第67話 ギャンブルをしよう!
休日の朝、メル子はいつものように朝食を作っていた。
「フンフフーン。今日の朝ご飯はソパ・デ・アホ〜。ニンニク、生ハム煮込みます〜。パンと一緒に煮込みます〜。アホアホアホアホアホのスープ〜。ご主人様もアホアホでーす。フンフフーン」
上機嫌で料理を作っている後ろで寝ていた黒乃が、突然布団から飛び起きて言った。
「完成した……」
「菩薩の拳が完成したのですか?」メル子は料理を続けながら話を合わせた。
「違う……」
「なにが完成したのでしょう」
「億万長者になれるギャンブル理論が完成したんだよ……」
黒乃は布団から這い出ると、丸メガネをかけて椅子に座った。
「ギャンブルで勝つ夢でも見たのですか?」
「夢じゃない。これから現実になるのだ」
「まだ寝ぼけていますね。はい、ソパ・デ・アホで目を覚ましてください」
「誰がアホやねん!」
黒乃はソパ・デ・アホをズズッとすすった。
「うーん、香ばしいニンニクの香り、ハムの旨み。それらがトロトロに煮込まれたパンが包み込んで、胃の中に滑り落ちていくよ。朝の閉じた蕾のような胃袋が、花開いていくかのようだ。うまい……」
黒乃はスープ越しにメル子を、そしてこのボロアパートの部屋を眺めた。
「ふふふ……この光景も見納めか。いつかこの生活を懐かしむ日がくるのだろうか」
「なかなか目を覚ましませんね。叩いてみましょうか」
「いや、部屋を替えようと思ってね」
「どこにそんなお金があるのですか」
「いやだから、ギャンブルで」
どうやら本気のようだ。メル子は呆れてなにも言えなくなってしまった。黒乃がスープを飲み干すのを黙って眺めた。
「よし! いくか!」
「どこへです?」
「決まってるでしょ。ギャンブル場だよ!」
こうして二人は、休日の朝からギャンブルに出かけることになったのだ。
浅草の町はいつもどおりの賑わいを見せていた。親子連れ、海外旅行者、カップル。しかしこの中で、朝からギャンブルに向かう輩はいかほどいるものだろうか。
白ティーおさげのご主人様と和風メイド服のメイドロボが、まさかギャンブル場へと向かうとは誰も思うまい。
「メル子よ。歩きながら私が完成させた億万長者になれるギャンブル理論、略して『億ギャ論』を説明しよう」
「ネーミングがクソダサいです……」
「『億ギャ論』は三つの鉄則から成り立っているのだ」
黒乃は揺るぎない自信を胸に、その鉄則を語り出した。
第一の鉄則『ギャンブルは親が勝つ』
「この意味がわかるかね、メル子」
「親というのは、ギャンブルの胴元のことですよね。競馬だったら地方自治体とか、パチンコだったらパチンコ屋とか」
「ふむ、運営側が親だとしたら、子は我々ギャンブラーだね」
「ではその鉄則に照らし合わせると、ギャンブラーは負けるではないですか」
「そのとおり、我々は負けるのだ」
「いきなり億ギャ論が破綻しましたね。まさか、自分でギャンブル場を開くとかいう話ですか?」
やれやれといった具合に黒乃は両の手のひらを上に向けた。
「それは犯罪でしょうが。あくまで合法ギャンブルの話だよ。いいかい? そもそもなぜ親が有利なのだろうか?」
「なぜって、親が有利じゃないと商売が成り立たないからですよ」
「そう、ではどのようにしてその有利を実現しているのかな?」
「それはテラ銭、還元率があるからです」
還元率とは、賭けた金額に対して何%が手元に戻ってくるかを表した数値である。数値が低いものほど親が有利になる。
パチンコ80~85%、競馬70~80%、競艇75%、競輪75%、オートレース70%、宝くじ46%となっている。
「ということは、パチンコが一番いいギャンブルで、宝くじが一番ダメなギャンブルなのですね?」
「そこが落とし穴なのだ。還元率でギャンブルを選ぶギャンブラーは必ず負ける!」
「なぜですか!?」
「それは第二の鉄則があるからだ」
第二の鉄則『やればやるほど負ける』
「そもそも、ギャンブルというのは勝ったり負けたりするものだろう?」
「そうですね」
「だから、短期的には勝つこともある。しかし、長期的には必ず負けるようになっているのだ」
「なぜですか」
「第一の鉄則により、子が不利なのは決まっているからだ」
「でも、勝ったり負けたりするのならば、勝ちで終わることもあるでしょう」
「短期的にはあり得る。長期的にはあり得ない」
「なぜです!」
「それは統計によるものだからだ。いわば、この宇宙の法則だ!」
サイコロを六回振る。一から六の目が均等に出るだろうか? もちろん、奇跡が起こらないと均等には出ない。ではサイコロを六十回振った場合はどうだろう? なんとなく均等に出ているような気がするのでは? 六百回では? 六千回では? ここまできたら、ほぼ均等であろう。
「つまり、サイコロをたくさん振れば振るほど、1/6に結果が収束するのだ」
「なるほど。当たり前のことですね」
