第5話 「礼節と豚」
昼時だ。たまにはアイツの離宮に顔を出してハッパをかけてくるか。下手するとまだ寝ているだろうが。
<銀>のレオ・メイフィールドは、弟の小さな離宮に足を運んだ。と言っても、テレポートでいきなり現れるだけなのだが。彼は<銀>。魔法ギルドで第2位の要職であり、実質上、指導者のひとり。
皇太子である彼の名も顔も、この国では知れ渡っているので、アリエスの離宮に入っただけで、中に居るもの達は最敬礼をすることになる。
アリエスの私室をノックし、空ける。
「入るぞ、アリエス。」
中には、唯一のアリエス付き侍女であるティアナが掃除している所だった。
入室者が皇太子であると知り、ティアナは深く礼をする。
「1人か?アイツはどうした?」
「アリエス様は女王の命でお出かけしておられます。」
「む?聞いていない話だな。何用か聞いているか?」
「はい、北の公爵領に出向き、ご世継ぎ誕生のお祝いに出席するとの事。」
「世継ぎの件は知っているが、アイツが?…それはまた、不似合いと言えば不似合い。」
「全くです。」
皇太子は可憐な侍女の反応を見ながら。
「…機嫌悪そうだな、ティアナ?」
「そのようなことは御座いません。」
「アイツは一人で行ったのか?」
「いえ、伯爵令嬢が同行するそうです。」
「…酒場の薔薇のメイフェアか。はは、それが不満か。ティアナ。」
「…そのような事は御座いません。」
少女をいじめてもどうにもならぬ。
「そうか。無事に帰ってくるのを待とう。なに、すぐだろう。」
「はい。」
兄は、部屋を出ながら、ふと思う。
ティアナは、侍女としての「裏の役目」を果たしているのか。下世話な話だ、本人に聞くのも忍びない。今すぐにどうこうという話でもない、酒を飲みながらアリエスに聞くがよかろう…。
――――――――
北のダッカーヴァ公爵領は、北の大国、メルカーナ皇国の一翼を担う。
ツァルトとは緩衝地帯や未開地帯、山脈を挟んでおり、容易ではないが交易はある。だが、決して友好とは言えない。何故なら。280年前、真祖が王家を一度滅ぼした地域だからだ。伝え聞く話では、真祖の息子を誘拐し、ツァルトの委譲を迫ったとされる。
怒り狂った真祖王は、そのアークマスターたる力を歯止めなく王国に振り下ろした。実行部隊となった城下の盗賊ギルドを殲滅し、更に。王家を一人残らず。そう、女子供含め一人残らず滅ぼしたという。地下通路も使えぬよう、テレポートも出来ぬよう張られた魔力の巨大な結界に囲まれ、そこに向かって降り注ぐ幾つもの流星を国民はただ見ているしかなかったという。
そして、王都を滅ぼしてもその国を吸収するでもなく放置。旧ダッカーヴァは北の大国メルカーナに吸収された。新たな統治者となったメルカーナの公爵家は、国民の持つツァルトへの憎しみを上手く利用し、この地を統治した。
勿論、教訓を元に…ツァルトへの侵攻は一度もない。ツァルトの魔道師団ではなく、たった1人のアークマスターに王都が滅ぼされたという教訓を元にだ。
「…と言うわけで、今度生まれた子は現公爵の孫にあたるんだって。待望の男子だそうで。」
2人で馬車に揺られつつ。テレポートで行きたいが、公爵領に馬車で入ること自体意味がある。
「へえ。そう。」
「興味無さそうだねえ。」
「ないわよ?お堅いパーティーに出ても楽しくないもん。」
「その割に、ドレスは真面目に選んだね?」
「そ、それは…! 人目には止まるし…。アリエスと踊るんだし…見られるし。」
「うん、可愛いよ。」
「なっ!」
「うん、僕もメイフェアと踊ること以外興味ないけど。憎まれてるからねえ、どうせほっとかれるだけ。うちの国。」
