第460話 生ハムの原木です!
七月の夕日が差し込むボロアパートの小汚い部屋。黒乃は窓辺に腰掛け、愛しのメイドロボの帰りを待っていた。
「まだかなまだかな〜。かわいいメイドさんはまだかな〜」
今日はメル子の南米料理店『メル・コモ・エスタス』の営業日だ。いつもより帰りが遅いことを心配していた黒乃であったが、通りの向こうから赤い和風メイド服が見えた瞬間、安堵の息を漏らした。
「お、帰ってきた……ん?」
黒乃は目を擦った。メル子がなにかを背負っているのだ。重そうな足取りでボロアパートを目指すメイドロボ。
「んん?? なにか……なんだあれ!? うわあああああッ! メル子が棍棒を背負って浅草を練り歩いているッ!?」
そう、メイドロボの背中にあったのは、巨大な棍棒であった。汗だくで階段を上ってくるメル子を、玄関を開けて迎え入れた。
「ハァハァ。ただいま戻りました、ご主人様」
「どこかの集落を攻めにいくの!?」
メル子は背中の鈍器を床に下ろした。ドスンという音とともに、微かな香りが部屋に漂い始めた。
「なんなのこれ!?」
「ご主人様。これは原木です。九十センチメートル、十キログラムあります」
「やっぱり、武器じゃないか!」
「ククク」
「ワロてるぅ!? 戦場に赴く戦士のように!」
続けてメル子は、包みから金属製の刃物と木製の板を取り出した。
「剣と盾!? やっぱり、戦にいくきだ! 戦じゃ戦じゃ!」
「うるさいですね。これは『生ハムの原木』です。こちらは生ハムを切るナイフと、生ハムを乗せる台です」
「生ハム!? この棍棒が!?」
メル子は原木と呼ばれた物体を持ち上げると、テーブルの上に置き包みを解いた。
「キッチン五郎さんが、店で使うものを分けてくださったのですよ。これ一本で、下手をすると十万円以上します」
「十万!?」
黒乃は呆気に取られて、テーブルの上の鈍器を見つめた。艶かしく光を反射する飴色の肌に、細い持ち手、威力を高めるために重心を先端に寄せた形状。
「これは、『ハモン・セラーノ』というスペイン産の生ハムで、白豚の後ろ足です」
ハモンはハム、セラーノは山を指す。スペインの山岳地帯で盛んに作られており、厳しい管理の元、一年以上かけて熟成される。
黒乃は鈍器の握りの部分を見た。
「うわっ! うわっ! ほんとだ! これ、豚の足だ! 豚の蹄じゃん!」
「当然です。豚の足、まるまる一本ですので」
黒乃はあまりの巨大さに怯えた。これが生ハムだというのがイマイチ実感できない。
「これどうするのさ!? 食べるの!?」
「当たり前ですよ。今日から生ハムの原木がある暮らしが始まるのです!」
「ええ!?」
メル子は生ハム台に原木を置いた。平らな板の端に、固定をするための器具が付いている。原木の足首を器具にはめ、ネジを回してしっかりと固定をする。
「さあ、ご主人様。さっそくカットをしていきましょう」
メル子は剣を構えた。これはハモネロナイフと呼ばれる、原木をカットするための刃物だ。刃が長く、しなりがあるのが特徴だ。ハモネロとは原木を乗せる台座のことである。
メル子は足の付け根側に回り、ナイフを水平に構えた。
「なんかわからんけど、ドキドキしてきた!」
黒乃は足首側に回り、原木越しにメル子のIカップを眺めた。メル子はナイフを原木の上部に当て、ゆっくりと手前に引いた。すると飴色の皮が削ぎ落とされ、黄色い面が現れた。
「あれ!? 黄色い!? なにこれ!?」
「これは皮と赤身の間にある脂身です」
メル子は削ぎ落とした皮を皿の上に丁寧に並べた。
「へえ、皮も食べられるんだ?」
「いえ、この皮は『蓋』です。保存をする時に原木に被せます」
「蓋!?」
メル子は黄色い脂身をさらに削ぎ落とした。すると、今度は真っ白な脂身が姿を現した。
