第82話 尾行します!
「ただいまー、モグモグ」
黒乃はキュウリをポリポリかじりながら、小汚い部屋の扉を開けた。
「お帰りなさいませ、ご主人様……下の畑のキュウリをかじりながら帰宅するのはやめてください」
「いやー、お腹減っちゃって。我慢できなかった」
黒乃は荷物を床に置くと、ゴロリと床に寝そべった。キッチンで夕食の準備をするメル子の後ろ姿を眺めながら、明日の予定を思い出した。
「そうそう、明日はお弁当いらないわ」
「そうなのですか」
「うん。明日は朝から外回りするからさ」
「大変ですね」
「だから、桃ノ木さんがお弁当作ってくれるんだって」
メル子の動きがピタリと止まった。手に持ったお玉が鍋に当たり、カチャカチャと音をたてている。
「どどどどど、どうして桃ノ木さんがお弁当を作る必要があるのですか」
「え? いっしょに外回りするから。二人で公園かどっかで食べようって言うし」
「そそそそそ、そうなのですか。そうなのですか、へ、へぇ〜」
「どした、メル子?」
「べ、べつに〜?」
翌日の朝。黒乃は弁当を持たずに家を出た。メル子はそれを笑顔で見送った。黒乃がボロアパートの階段を下り、通りに出るのを窓から確認したメル子は、大急ぎで戸締りをして部屋を出た。
「どういうつもりですか! どういうつもりですか!」
ノロノロと歩く黒乃の後ろを、素早く身を隠しながら尾けるメル子。電柱の陰から黒乃の様子を窺う。
「なぜこんなに歩くのが遅いのですか! すぐに立ち止まるし!」
黒乃の会社は隅田川を渡った先、スカイツリー付近にある。徐々に人通りが増えていく中、黒乃を見失わないように尾ける。
会社のビルにたどり着くと、黒乃はその中にヨロヨロと吸い込まれていった。
「ここは待つしかありません。朝から外回りと言っていたので、すぐに出てくるはずです!」
ビル前の通りを挟んだ歩道の電柱の影に隠れて待った。通行人がメル子をジロジロと見ながら通り過ぎていく。案の定、三十分ほどすると黒乃が出てきた。その横には、後輩の桃ノ木桃智が寄り添っている。赤みがかったショートヘアに、テカテカと真っ赤に輝く厚めの唇が艶かしい。
「出てきました! 近い! なぜあんなにピッタリとくっついているのですか! お仕事中ですよ!」
二人は密着しながら歩き出した。メル子もコソコソと離れて歩いた。
「普段は猫背のくせに、ピシッと背筋が伸びているのが腹立ちます! なにカッコをつけているのですか!」
メル子は両手を耳の後ろにあてた。手のひらを前方に向ける。
「集音マイク機能オン!」
「ねえ、桃ノ木さん。いつも言ってるけど、密着しすぎだから」
「あら、ごめんなさい。気がつきませんでした」
桃ノ木はクネクネしながら黒乃に体を擦り付けた。
「なにをしていますか、白々しい! ご主人様ももっと拒否をしてください!」
黒乃と桃ノ木は、亀戸方面へ向けて歩き出した。
「黒ノ木先輩、今日のスケジュールはどうなっていますか?」
「え? 昨日スケジュール表渡したでしょ。見てないの?」
「忘れていました」
「こら! ちゃんと確認しておいてって言ったでしょ!」
「ハァハァ、ごめんなさい」桃ノ木は頬を赤らめて叱責に耐えている。
しばらく歩くと、目的のビルに辿り着いたようだ。大きくはないが、綺麗な新しい建物だ。
「最初はここでサウンドの打ち合わせね。リストは持ってきた?」
「はい、デバイスに入っています」
二人はビルの中に消えた。
「打ち合わせですか。ここも待つしかありません。最低一時間はかかると予想します」
メル子はビル前のコンビニイートインから見張ることにした。生イチゴスムージーを購入し、窓際の席に陣取る。
二人がなかなか出てこないので、メル子はイライラし始めた。コンビニの中から、ものすごい形相で通りを睨むメイドロボに、通行人はギョッとした。
たっぷり三時間経って、ようやく二人がビルから姿を現した。相変わらず桃ノ木はピタリと黒乃にひっついている。
「まったく会議が長すぎます! 無駄な会議により、どれほどのリソースが失われていることでしょう! 日本人はとにかく会議。会議を開くことが仕事だと思っている節があります! あらかじめ問題点を短くまとめ、参加者に事前に意見を求めることにより、会議前に問題が解決することもあります! 臨機応変に! 働き方改革!」
「いやー、会議長かったね」
「ウフフ、後半はみんなでゲームで盛り上がっちゃいましたね」
「なにをしていたのですか!?」
黒乃と桃ノ木は、再び並んで歩き始めた。どうやら、近くの公園に向かっているようだ。
「すっかりお昼過ぎちゃったけど、昼飯にしようか」
「はい。私が作ったお弁当、食べてくれますか?」
「もちろん、食べるよ」
「きゃ」
「バカップル! お仕事中なのにバカップル!」
