第498話 ばあちゃんです!
十一月のボロアパートの小汚い部屋は、慌ただしさに包まれていた。朝、妹の鏡乃とルームメイトの朱華、そして娘である紅子を『特別合同課外授業』に送り出した。ロボヶ丘高校とロボヶ丘中学校で行われる特別な行事だ。隅田川の桟橋で水上バスに乗り、東京湾の真ん中まで走る。そのあと豪華客船に乗り換えるのだ。
若干の不安を三人に込めつつ、黒乃とメル子は別の対応に追われていた。
「大変だ〜、ばあちゃんが浅草にくるって!」
「はあ、お婆様が。お迎えいたしませんと」
「は〜、大変だ〜、やばいやばい〜」
「なにが大変で、なにがやばいのか、さっぱりわからないのですが」
黒乃がこれほどうろたえるのは珍しい。いつもは、床に寝転がってケツをかいているイメージしかない泰然自若とした黒乃だが、今日ばかりは違うようだ。黒乃は頭を抱えた。
「やばいやばいやばい」
「ひょっとして、すごく怖いお方なのでしょうか?」
「いや、世界一やさしいよ」
「では、とてつもなく破天荒なお方なのでしょうか?」
「いや、常識人だよ」
メル子は電子頭脳をクロックアップしたが、答えは得られなかった。
「では、なにを恐れているのですか?」
「ばあちゃんだからだよ!」
まったく要領を得ないので、メル子は考えるのをやめた。メイドロボとしておもてなしをするだけである。
——浅草駅。
銀座線、伊勢崎線、浅草線が乗り入れる下町観光の要。東京最大規模の観光地なだけあり、人の流れが途絶えることはない。
黒乃とメル子は地下の改札口にいた。
「ハァハァ、くるかな? まだかな? はぁ〜、やばいやばい」
「もう間もなくですよ。落ち着いてください。あ!」
エスカレーターを登ってくる人影を見て、メル子は一目で悟った。
「あの方ですね!」
「はわわ、はわわ、きた!」
間違えようもない。白髪まじりの黒髪にごんぶとおさげ、光り輝く丸メガネ、純白の白ティーに、老女にしてはずいぶんと高い背丈。黒ノ木家の一員に間違いなかった。老女は改札を通り抜けると、二人に気がついて手を振った。
「ばあちゃん!」
「お婆様!」
二人は老女に駆け寄った。近づいてみるとわかったが、背丈は黒乃ほどあるのにも関わらず、意外と小さく見えた。背中と腰が少し曲がっているからだ。丸メガネからのぞく目元には深い皺が刻まれ、首筋はなおさらである。
メル子は、黒乃がおばあさんになったらこうなるのかと納得した。
「クロちゃん、久しぶりねえ」
「黒枝ばあちゃん!」
黒乃は老女よりももっと腰を曲げて頭を差し出した。すると老女は何度も黒乃の頭を撫でた。
「大きくなったわねえ」
「えへへ、えへへ、昔からだよ」
「まあ、そう」
「メル子! この人が黒枝ばあちゃんね!」
メル子はトテトテと黒枝の前まで歩くと、渾身のカーテシーを炸裂させた。
「お婆様、初めまして。私が黒乃様のメイドロボ、メル子です」
「あらまあ、かわいらしいわねえ。あなたがメル子ちゃんね。お話は聞いているわよ」
「はい!」
メル子は黒枝の手を取ると、横に並んで歩き始めた。
「本日は私がお婆様のおもてなしをいたします。お楽しみくださいませ」
「うふふ、ありがとうねえ」
腕を組んで歩くメル子と黒枝の後ろを、黒乃は歩いた。階段を上り、地上へと飛び出した。十一月の冷たい空気が、メル子の金髪と黒枝のおさげを揺らした。
「お婆様、寒くはございませんか?」
「平気よ」
「ねえ、ばあちゃん。どうして急に浅草にこようと思ったのさ?」黒乃は聞いた。
「クロちゃん、ずっとがんばってるでしょ? 応援したくなっちゃったのよ」
「えへへ、そうなんだ」
三人は仲見世通りにたどり着いた。相変わらずの観光客の群れの中をのんびりと歩いた。