「そんなこと言いつつ、向こうにめっちゃ綺麗な姫とか居たら、わたしをほっといて踊るんじゃない?」
アリエスはわざわざメイフェアの側に座りなおす。
「ないよ?」
メイフェアの可愛らしい丸さのあごを指先で誘導し、唇を寄せる。
「一応、潜在的敵国。夜は同じ部屋の方が安心ですよ?伯爵令嬢。」
「…それはパスです。」
「夜、部屋が当たるかどうかは別なんだけどね…。」
――――――――――
公爵領への道は、交易の一本以外は整備がなされていない。ツァルトを出立した4頭立ての馬車は山脈の低い所を回りながら、日数をかけ無事に首都の門をくぐった。勿論、馬車にはツァルトの紋章が高く掲げられている。
メイフェアは馬車の分厚い布の隙間から華やかな街道を覗き見るが、決して歓迎的とは思えない街人の視線にすぐ布を閉じた。
街人がこれでは、城ではもっと嫌な目に逢いそうだなぁ。
…メイフェアの勘は当たることになる。
城門をくぐり、王の書状を見せ、招待状を見せ。
貴族の礼をし、正装のアリエス、水色のドレスのメイフェア。2人は貴賓としてもてなしを受ける。少なくとも、表面上は。
2人は大きなホールへ案内された。
―――あれがツァルトの王子?オンナ連れか。随分良い女だな。ご立派なことだ。さすが子沢山の獣、ツァルトよな。
―――あれで正装のつもりなのか。羽を差しておらぬではないか。田舎者が。
―――よく、のうのうと王族が来れるものだ。ダッカーヴァ王家の恨み、消えてはおらぬぞ。
―――なにか粗相でも起こさぬか。いや、起こすだろう。誰か一騎打ちでも挑めばよい。あんな細っこい小僧など。幼き頃より一度は騎馬の鍛錬を受ける我ら。一捻りに出来るだろう。
「メイフェア、気にしなくていいよ。」
「うん、判ってるけどね。だからこそ、冒険者でもあるわたし達なんだろうし。」
赤と金のカーペットが敷き詰められ、食祭の赤い旗と豪華なタペストリが壁を彩る。赤いクロスを敷いたテーブルには山積みの食事とエール、ワイン。
式典が始まり、まずは公爵の次男が滔々と自らの出自を誇り、父を誇り、娘を紹介した。非常に整った顔立ち、編み込んだ銀色の髪を後ろでまとめ上げ、長く下に下ろす美しい姫だった。
次に、公爵の長男が出て来ると、この度生まれた自分の赤子が男児であることを告げ、自分達を継ぐ待望の王子であると高らかに宣言した。
最期に、まだ爵位を譲位していない公爵ヴォンベルゼンが、祝祭の客に口だけの礼を述べ、宴の始まりを告げた。
言うまでもなく、この大ホール壁沿いには騎士団が警護を務める。公爵一家の近くには執事賢者、宮廷僧侶と騎士団長、宮廷魔術師。
アリエスとメイフェアは並んで食事を取る。立食ではなく、ほしいものを次々と給仕たちが運んでくる。
「う~ん、見た事ない食べ物多数。美味しいねえ。毒も入ってないし。」
「どうやって味を作っているのかなぁ…このソースは…オレンジかなあ…」
「メイフェア、職業病出てますよ?」
「う、うん…と言っても気になるなぁ」
2人とも、食事の作法には気をつけながら食べているので、少々堅苦しい。
アリエスがワインを飲んでいる時に、後ろからぶつかってくる貴族が居た。
「おっと、失礼。おやおや、ワインを零されましたか?濡れた服がお似合いですな。いや失礼。」
メイフェアが抗議しようとしたところをアリエスは止める。
「ありがとう。大丈夫大丈夫。ちゃんと天罰は下るさ。」
…小声で。<ティアアップ…引き裂け>
アリエスの後ろを去って行った貴族らしき男のスラックスは、おしりの部分がいきなりぱっくりと裂け、周り中の失笑を買う羽目になった。
「くくく…。」
「ぷ。」
2人はニッと笑った。
食事がひと段落したところで、宮廷楽団が用意をはじめ、静かで優美な音楽を奏で始めた。
