第58話 「サキュバス」(第3部 眷属編)
使い魔のカラスが、荒野の上空を飛ぶ。
荒野は徐々に湿気を帯びてきている。
泥が増え、血の色をした水たまりのような怪しい液体が大地にこびりつく。
絶えず黒雲が、不穏な天候を示す。
気温は低く、或いは突如として暑く。
こんな場所に、人が居るはずは無い。
居るとしたら、それは魔族だ。
ここでは、世界のルールすら、守られない。
何が秩序であるのか、だれも知らない。
これが、魔界との接点を持ってしまった地域。
謎の大穴、“奈落”。
名の通り、時折大震動しては、魔族の群れが出てきたり、飲み込まれて行ったりする。
アリの巣を思い出せばいい。
時折、自ら穴を潰してしまう奇妙なアリを想像すればいい。
誰も“奈落”について知らないし、知りたくも無いのだ。
残念な事に、この穴は大陸の北東端に存在する。
以前の大侵攻以来、ニンゲンによって、大禍なく押さえつけられているが。
さて、今、アリエスの使い魔…アリエスの意識が動かしている仮の体…は、奈落の近くまで来ている。
姿を消しているため、飛行魔には気付かれない。
稀に、臭いに寄ってくるスライム状の飛行物体が居るが、それは容赦なく撃破されている。
彼には、大陸の安定のために、避けては通れない使命がある。
“奈落”を封じるのだ。消滅させるのだ。
その為に、飛んできた。
勿論、さすがに一人で何とかなるとは思っていない。自分の目で、偵察に来たのだ。
遠くに
遠くに大穴らしきものが見えたころ。
その穴の向こうに、蜃気楼のように、人間の城のようなあやふやな建造物が見える。
もし魔族が住む城だとしたら、一体どんな生活をしているのだろう。
アリエスは少し興味が湧いた。
そんな事を考えていたせいだろうか。
それとも
同時刻、“本体”。玉座に座り、微睡むアリエスの唇に、イア妃が媚薬を口移しで流し込んだせいだろうか。
この日、妃の1人が突拍子もない行動に出たせいで、この出会いは生まれたのだ。
アリエスは、普段であればしない行動に出た。
たまたま、それとも必然。運命の神の気まぐれ。
眼下に、汚らしい荒野の血の池に、突如ゲートが出現した。
汚い泉が突如沸き出したように。
何らかの魔族に関わる、何らかのゲート。
アリエスは、急降下して、突入した。
下手をすれば自殺行為なのだが、アリエスは血の池のゲートを通ってみた。
…勿論、使い魔を使い捨てにするなら、決して無謀ではない。が。
既に、妃全員に自らの使い魔を与えているアリエスにとって、自分専用であるただ一匹の使い魔は、捨てていい存在ではない。
うねった空間を感じ取ったのは一瞬のこと。
カラスは、巨大な洞窟の中に出た。
洞窟と思ったのは、天井が、ぬめぬめした肉の壁のような天井が、はるか上に見えたからだが。
1年前の、魔神の山を思い出す。
足元にはゴツゴツした溶岩のような岩で出来た、起伏激しい荒野。
所々に奇怪なオブジェがあり、何かの死体が転がり、血を流している。
至る所で、何かが、蠢いている。
虫のようなもの。トカゲのようなもの。死人のようでもあり、見たことも無いような、頭だけで生きている人間のようなグロテスクな生物…仮に生きているなら。
見つかってはいけない。多分、戦闘になる。ここに生きている者は居てはいけない。いや、魔族は生きているのだろうか。それすら、不定義だ。
…静かに移動する。出来るだけ、魔族の少ない方へ。
骨の山が、男の死体だけがやけに積み重なる所へきた。
カラスは、そこでうずくまる巨大な、コーモリのような女性型のデーモンを見て、様子見に地面へ降りる。
1人で、何か苦しんでいる様な。そんな感じだ。でも、その姿に何かこう、既視感。
理由はすぐに分かった。
巨大なコウモリのようなその女性の腹は膨らんでいた。
…出産?
一体、何を。何を産むのだろう。
腹が十字に裂け、血しぶきをまき散らしながら、中から何か出て来た。
腕が。腕に続いて頭が、体が。人間?いや違う。羽がある。角がある。
何体も、血まみれになって出て来た。
母親の叫びは、喜びの声を上げた…のだろうか。
幼女のようだった。全員。
それぞれ、概ね同じだったが、異形があった。
頭の角と背中の羽は必ずあるようだ。これもまた、それぞれ違うが。
そのうち一体が。アリエスの方に向かって、四つん這いでヨタヨタ進んできた。
頭の角は羊。背中の羽はコウモリのよう。美しい輪郭と顔のパーツが見えたが、その目は金色に揺らいでいる。手足の先に行くほど異形が酷い。ケロイドと言うより溶岩が冷えて固まりコーティングしたような手足。
逆に言えば、体の中心に近づくほど人間と変わらない。
女性型のデーモン。
サキュバスの誕生を見てしまったのか…?
当然、衣服など無く、むき出しの体で近づいて来る。
いや、見えて居ないのだから僕が覗いているようなモノか。あはは。
一歩近づくたびに、成長する。既に、幼女ではなく少女になった。
更にはアネモネの様に豊かになり、つい、目を奪われる。
サキュバス…男性を誘惑し、そのエナジーを吸い取るとか。ちょっといい思いをするのは最初だけで、死ぬまで吸い取られ続けるのだとか。
アリエスの目の前に来た頃は、すっかり成人し、立ち上がっていた。
アリエスの、カラスを見下ろしていた。
?