「どうしてこんなに人が多いのかしらね。お祭りかしら」
「お婆様、浅草はいつもこのような感じですよ」
「うふふ、知っているわよ〜」
「ばあちゃんは、けっこう浅草にきたことあるんだよね」
「そうなのですか!?」
「若いころね」
「今でもお若いですよ!」
「あらまあ」
仲見世通りの中程にさしかかると、フランス料理店『アン・ココット』から、金髪縦ロールのメイドロボが元気よく声をかけてきた。
「黒乃様ー! メル子さんー! 食べていってくださいましー!」
「アン子さん、今日は営業ですね!」
「そうでございますわー……なんか、黒乃様が年とっていますわー! ガビーンですのー!」
「こちらの方はご主人様のお婆様です」
「そっくりですわー!」
「あらまあ、きれいなお友達ねえ」
向いの和菓子店『筋肉本舗』から、そのやり取りを見た二メートルを超える巨大なメイドロボが現れた。
「黒乃のばあちゃん これ たべる」
「マッチョメイド! ありがとうございます!」
「あらまあ、今度はずいぶん大きなお友達なのねえ」
黒乃達は筋肉本舗のベンチに座り、マッチョメイドの団子を食べた。すると、巨大なグレーのもこもこことロボット猫のチャーリーが、メル子の膝に飛び乗ってきた。
「ニャー」
「なんだチャーリー。お前も団子食いたいのか?」
「あらまあ、かわいい猫ちゃんねえ」
黒枝はチャーリーの艶やかな毛皮を撫でた。初めはビクンと震えてイヤイヤしていたチャーリーであったが、どういうわけかすぐにおとなしくなり、黒枝の膝によじ登ってきた。そのまま丸まって寝てしまった。
「珍しいですね、チャーリーが心を許すなんて」
「えへえへ、さすがばあちゃん」
するとそこに、褐色肌の美女と、褐色肌のメイドロボが現れた。
「あ、マヒナとノエ子じゃん」
「やあ、黒乃山」
「こんにちは、メル子」
「マヒナさん! ノエ子さん!」
「あらまあ、またお友達かしら?」
マヒナは月の女王らしく、うやうやしくお辞儀をした。
「ご婦人。失礼ですが、黒乃山のお婆様でいらっしゃいますか?」
「はい、そうですよ」
「これはこれは、いつも黒乃山に助けてもらっております」
マヒナは片膝をつき、黒枝の片手を取ると、その甲にキスをした。
「あらまあ」
「それではごきげんよう」
二人は颯爽と去っていった。
「クロちゃん、お友達がたくさんできたのねえ」
「えへへ、うん。なんかできた」
「ちっちゃいころは、お友達いなかったのにねえ」
「えへへ、うん」
黒乃は頭を下げた。すると黒枝はその頭を何度も撫でた。
「でも、ばあちゃん言ってたでしょ。今はお友達いなくても、そのうちたくさんお友達ができるって、言ってたでしょ」
「言ったわねえ」
「だから、お友達いなくても全然平気だったよ。だって、ばあちゃんがそのうちたくさんお友達ができるって言ってたから、全然平気だったよ」
黒乃は古い記憶を思い出していた。幼いころ、祖母の膝の上に頭を乗せて撫でてもらっていた記憶だ。妹が少し大きくなると、その座は妹に持っていかれた。さらにその下の妹が大きくなると、また持っていかれた。大きくなると、祖母に撫でてもらえなくなるのかと寂しかったが、そんなことはなかったようだ。
「メル子がうちにきてからね、どんどんお友達が増えていったんだよ。すごいでしょ?」
「すごいわねえ」
夕方、黒枝はボロアパートの小汚い部屋にいた。黒枝は床に正座をし、その横で黒乃はあぐらをかいていた。メル子はもちろん、キッチンで調理中だ。
「ばあちゃん、今日はメル子がご馳走を作ってくれるからね」
「嬉しいわねえ」
「メル子の料理は世界一だからね。なんせ、世界一のメイドロボだから。すごいでしょ?」
「すごいわねえ」