「踊ろう、メイフェア。今日は食事とダンスをする以外に用はないからね。」
「うん。アリエス。」
2人は、他の貴族の若者たちを無視して、見つめ合って踊り始めた。
一方、多くの若き貴族たちにダンスを求められ踊る公爵次男の娘。ノエル姫は、一組だけ、自分達公爵家に尻尾を振らぬ男女を見ていた。
「…あれが、魔道国ツァルトの使者。アリエス王子と連れの貴族ですか。」
姫が2人に目線を配っているのに気づいた執事は、大きな声で2人の邪魔をしてきた。
「いやいや、ツァルトの踊りは精悍さがあって良いですなぁ!!」
無骨で粗野と言いたいのだろう。
周りで笑いが起こった。
…メイフェアは踊りを辞めてしまった。
下を向き、「久しぶりに踊ってたのになぁ…興覚め。」と呟く。
「メイフェア。じゃぁ、僕らの流儀でやろう。」
「何?」
アリエスは、リュートを取り出した。正確には、魔法で小さくなっていたリュートを大きくした。
そして、宮廷楽師の優雅で小さな音楽をかき消すように、大きく音を鳴らす。楽団に一時ストップの合図を送る。
それは、いつもアリエスが酒場で鳴らしている元気なダンスの曲。楽しくノリのいい、ポップな曲。かき鳴らしながら、酒場でアリエスとメイフェアが踊る曲。
「…バッカみたい。ここで?」
「僕たちらしいでしょ?」
メイフェアは笑って、再び顔を上げると、ドレスであることを無視するように、美しいステップを踏んで大きく踊り始めた。踊り子のように。
アリエスもリュートをかき鳴らしながら、加わる。
宮廷楽団も客の意図を組み、合わせてリズムを取り始めた。
こうなると、若者たちも加わって踊り出す。
公爵のもう一人の孫であるノエル姫は、呆気に取られてその様子を見ていた。
暫しこの大騒ぎが続いた後、アリエスの演奏が終わるのを合図に活気あるダンスの時間は終わり、再び優雅な演奏に切り替わった。
その際には、少なからぬ拍手がメイフェアに、アリエスに向けられた。
2人は手を取って壁際の席に座る。メイフェアは笑顔に戻っていた。
――――――――――
優雅な音楽に切り替わって、暫くしたころ。
新たな客人を入口の従者が紹介した。
「アテンドル王国の皇太子ビューリ・アテンドル様、ご来場であります。」
いかにも貴族然とした、背のとても高く、服の下からも鍛えた筋肉が想像できるような美丈夫だった。所謂、とってもモテるタイプ、だ。
公爵家に真っ先に挨拶を行い、奥から順に次々に礼節正しい所作で言葉を交わす。
一番後ろにいる、アリエスとメイフェアの所にも。
「美しい人。後ほどこの私と踊りませんか?」
「メイフェアはアリエスをちらっと見て、あ、いやどうも本日は疲れましたのでもうじき引き上げようかと…」
それは残念、といいながら、好青年は次の挨拶へ回って行った。
「踊れば良かったのに。」
「じょ、冗談。見えてるでしょ?」
周り中、突如現れた力強く美しい王子の話題で持ちきりだった。
―――ノエル様の婿候補も多数来ているのだろう…あの王子は美しいな。
―――うちの娘はどうだろうか、あの貴公子は信頼できる…。
―――ビューリ・アテンドル様、何と素敵な…。
アリエスは笑顔で、「まぁ面白いじゃない。様子を見よう。」とだけ言った。
美しい貴公子、アテンドルは、他の若き貴族たちと同じく、ノエル嬢の手を取った。
「これは…何と美しい姫なのだ…!」
あまりに白々しいので、アリエスは本格的に行儀悪くプッと吹いた。
―――睨まれた。
「アナタは、心に決めた人はおられるのか?いや、例えいても、私を見て頂きたい」
ノエル姫はあまりの事におどろき戸惑っているが、ここまで言われたことは初めてなのか赤く頬を染めていた。
