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誰かの呼吸



夜の静寂を裂くように、微かな音が響いた。

それは壁の向こうから聞こえてくる――誰かの、呼吸。


この古いアパートの壁は薄い。

けれど、そんなことは今まで一度も気にならなかった。

今日だけは違った。

息の音が、まるで自分の胸の奥を撫でてくるように、やけに近く感じた。


「……聞こえますか」


思わず、壁に手を当てて囁く。

返事はない。

けれど、代わりに小さな吐息が返ってくる。

その震え方が、なぜだか痛いほどに胸を掴んだ。


見えない相手。

名前も知らない。

それでも、呼吸が重なるたびに、

心の奥の何かがほどけていく。


壁一枚を隔てているのに、

世界で一番近い場所にいるような錯覚。


呼吸の合間に、衣擦れの音。

どちらともなく、壁に寄り添う。

温もりは伝わらないのに、

指先が熱を帯びていく。


「どうして、こんなに苦しいんでしょうね」

と、かすれた声で呟く。


その瞬間、壁の向こうからも小さく、

同じように震える息が漏れた。

まるで、同じ痛みを共有しているかのように。


夜が深まるほど、

音は静かになり、

代わりに二人の鼓動だけが残った。


見えないまま、触れないまま、

それでも確かに存在を感じ合う――

そんな、儚い夜のぬくもりだった。



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