そう言われてしまったら張り切らずにはいられない。メイドロボとして精一杯の料理を作った。
食事のあと、黒乃はひたすら祖母に甘えて過ごした。今までにやってきたことをすべて話した。
「あらまあ、月にいったの? すごいわねえ」
「すごいでしょ?」
「あらまあ、異世界で冒険してきたの? すごいわねえ」
「すごいでしょ?」
「あらまあ、お相撲の大会で優勝したの? すごいわねえ」
「すごいでしょ?」
黒乃の丸メガネから雫がこぼれた。祖母の膝は涙で濡れた。黒枝はその頭を何度も撫でた。
「クロちゃんはなんにもできない子だったのにねえ。でも絶対諦めないから、最後にはできちゃうのよねえ」
「うん。ばあちゃんがそのうちできるようになるって言うから。だから諦めたことない。そしたら、なんかできた」
「クロちゃんはすごいのねえ」
黒乃は話した。失敗したこと、成功したこと、仲間達との冒険、裏切り、破綻。祖母はそのすべてを肯定してくれた。
「あらまあ、クロちゃんはなんでもやっちゃうのねえ」
「うん、ばあちゃんがなんでもやってみろって言うから、なんでもやってみた」
「えらいのねえ」
黒枝は孫の頭を撫でた。孫は祖母の膝にしがみついた。
「あらまあ、浅草を壊滅させたの? すごいわねえ」
「う……う……そんなつもりじゃなかったのに。クロちゃんがなんかすると、とんでもないことが起こるみたい。う……ぐすん……なんでだろう」
「別にいいのよ」
「え?」
「クロちゃんがやりたいことをやればいいのよ」
「いいの?」
「いいのよ。だって、助けてくれるお友達がたくさんいるんでしょう?」
「うん、いるよ。なんか……みんな助けてくれるよ。なんでだろう?」
黒枝は微笑みかけた。
「みんなクロちゃんが好きなのよ」
「そうなの?」
「ばあちゃんもクロちゃんが大好きだもの。みんなも同じよ」
「うん」
「みんなが助けてくれるってことは、それは正しいことなのよ」
「うん」
「なんでもやってみてね」
「うん、ばあちゃん。なんでもやってみる」
メル子はその光景を横で眺めていた。子供のように甘えるご主人様。見たことがない光景だが、納得できる気がした。
黒乃の人格はこうやって育まれたのだ。陰気な幼い少女が、埋もれずに、潰されずに、燦然と輝いているのは、すべてを肯定してくれる存在がいたからなのだ。
破天荒で、考えなしで、やぶれかぶれで、ずる賢く、狡猾で貧乳。ケツもデカけりゃ態度もデカい。だが、みんながついてくるご主人様。最後にご主人様に必要なのは、一番近くで褒めてくれる存在だ。それは自分をおいて他にない。それは祖母に代わる最後の欠片。
その晩、黒乃は祖母といっしょの布団で寝た。子供のころと同じように。
——浅草駅の改札。
黒乃とメル子は並んで黒枝を見送っていた。
「ばあちゃん、元気でね!」
「また遊びにきてください!」
すると祖母は両手を伸ばした。二人は反射的に頭を下げた。
「二人も元気でね」
そう言いながら黒枝は二人の頭を撫でた。
「じいちゃんにもよろしく言っておいて。今度はこっちから会いにいくよ」
「おじいさん、会いたがるかしら。照れるかもしれないわね」
「えへへ」
「その時は、お婆様のすいとんをご馳走してください!」
「あらまあ、あんなものが食べたいのねえ」
黒枝は二人の頭から手を離した。黒乃が顔を上げると、その目を覗き込んできた。
「鏡乃を頼みますよ。あの子、一番危なっかしいから」
「うん、任せて。なにかあっても、絶対クロちゃんが助けにいくから」
「私もいますよ!」
黒枝は二人に微笑みかけると、改札の中に入っていった。二人は手を振った。エスカレーターに乗った祖母の白髪まじりのおさげが見えなくなっても、まだ手を振っていた。