「い、いないですわ…でも…その」
「居ないのならば。私たちの邪魔は誰にもできませぬ。姫」
「ちょ、ちょっとお待ちください…強引」
ヤレヤレ。アリエスは立ち上がった。
「はは、ダッカーヴァの公爵家はブタがお好きなようだ!」
そして近づいていく。
「宮廷魔術師、判らないのか?、騎士団長!判らないのか!?」
「き、貴様!ツァルト! 我が国を侮辱するか!?姫と、皇国の皇太子を侮辱するか!?」
騒然となった。
「メイフェア、準備…」 「あいよ…」
アリエスは、左手を口に当てた。杖を使わぬツァルトの魔術師は、左手の指輪が触媒。
「目を覚ませ…<ディスペル・オール!>全範囲解除!」
姫、ノエルは、自分の手を取って口説いていた美丈夫の顔が、突然牙と角のある豚に変わったのを見て悲鳴を上げた。
2本の角、口から上向きに生えた2本の牙。貴族の服装はそのまま。
ホールに悲鳴が響き渡る。
アリエスは大きな声で、その正体を告げた。
「猪の魔物、ボアデモニック。人間と交わり豚を生ませると言われる魔物だ。魅了の呪文で自分を信じ込ませる魔力を持つ。よくここまで入り込んだものだ!」
―――公爵を守れ! ―――姫を放せ! ―――逃げろー!!
―――騎士団、早くしろ!
様々な怒号が飛び交う中で、豚の魔物は口から炎を吐き出す。
「あー、バレたのか、あー、仕方ない、口説くも攫うも、子を産ませるには変わらない、なー?」
豚は姫の手を掴んだまま、離さない。
姫はひと際大きく泣き叫んだ。
「あ、オデに近づくと、姫を焼くぞ、焼いてしまうぞ、食うぞ、あは、あはは」
炎が広がり、悲鳴が増していく。
姫を人質に取られ、騎士団長もただ怒り叫ぶだけだった。
「<究極呪文、タイム・フリーズ!!>」
疲れるから嫌なのに!
一瞬で、背後に回り、豚の魔物へ触れる。<テレポート…上空だ…>
続いて、<テレポート!>自分も消えた。
時間が動き出す。悲鳴を上げていた姫は、突然自分の手が解放されたのを知った。
目の前に、異国ツァルトの少女が走り寄り、呪文を唱える。
「<精霊魔法、ウィンディーネ!水の精よ、炎を止めよ、安らぎの水を与えたまえ!>」
3体、水色の精霊。水の塊がそのまま少女のような形になって、次々に炎を消す。
メイフェアはノエル姫に肩を貸しながら、精霊を操る。
「あ、ありがとう、あのマモノは?」
「大丈夫です。今頃、あのバカがやっつけています。」
上空。落下しながら。
「あ、あー、何がおきたぁ、あー落ちる」
「<ライトニング・ボール!>焦げろ!」
「呪文―、唱えるなーぁ!」
精神波が、アリエスに届く。命令を聞けと心を割ろうとする。
…アリエスは、笑った。
「焦げろ!」
夜空に広がる巨大な眩しい光。魔物の悲鳴。
「<テレキネシス!>お前が落ちる場所は、そこだ!」
城の尖塔・2mにも及ぶランスのようなす鋭い先端が威圧感と優美さを同時に見せつける―――。
魔物の絶叫が街に響き渡る。
人々が目にしたのは、雷をシルエットに浮かび上がる、尖塔に串刺しになった黒い影だった。
――――――――――
ホールの中央に、アリエスはテレポートで姿を現す。
「汚いものをお見せします。ご婦人方はご覧になりませぬよう。」
うやうやしく礼をし、呪文を唱える。
「<センドビジョン>ご覧あれ。」
空中に、尖塔に突き刺さった黒焦げの豚。その姿が浮かび上がる。
再びの悲鳴と、動揺。息をのむ、音。
こと戦いにおいて、アリエスは豹変する。倒すべき相手に対する冷徹さと非情さを持った魔王に。
この一瞬だけ見れば、普段の間抜けぶりは嘘のよう。
「我がツァルトの魔道師団、ご要望有れば友として、微力ながら助力いたしましょう。」
