第54話 ギックリ腰です!
休日の昼下がり。黒乃はキッチンの上の棚を漁っていた。
「ご主人様、なにをしているのですか?」
「ロボット運動会の賞品を整理しようと思ってさ。米俵を上に……重い!」
ボロアパートの小さな部屋は、小さなメイドさんのおかげで綺麗に片付いているものの、やはり狭い。
黒乃は米俵を担いで椅子に乗り、棚に入れようとしているようだ。細くて長い腕は頼りなく、足はフラフラしていて、いかにも危ない。
「ご主人様、無理はしないでください。危ないですよ」
「大丈夫大丈夫。私こう見えて力持ちだから」
しかし黒乃はバランスを崩し、米俵が落ちそうになる。
「危ない!」
メル子は慌てて手を伸ばし、米俵を支えた。ズシリとした重さが、メル子の腰にのしかかる。
それと同時に、黒乃は足を滑らせ椅子から落ちた。黒乃のケツがメル子の腰にヒットした。
さらにその勢いで、背後にあった机にメル子の腰がぶち当たった。
メル子の腰に、米俵、ケツ、机による三方向からの力が同時に加わったのだ。
「ぎゃあ!!!」
「いたた、ごめんごめん。メル子、大丈夫? ん? メル子?」
黒乃はケツをさすりながらメル子の方を見た。メル子は床に四つん這いになり、生まれたての子鹿のようにプルプルと震えていた。
「どした、メル子? 悪かったよ。さあ、立ち上がって」
黒乃はメル子を抱え起こそうとした。
「触らないでください!!!!」
「うわ、ビックリした。声でかいよ」
「絶対に触らないでください!」
依然として床でプルプルするメル子。それを不審そうに見つめる黒乃。
「どしたのさ」
「ギックリ腰です……」
「え?」
「ギックリ腰です!!!」
黒乃は呆気に取られた。
「またまた〜、ロボットがギックリ腰になるわけないじゃん。面白いこと言うな、このメイドロボちゃんは」
「いいですか、ご主人様。よく聞いてください」
メル子は床に四つん這いになったままで、汗をダラダラとかいている。
「ロボットはギックリ腰になります!」
「ええ? どういう仕組み?」
「ハァハァ、物理学の世界に三体問題というものがあります」
三体問題とは、三つの天体がお互いの引力を受けて複雑な軌道を描く場合、その軌道を数学的に解くことができないというものである。この問題は二十二世紀現在でも解決していない。
「なんのこっちゃ、全然わからんな」
「三体問題と同じく、ロボット工学の世界にも似たような問題があります。それが『三ロボ問題』です!」
三ロボ問題とは、ロボットの関節に対して三方向から同時に力が加わった場合、二つの回転軸の組み合わせによって、残る一つの回転軸の動きが制限されてしまうという、いわゆる『ジンバルロック』状態になってしまうというものだ。
この三ロボ問題は、今現在でも数学的に解くことができない。ロボットにとって恐怖の象徴である。
「結局よくわからんけど、ロボットがギックリ腰になることはわかったよ」
「ハァハァ、わかっていただき、ありがとうございます」
「でもそこにいつまでもいても困るでしょ。布団に移動しよう」
黒乃はメル子の腰に手を回し持ち上げた。
「イダダダダ!!!!!」
「うわ、ごめん」
「腰が痛いと言っているのに! なぜ腰を触るのですか!」
「いやごめんて。そこまで痛いとは思わなくてさ」
黒乃はぽりぽりと指で頭をかいた。メル子の顔がナスのように青ざめている。
「ギックリ腰の痛さを知らないのですか!」
「うーん、ギックリ腰になったことないからなぁ」
「ギックリ腰は、金的の十倍の痛さです!」
腕を組み痛さを想像してみたが、ピンとこない。
「私、タマタマないから、そう言われてもわかんないよ」
「では、虫歯の一千倍の痛さです!」
「虫歯、一本もないし」
「なぜ無駄に健康優良児なのですか! イタタタ!」