「ギャンブルに置き換えれば、やればやるほど、結果が還元率に収束するということ。これは宇宙の法則なのであって、神でもなければこの法則からは逃げられないのだ!」
「ではやはり、ギャンブラーは負けるではないですか!」
第三の鉄則『小さく張って大きく勝つ』
「つまり、大穴狙いということですか?」
「そのとおり。ギャンブルは大穴を狙わないと絶対に勝てない」
「大穴なんて滅多にくるものではないでしょう」
「ではルーレットで考えてみよう。クルクルと回転している円盤に玉を投げ入れて、1〜36(プラス0、00など)のどの数字のマスに入るかを当てるギャンブルだね」
一枚のコインを千枚にするにはどうすればいいだろう。二通りのやり方を考えてみる。
一つは赤と黒、どちらかに全コインを投入する方法。倍率は二倍のため、十回連続で当てれば千枚を超える。確率は1/1024だ。
もう一つは、一つの数字に全コインを賭ける方法。この場合の倍率は三十六倍なので、二回連続で勝つだけで千枚を超える。確率は1/1296だ。
「さあ、どちらの方を選ぶね?」
「いや、それはもう確率的に二倍を十回ですよ。当たり前ではないですか」
「だからダメなのだよ、メル子くん!!!」
「うるさっ」
「そのやり方は第二の鉄則に反するのだ。数をこなしてしまうと負けに収束するのだ!」
黒乃は足を止めた。浅草駅前の交差点である。人と車が行き交う忙しい場所だ。
「着いたよ」
「駅から電車でギャンブル場にいくのですか?」
「いや、もうギャンブル場に着いた」
「え?」
メル子は周囲を見渡した。目の前には宝くじ売り場がある。
「まさかご主人様……ギャンブルというのは……」
「そう、今日やるギャンブルは『宝くじ』だ!!」
メル子は衝撃のあまり、口を開けたまましばらくフリーズしてしまった。
「ご主人様、いやだって……宝くじは還元率が最悪……」
「落ち着きなさい。ここで改めて、億ギャ論の鉄則を振り返ってみよう」
第一の鉄則『ギャンブルは親が勝つ』
第二の鉄則『やればやるほど負ける』
第三の鉄則『小さく張って大きく勝つ』
「第一の鉄則により、我々は負けるのが定められている。それは第二の鉄則のためである。であるならば、我々はその逆をいけばいいのだ。つまり『ギャンブルをやらない』のが勝つための鉄則なのだ」
「ここまできて、ギャンブルをやらない!?」
「正確には『試行回数を極限まで減らす』のが大事ということだね」
メル子は顔が青ざめてきた。
「第三の鉄則により、我々は大穴を狙わなくてはならない。宝くじの一等の倍率は百万倍以上。万馬券(百倍)どころの話ではない」
「いや……しかし……」
「メル子、考えてもみてよ。パチンコ、競馬、競輪で億万長者になった人がどれほどいる? 数えるほどしかいないでしょう。でも、宝くじは億万長者が毎年出ているんだよ。しかも、競馬は万馬券なんて滅多に出ないけど、宝くじは必ず一等があるんだからね」
「いやまあ、そうですけれど」
「パチンコや競馬で破産した、なんて話はよく聞くだろう? でも宝くじで破産した人なんていないのさ。宝くじは安全なんだよ」
黒乃は宝くじ売り場の窓口に、札束をドンと置いた。
「話をまとめようか。宝くじは試行回数が少ない。サマーと年末、二回しかやらない人が多いからね。大穴を狙える。億をコンスタントに狙えるギャンブルは宝くじしかない。まさに小さく張って大きく勝つ。必ず一等がある。破産しない。安全である。収益が公共事業に使われるなど、公益性がある。以上の理由から、億万長者になるには宝くじがベストなのだよ」
黒乃は会心の笑顔を売り場のおばちゃんに見せた。
「十万円分ください」
「十万!?」メル子は度肝を抜かれた。
「毎度」
黒乃は大量の宝くじ券を抱えて、売り場をあとにした。メル子は一組だけ購入した。
——そして抽選日。
黒乃はプルプルと震えながら、床に散らばった宝くじ券の上で泣いていた。
「ご主人様、気を落とさないでください。外れて当たり前なのですから」
「うん……」
「ご主人様! 見てください! 私は一万円が当たりましたよ」
「おめでとう……」
「ほら、泣かないでください。これで焼肉を食べにいきましょうよ」
「うん……」
相当ダメージが大きいようだ。
「宝くじ当てて、大きい部屋に引っ越したかった……」
「そうなのですか?」
「大きい部屋なら、メル子が喜んでくれると思って……」
「ご主人様……」
メル子は床に膝をつき、黒乃の頭を太ももの上に乗せた。黒乃の涙がメル子の白い肌に滴る。
「私はこの部屋が大好きですよ。小さい部屋でも大好きです」
「ほんと?」
「ほんとです。だって、ご主人様と初めて出会った部屋ですもの。小さくても汚くても大好きですよ」
「うん……」
しばらく黒乃の頭を撫でていると、そのうち寝息を立て始めた。夢の中では、億万長者よりも幸せな生活をしているに違いないと、メル子は思った。