たった2人で。貴族2人で。魔族の脅威を排除した。
これが、魔道国ツァルトの戦力。そして脅威。
ご要望有れば友として。すなわち、敵対すれば敵として。魔道国ツァルトの立ち位置を明確に知らせたと言える…。
再び呆気にとられた人々を尻目に、アリエスはノエル姫の前に立つ。
「姫。お手を」
メイフェアがピクッとした。
「その指輪、お借りしても?」
アリエスはノエル姫から指輪を抜き取ると、<マインド・バリア>、<エターナライズ>、二つの上級呪文を唱えた。
「錬金してないから一時しのぎだけど。これで当面は、魅了の呪文や命令呪文は受け付けない。騙されちゃダメだよ、ノエル姫。僕らは自分の心で恋しなきゃね!」
「は、ハイ…アリエス様…大切にします…。」
「では、これにて失礼いたします!苦情はツァルトまで! 公爵様、ご世継ぎのご誕生、ツァルトを代表してお慶び申し上げます!」
「では…!」
アリエスはニッと笑って、メイフェアと手をつなぎ、深々と頭を下げ、豪華な両開きの扉を開けた。
――――――――――
後日。第3王子離宮。
「アリエス、居るか。」
「おや、兄上。何用でございましょう?」
「女王より言伝だ。公爵領より、献上品と謝礼の使者が来た。ご苦労だった。」
「それは何より。」
「此度の、魔道国ツァルト王子の働きに感謝し、さらなる友好を期待するものである。だと。」
「そうですか。ヨカッタヨカッタ。賠償金とか言われたらどうしようかと。」
兄は笑った。
「立ち回りは聞いている。よくやった。アリエス。」
「僕だってやれば出来るんデスヨー。」
「そうだな。俺は信じている。…そうそう、関係ない下世話な話だが、お前に一度聞いておきたかった。今後、お前には他国の貴族と婚姻話も出てくるだろうからな。お前、ティアナとは―」
「私が何か?」
背後から声。
皇太子は、「いや、またにしよう!」と言ってそそくさと退散した。
ふう、とため息をつきティアナは。
「…メイフェア様とのご旅行で進展があったのでは?」
「やきもち?」
「…いえ。お茶をお持ちします。」
お茶を注ぎながら、ティアナが言う。
「私は、アリエス様がどなたと婚姻されようと。ずっと傍に居ます。」
「…居ていいなら。」
アリエスは、温かいお茶を一口飲むと、カップをテーブルに置いて。
「おいで…。」と一言だけ、言った。
ティアナは頬を赤らめながら、自分で燭台の火を消した。
誰にも、誰にも内緒の話だ。
15の時、真に駆け出しの冒険者だったにも関わらず、自分の魔力を過信した彼が。
人買いの闇オークションに乗り込んで、女性たちを全員助けようと思っていた彼が。
―――周り中に配置された<自分より強い>魔術師、盗賊、剣士ら、20数名の中で結局何一つできず。
悔しさに唇を噛み切りながら…たった1人、一番幼い少女を「買って」救い出したことを。
すぐに開放した少女は、しかし、既に親を殺され、もう何処にも行き場は無かった。
少女は、以来、アリエスのたった1人の侍女になり。可憐に成長し―――。
時に寝食を共にする恋人であり…。従者であり、妹になった。
だから、ティアナにとって、従者の「裏の役目」など関係なかった。
この国の侍女は、だが。勿論、強制ではなく意志によるモノだが、年頃の王族が情欲や衝動、誘惑に流されない為の女性であるという「裏の役目」。ハーレムの一員としての、役目があった。侍女から夫人となる者も過去には居て、侍女はメイドや給仕、家政婦より貴族に近い権限を持つ。望んでこの役目に就くものも多々居る。
だが、ティアナには関係なかった。まるで意味のない話だった。
給仕たちにそんな話を聞かされる前から、愛していたから。