礼!ありがとう!!」
「ガイ、もう行ける」
信じられないほど細かくみっちりと書き込まれた魔方陣にガイが一瞬目を向ける。時間をかけすぎたのか、書き始めの部分はすでに光が消えかかっていたが、一瞬でも完成図が「見えて」いれば問題はない。リンが最後にペンを弾いた瞬間、ガイの魔力がその全域に火を灯すように広がった。
「いくよ!」
ガイの手の平から放たれた純白の魔力が、リンの描いた精密な数式をなぞり、巨大な術式を完成させる。それはサクラの体内の魔力をエネルギーにして、次元の壁を突き破る一過性の門だ。
眩い光が彼女を包み込み、ひときわ強く輝いたとき、彼女の体が透け始めていた。
「あと本当に最後に一言だけ、この国に!!!」
完全に姿が消えるその瞬間に、サクラは喉が裂けんばかりの声で叫んだ。
「ふざけんなーーー!!!!」
勇ましい叫びが、静まり返った講堂にこだまする。
魅了から解け、正気に戻った帝国貴族たちが呆然と立ち尽くす中、クロヴィスは椅子の背にもたれたまま、帝国の責任者へ向けて短く告げた。
「……だ、そうだ」
リンとガイは、光が消えた壇上で、ようやく肩の力を抜いた。
「……おい、ガイ。俺、今の魔法発動のとき、猫背になってなかったか?」
「大丈夫、完璧な姿勢だったと思うよ。……多分、お姉さんたちも怒らない……はず」
世界を救った達成感よりも先に、背後に控える二人の「笑顔の判定」を恐れてそっと背後を窺った。
こうして、異世界から召喚された少女は、アルテミスの「教育」と「技術」によって、無事に元の世界へと叩き返されたのだった。