黒乃と桃ノ木は公園のベンチに座った。ビルの合間にある小さな公園だ。ブランコと滑り台のみの、質素な遊具が哀愁を誘う。メル子はベンチの横側の植え込みの陰に隠れた。
「さあ、どんなお弁当なのか、見せてもらおうではありませんか!」
メル子は集音マイク機能とズーム機能を駆使し、二人の様子を窺った。
「ふふふ、先輩。おいしい手作り弁当ですよ」
「そりゃ楽しみだ」
「私なんて、毎日手作りしていますからね!」
「どうぞ、おにぎりです」
「お、いいね。モグモグ」
「ご主人様はマヨ納豆おにぎりが大好物です。さすがにそのチョイスは無理でしょう……」
「お、これマヨ納豆じゃん。好物なんだよ」
「偶然全部マヨ納豆です」
「そんな偶然がありますか!」
「次は唐揚げです。どうぞ召し上がれ」
「唐揚げか〜」
「ぬかりましたね! ご主人様は唐揚げはそんなに好きではないのです! 衣にあんまり味がついていないなどと、わけがわからないことをほざいて食べようとしません!」
「ん〜、味が濃厚でうまい」
「よかったです」
「なぜですか!? いつもは食べようとしないのに……ハッ、あれは!? 唐揚げを甘辛く煮込んだ甘辛煮! そんな裏技が!?」
「はい先輩、あ〜ん」
「こらこら」
「あ〜ん!? あ〜んて!? お仕事中なのに!? 食べた!? しかも食べた!!」
「先輩。私のこと、桃智って呼んでください」
「え? 桃智」
「はうん」桃ノ木は悶えた。
「やりたい放題ですか!」
「黒乃……先輩……」
「こら、先輩を名前で呼ぶな」
「あ、すみません」桃ノ木は顔を青くして辱めに耐えた。
「ププー! 怒られました。調子に乗るからです!」
弁当を食べ終えた黒乃と桃ノ木は、次の現場に向かった。
「ハァハァ、なんなんですか。散々バカップルっぷりを見せつけられました。公園でイチャイチャなんて、非常識ですよ!」
しばらく歩くと、次の現場にたどり着いた。小汚いビルだ。どんよりとした空気が漂っている。
「ここが最後の現場だよ」
「問題のアレですね」
「そう。納期が遅れてるのに進捗がまったく見えないから、乗り込んで実態を把握しなければならない」
「先輩……怖いです!」
「この業界ビビったら負けよ。ガツンと言ってやる!の覚悟でいくよ」
「はい!」
二人は魔境に乗り込んでいった。メル子は呆然とそれを見送った。
「なんだか、知らないご主人様がいます……」
メル子はビルの前で待った。日が傾き、通りは日陰に入った。秋の風が通りを吹き抜け、メル子は寒さに震えた。さらに待ったが、黒乃はビルから出てこない。
「ご主人様と私が出会ってから、ほんの数ヶ月。メル子はご主人様のことをなにも知らなかったのです……」
メル子はビルに背を向けてトボトボと歩き出した。
「あれ? メル子じゃん」
メル子は振り向いた。黒乃と桃ノ木がメル子を見つめている。
「ご主人様……」
「どうして、メル子がこんなところにいるの?」
「え、いや、その」
「おチビちゃん、こんばんわ」
「おチビじゃないですぅー! メル子ですぅー!」メル子は口を尖らせて抗議をした。
「まさか、私達を尾けてきたのかな?」
「う、あう……はい」メル子は目にうっすらと涙を浮かべた。
「なんでそんなことしたの?」
メル子は下を向いてプルプルと震えている。ぎゅっと手を握りしめると、顔を上げて黒乃を見た。
「だって、ご主人様がお弁当をいらないなんて言うからです!」
黒乃と桃ノ木は顔を見合わせた。
「私のお弁当は食べたくないのですか!」口を引き結んで黒乃をじっと見た。
「まさか。メル子のお弁当は大好きだから、食べたいに決まってるよ」
「おチビちゃん、ヤキモチ焼いているのかしら?」
「焼いていません!」
メル子は後ろを向いて走り去ろうとした。黒乃が慌てて追いかけて、肩を掴んだ。
「メル子、落ち着いて」メル子を抱き寄せて頭を撫でた。メル子は黒乃の白ティーを握りしめながら言った。
「私が知らないご主人様のことを知っていて、ずるいです」
「いや、それは桃ノ木さんとの付き合いの方が長いんだから、しょうがないでしょ」
桃ノ木は腕を組んで指を唇にあてた。「うふふ、高校時代からの付き合いですもんね」
「え? 高校って?」
「なんでもないです」
メル子は白ティーをグイグイ引っ張った。「私はご主人様のことをほとんど知らないです」
黒乃はメル子の頭をポンポンと叩いた。
「でも、それはいいことじゃん」
「なぜですか」
「私だってメル子のこと、なにも知らなかったもん」
「……」
「二人でいっしょに、ゼロからスタートしたばっかりじゃん。知らなくていいんだよ」
メル子は白ティーに顔を埋めてしがみついた。
「……わかりました。でも一つだけ約束をしてください」
「うん、なに?」
「他人のあ〜んで食べないでください」
「それはホントごめん」
賑やかな三人の大騒ぎの裏で、小汚いビルの会社員達は、夜逃げの準備を始めていた。




