第48話 ラーメン大好きメル子さんです! その三
『間もなく〜、大井町〜、大井町です』
夕暮れの町にキィーというブレーキ音を響かせながら、車両がホームに滑り込んだ。電車は二十一世紀に取り残されてしまったと錯覚するほど、変化のない乗り物だ。
「いやー、相変わらず京浜東北線は小汚いね」
「そんなことを言ったら怒られますよ!」
地方分散化が進み、東京の人口は減ったといえど、サラリーマンの交通の主役はいまだ電車である。通勤ラッシュはごく一部の路線の、ごく一部の駅のみの現象となって久しい。もっとも、まさに大井町はそれである。
「ご主人様が電車なんて、珍しいですね」
「電車に乗るメイドロボの方が珍しいわい」
浅草駅から東京メトロに乗り、神田で京浜東北線に乗り換えてここまできた。その間、常にメル子は周囲の視線を集めまくっていた。
車両から降りてホームを歩くと、ビバルディの『春』が鳴り響いた。
「電車乗るの好きじゃないんだよね」
「人が多いからですか?」
「まあ、それもあるんだけど。他のサラリーマンと同じ目線で立ってるのが嫌なんだよ」
「背が高いですからね、そうなりますよ。なぜそれが嫌なのですか?」
「わからん」
「私もさっぱりわかりません」
東京都品川区大井町。
複数の路線が交差する古い町。青物横丁には昭和チックな街並みが広がっている。
駅の改札を出てすぐの路地に入った。幅二メートルもない薄暗い路地に、店がギッチリと詰まっていた。
「うわー、いかにも昭和という感じですね」
「ほら、そこの店。井之頭五郎が冷やし中華食べた後に、追加でタンメンを注文するという離れ技をかましたお店」
「冷やし中華の後にタンメンを!? 正気ですか。てか、井之頭五郎って誰ですか」
「ゴローちゃんは私が尊敬する人」
しかし、黒乃はその店を通り過ぎた。
「え!? 今日はこの店ではないのですか?」
「うん、見にきただけ。今日の本命は駅の反対側」
「もうこの路地怖いから、早くいきましょう!」
メル子は黒乃の背中に張り付いてグイグイと押した。
場所は変わって、大井町駅の西。住宅地に入っていった。
「ご主人様、今日の店はなんというラーメン屋なのですか?」
「今日いく店は『roboto ism』だよ。それとメル子。マスターの前で決してラーメンとは言ってはいけない」
「ラーメン屋なのに!?」
「創作麺料理屋である。マスターはイタリアン出身の料理ロボで、ラーメンと同じ扱いをされると怒る」
「めんどくさいっ!」
駅から少し離れただけだが、周囲には嘘のように人気がなく静かである。車が走り去る音だけが、自分の足音を掻き消した。
「そうだ、メル子。麺とピザ、どっちを食べたい?」
「今更ですか? それはラーメン……ではなく麺料理を食べにきたのですから、麺を食べたいですよ」
「私はピザが食べたいよ」
「ラーメン回なのにですか!?」
「回ってなんじゃ? 私はピザが食べたい」
「なんなのですか! わかりましたよ、ピザにしましょう」
「でも悪いよ。麺にしようか」
「どっちなのですか!」
黒乃は足を止めた。地面に設置されている看板の前に立つ。
「じゃあさ、麺とピザ、両方食べるってのはどう?」
「麺とピザを両方食べられるメニューなんてあるわけが……『ピザソバ』!? ご主人様! この看板に『ピザソバ』と書いてあります! なんですかこれ!?」
「ムフフ、これを食べにきたのだ」
メル子は看板から顔を上げると、そこには『roboto ism』と書かれた店があった。路地から奥まった場所に店があるので、気が付かなかったのだ。
「ひょっとして、今の無駄なやり取りは、ピザソバを食べるための前振りですか?」
「そうそう。さあ、店に入ろうか」
店の中は照明を落として大人の雰囲気を漂わせていた。かと思わせて、フィギュアが飾ってあるなど遊び心も満載だ。BGMにロックがかかり、マスターが厨房でリズミカルに調理をしている。
「ご主人様、イタリアンの香りがします! トマトの香りです! ラーメン感ゼロです!」
「そうだろうそうだろう。ここは創作麺料理屋だからね」
黒乃とメル子はカウンターに並んで座った。メニュー表を見ると、聞いたことのないメニューしか書かれていない。
「ピザソバ? ロッソ? カルボナーら? サマーソ肉? まったく意味がわかりませんよ」
「注文してみないと、なにが出てくるのかわからない。今日は大人しく、ピザソバにしておきなさい」
二人はピザソバを注文した。メル子はドキドキしながらマスターの調理を見ている。
「……」
「ご主人様? なにか今日は元気がありませんね。どうかしたのですか?」