叫びすぎて腰に響いたようだ。いまだに四つん這いの姿勢から動くことができない。
「てか、いまさらだけどさ、ロボットって痛み感じるんだね」
「当たり前です。ハァハァ、痛みはロボットが持つ人権の一つです」
「痛みが人権? どういうこと?」
新ロボット法によると、ロボットは五感とそれに類する感覚を持つ権利を有すると定められている。五感によって世界を正しく知覚することは、それすなわち生きることそのものである。何人もその権利を奪うことはできない。
「痛覚も感覚の一種ですので、それはあって当たり前なのです。ハァハァ」
「ふーん、不便だねぇ。じゃあ移動しようか」
再び黒乃はメル子の体を持ち上げようとした。
「ぎゃあ! イタタタタタ! なにをするのですか!」
「まだダメか」
「ハァハァ、今……今どさくさに紛れて、胸を触りましたね?」
四つん這いになることで、重力の影響をフルに受けた胸が、前後左右縦横無尽に動き回っている。
「え? なんのこと?」
「胸を触りましたよね!?」
「どこをよ」
「おっぱいですよ!」
「誰のおっぱいよ」
「メル子のおっぱいです!」
「どんなおっぱいを言ってるの?」
「メル子の大きなおっぱいです!」
「なにカップの?」
「メル子のIカップの大きなおっぱいを、いやらしい手つきで触りましたよね!?」
「触りましたとも」
「訴えますよ! イタタタ!」
黒乃はメル子の隣に仰向けになって寝転んだ。
「ご主人様? なにをしていますか?」
黒乃は仰向けになったまま床をずりずりと這い、四つん這いになったメル子の胸の下に頭を滑り込ませた。
「ぐへへ、絶景絶景」
「なにをしているのですか!?」
黒乃の顔のすぐ上で、Iカップの胸がゆらゆらと揺れている。メル子が少し動く度に、胸の先が黒乃の鼻をちょんちょんと掠めた。
「あー、このアトラクション楽し〜」
「ご主人様! いい加減にしないと怒りますよ!」
「えー? もうちょい……」
メル子は口から七十度のヒートブレスを吐いた。黒乃の顔面が熱風で炙られて、香ばしい匂いが部屋に立ち込めた。
「あぢぃぃぃい!」
黒乃は顔を押さえて床を転げ回った。
「なんてことするの!」
「こちらのセリフです! 早く助けてください!」
「助けろと言われても、どうすりゃいいのよ。触ることもできないんでしょ?」
「だから困っているのです!」
黒乃は床にあぐらをかき、どうしたものかと考えた。
「私がいくら考えても答え出そうにないから、ちょっとアン子呼んでこようか?」
「アン子さんを?」
「ロボット同士の方が話が通じやすいでしょ」
「まぁ、このまま考えていてもどうしようもありません。呼んできてください!」
黒乃は立ち上がった。ふと床を見ると米俵が転がっていた。
「この米俵邪魔だな。どかしておくか……」
黒乃は米俵を掴むと、勢いよく持ち上げようとした。
「はうっ!!」
カクーン。
黒乃はうめき声をあげると、床に手をつき四つん這いになった。生まれたての子鹿のようにプルプルと震えている。
「ご主人様? どうしました?」
「なんか……やっちゃったみたい……」
「なにをですか!?」
腰に走る激痛により、汗をダラダラとかいてピクリとも動くことができない。腰に焼けた棒を差し込まれたような激痛だ。
「これは確かに金的の十倍痛い……」
「タマタマはないと言いましたよね!? 二人でギックリ腰になって、どうするのですか!?」
ボロアパートの小汚い部屋に、二人の女が四つん這いになってプルプルと震えている。
「もう二人とも、一生このままかも。メル子、このまま私がお婆さんになっても、好きでいてくれるかい……」
「ご主人様! 諦めないでください! ご主人様!」
この後、二人は六時間ほど四つん這いでプルプル震えていたが、お菓子の差し入れにきてくれたアンテロッテによって救助された。