見ている?見ている?見られている?
「あああたしいをおおおぉおあ……アタシを…見たいのか?欲しいのか?ふふっ」
喋りながら、精神まで成熟していっている?
恐るべき魔族の成長を、この目で目撃する事になった。
少なくとも、この魔族はそのように成熟したらしい。
「…おかしい。オトコの形に見えるのに、小さい。」
急速に、真実に迫り始めている?
アリエスは、正直、それを恐怖した。戦闘力がどうこうではない。
アリエスのカラスは、テレポートを唱えた。…飛べない!!
テレポートできない!何らかの障害が掛かっている。
テレポートを唱えたことで姿まで出てしまった。急いで、あの歪みに飛び込むしかない。
カラスは飛び立つ。背後から、羽ばたきの音。サキュバスが近づいて来る。
カラスは、旋回して一瞬、彼女らが生まれた場所を見た。
あまり見たくなかった光景が、広がっている。
アリエスを追ってきているこの女以外は、息絶えた母サキュバスを食い漁っていた。
恐ろしい。
ここに、情だの、礼節だの、愛だのを求めること自体が間違いだ。ここは魔界だ。
何一つ、信じるな!
魔界ゲートの渦をくぐる。
汚らしいが、禍々しいが、自分の知っている世界に来たことを、アリエスは喜んだ。
1つの違和感を除いて。
背後に、気配。
女性に追われるのは、嫌じゃないが。
暫く逃げ続け。再び地面が硬くなった荒野になり。
森の端が見えたころ、アリエスは、カラスから人の姿になった。入れ替わった。
そのころ、城の玉座でアリエスに悪戯していたイアは、目の前のアリエスが消え、カラスの使い魔になったことに激怒していた。
「追ってきてどうする。サキュバス程度の魔法で僕に勝てるとでも?」
サキュバスは急降下し、森の中へ入り込む。
今度は、アリエスが追う。
あれ、僕、何で追っている?
サキュバスは、少し開けて木漏れ日のある所で、地に足を付け立っていた。
裸身が木漏れ日に浮かび上がる。
アリエスは、目の前に降り立った。
ぼ、くは、まさか、い、ま、操られている?いや、僕に魅了の呪文は効かない。では何だ?
サキュバスは、乾いた黄緑色の草むらに横たわった。
…誘っている?
アリエスは、彼女の前に立った。
「…立て。何もしない。立て。」
「あたしに、覆いかぶさらないのか?待っているのに?」
「…正直言えば、魅惑的だ。でも、遊びはしない主義だ。怒られる。」
サキュバスは、つまらなそうに立ち上がった。
そして、アリエスの目を見る。
「何故?惚れた目をしているのに。あたしの魅了にかかっているんでしょうに。」
ギク。
そりゃ男を魅了するために生まれた魔族はみーんな、美女です!
揺れるに決まってるでしょ!
「お前の恋人はそれほど綺麗なのか?腹立たしいな。」
「僕の心は見えないはず。何故、読める?」
「え?読んでいない。見てもいない。今、怒られるって言った。」
少しガクッとした。そういやそうだ。
「キミはサキュバスなのか?」
「さぁ。アタシも良く知らない。だけど、男からエナジーを吸いたくて仕方ない…お前は、美味しい…近くに居ると、魔力が流れ込んでくる…知識や…魔力や…知識が…。」
「もっともらしいことを言ってるけど、“知識”2回言ってるよ!?」
…サキュバスは、裸は何ともないクセに、妙に恥じらった。
その仕草が何となく可愛らしかったせいだろう。既に毒気は抜かれてしまった。
「…とにかく、大人しく魔界に帰ることだな。素直に帰るなら見逃そう。人を襲わないと約束するならな。」
「魔族に口約束とは、なんと面白いオトコ。守るとでも?」
「むか。」
「…それとも?自分以外のオトコを襲われると嫉妬する?」
サキュバスは馴れ馴れしく、アリエスの唇に人差し指を這わせた。
「お前の魔力は、とても美味しい…。暫くなら我慢してもいい。」
「あ、そう。」
彼女は振り返ると、翼を広げた。
その瞬間に、手足の溶岩のような外殻が体中に広がり、アリエス的には残念な姿になった。
…あの姿は誘惑する時だけなのか?まぁ普段はその方が頑丈でしょうけども。
「アタシの名は、なんだ?」
名前などあるはずない、母は食われていた。そもそも魔族に名前など有るのか。必要なのか。
「ミルキシュ…」
それでも、アリエスは彼女の愛らしいイメージからそう言った。
「そう…気に入った。じゃあね、また…食べにくる…」
アリエスは、飛び去るサキュバスを見届け、テレポートで帰る。
ん?食べにくる?どうやって。
ま、いっか。
―――アリエスの王城。
使い魔の居る所へ飛んだ。そこは、魔女イアの私室だった。
現われた瞬間に、目の前に半裸のイア。
魔法に詳しい彼女は、アリエスが使い魔のもとに来ると踏んでいたのだろう。
カラス(メス)を愛おしく抱きしめ、ベッドに横たわっていた。
先程、サキュバスの誘惑にギリギリ耐えていたアリエスが、妃の誘惑に勝てるはずもなく。
私は、いつもと違って見える?
いつもより綺麗?せくしー?離したくない?
いや、いつも通りに綺麗でせくしーで離せないよ?
…失敗か…媚薬…。
…イア…僕はキミの夫なんだけど。媚薬の必要が何処に…。
…独り占め作戦、失敗だな…。
サキュバスに揺らぎそうになったのは。
キミのせいかー!!