「そう見えちゃったか。まあ、ちょっとね」
二人の前にピザソバが到着した。
「うわあ! すごい綺麗! 色が鮮やかで、クンクン、たまらない香りがします!」
丼の中には真っ赤でドロドロとしたトマトソースがたっぷりと入っており、その上に極太の中華麺が鎮座していた。さらにその上にはチーズ、カットトマト、オリーブの実、クレソン、サラミ、タマネギ、アンチョビなどの具材がこれでもかと盛られていた。
「なるほど、具がピザなのですね! まさに麺料理とピザの融合です」
「よーく混ぜてから食べるんだよ」
「はい!」
メル子は箸で丼の中身をかき混ぜた。するとトロトロのチーズとアツアツのソースが具と絡み合い、なんとも官能的なビジュアルに変化した。
「混ぜることでトマトソースの香りがたちのぼってきました! 我慢できません!」
メル子はソースをすくい、ひと舐めしてみた。
「これ、ソースが美味しいです。なんですかこのトマトソースは? 食べたことがない濃厚な味です!」
「さすがメル子。派手なビジュアルに騙されがちだが、ピザソバのメインはこのソース。ソースだけでご飯が三杯食える」
メル子は念入りに混ぜ合わせ、具とソースがよく絡んだ極太麺を啜った。
「んん!? ピザです! ピザの味がします! いや、待ってください。やはりピザではないです! ピザソバです! ピザソバとしか表現のしようがない料理になっています!」
「そのとおり。これは麺とピザを合体させただけの単純な料理ではないのだ。ピザソバという、完成された一つの料理になっているのだ。ほい、ニンニク」
黒乃はメル子の丼に刻みニンニクをたっぷり乗せた。
「勝手にニンニクを入れないでください!」
二人は夢中になってピザソバを啜った。
「ふぅふぅ。美味しかった」
「私も大満足です! ごちそうさまです!」
「なに言っているんだね、メル子くん。〆のリゾットが残っているのだよ」
「〆のリゾット!?」
黒乃はカウンターの上に丼を置き、リゾットを注文した。メル子もそれにならう。するとマスターが丼の中に、ライス、チーズ、トマトソース、半熟卵を投入した。
「ウヘヘヘ、きたきた、これよこれこれ」
「ご主人様はライス中毒者なのですか……」
再び丼をよくかき混ぜる。ライスとチーズとソースが絡まり、リゾット状態になっていく。そこで半熟卵を潰すと黄身が溢れ、赤と黄と白のトリコロールが生まれた。
「トロトロの食感で、優しく胃の中に入っていきますね。〆には最高です!」
二人は完食し、大満足で店を出た。
「すごく美味しかったです!」
「うんうん、よかった。あとなぜか、代金まけてくれた」
「他にもまだ謎のメニューがたくさんありましたよね。またきましょうよ!」
黒乃は店をじっと見つめた後、無言で歩き出した。メル子は少し離れて、その後を追いかけた。
「ご主人様? どうかしましたか?」
「実はこの店、今月で閉店するんだよ」
「え……そうなのですか……」
二人はすっかり暗くなった住宅地を歩いた。
「だから、これで食べ納めなんだよね」
「なぜ閉めてしまうのでしょうか」メル子はうつむいてつぶやいた。「あんなに美味しくて、お客さんもたくさんきているのに……」
「それはわからない。けど多分、マスターは新しいことにチャレンジしようとしてるんだと思う」
黒乃は公園に入り、ブランコに腰掛けた。メル子は隣のブランコに立って乗った。重みで鎖がキイキイときしんだ。
「あの店はもう十五年もやっているらしい。そのままずっと続けてもいいのかもしれないけど、マスターはあえて別のことをやろうとしてるんじゃないかな」
「ご主人様……」
メル子は黒乃の目をじっと見た。なにかを決意しているような目だ。
「ご主人様……ひょっとして、今の会社をやめて独立するつもりですか?」
「え?」
「え?」
ブランコのきしむ音が虚しく響く。
「いや、roboto ismのマスターを見習って、転職するのかなと」
「なんでよ? 今の会社の方が安定してていいでしょ。どうしてわざわざ転職なんていうリスクを冒さないといけないのさ」
「あ、はい。今の話は忘れてください」
メル子はブランコを思い切りこいだ。大きく前後に揺れるたびに、メイド服の袖が翻った。
「でも、それの方がご主人様っぽくて好きです」
「おお。ちゅきちゅき?」
「ちゅきちゅきです」
夜の公園でブランコをこぐメイドロボと、そのご主人様の姿は通行人の目にはどう映ったであろうか?
少なくとも、ご主人様の白ティーに刻まれている文字は、通行人にはしっかりと見えた。
『まけてください』と。