「うわ〜、きれいだな〜」
「この脂は食べられます。炒め物に使うとおいしいですよ」
「チャーハン作ってよ!」
さらにナイフを通すと、いよいよ赤身がその姿を現した。
「でたっ! うわっ! ピンク色だ! うひょー! テンション上がってきた!」
「よく熟成されています!」
メル子は細心の注意を払ってナイフを引いた。桃色の肉が、鰹節のようにスライスされていく。
「え? そんなに薄く切るの!? 向こうが透けて見えるじゃん!」
「生ハムは薄ければ薄いほどおいしいのですよ」
メル子は極薄の生ハムを黒乃の手の上に乗せた。室温により溶けた脂が、雪面のように細かく光を反射した。
「うわー! いただきます!」
黒乃は生ハムを一口で頬張った。その途端、鼻を通り抜けるナッツのような香り。舌に滑らかな脂が溶け出すと、徐々に塩味を感じてきた。赤身を歯で噛み締める。コクのあるうま味が、凝縮された滝のように喉を滑り落ちていった。
「うまい! すごい香りだ!」
「これは最高級のハモン・セラーノですね!」
二人は目を閉じてその余韻を楽しんだ。
「メル子! もう一切れちょうだい!」
「お安い御用です」
メル子はナイフを滑らせた。今度は先ほどよりも脂身が少ないカットだ。
「しかし、切るのがうまいね。まるでプロみたいだ」
「当たり前ですよ。私は『コルタドール』の資格を持っていますので」
「なにそれ!?」
コルタドールとは、生ハムをカットする職人の資格のことである。AI高校メイド科を卒業すると取得できるのだ。
「メイド科、しゅげー」
二人は夢中になって生ハムを貪った。
——夜。
小汚い部屋ではパーティーが開催されていた。
「オーホホホホ! お招きありがとうございますわー!」
「オーホホホホ! 最高級のおハムをいただけると聞いてきましたわー!」
「「オーホホホホ!」」
豪勢な料理の前で高笑いを炸裂させたのは、金髪縦ロール、シャルルペロードレスのお嬢様たちだ。
「すごい! 生ハムだ! すごい!」
「すごかー」
豪勢な料理を前に瞳を輝かせているのは、白ティー丸メガネの少女と、厚い唇が色っぽい少女だ。
「へんなにおい〜」
赤いサロペットスカートがかわいらしい少女は、いぶかしげな表情でテーブルの上の料理を眺めた。
「やあやあ、マリー、アン子。今日はたっぷりと生ハム料理を堪能していってよ」
「鏡乃ちゃん! 朱華ちゃん! 紅子ちゃん! 遠慮せずに食べてくださいね!」
「「いたーだきーます!」」
皆いっせいに料理に手を伸ばした。
「このおサラダはなんですのー!?」
「それは生ハムとベビーリーフのサラダです! 生ハムの風味を活かすために、あえて具はベビーリーフだけに絞りました! エクストラバージンオリーブオイルをかけてどうぞ!」
「生ハムの塩気で、オイルだけでおサラダになっていますのー!」
アンテロッテが手を伸ばしたのは、串だ。
「この串はなんですのー!?」
「生ハムとトマトときゅうりのピンチョスです! バジルソースにつけてお召し上がりください!」
「生ハムの風味とトマトの酸味のおかげで、きゅうりが主役級に引き立てられていますわー!」
鏡乃がひょいひょい口に放り込んでいるのは、かわいらしい巻物だ。
「もぐもぐ、おいしい! メル子! これなに!?」
「二種のチーズの生ハム巻きです! まず生ハムでモッツァレラチーズを巻き、さらにスライスチーズを上から巻きます!」
「もぐもぐ、チーズと生ハムの相性がバツグン!」
朱華はシウマイのようなものをしげしげと眺めていた。
「メル子さん、これなんやろ?」
「生ハムのマッシュポテト包みです! マヨネーズ多めのマッシュポテトを、生ハムで包みました!」
「うまかー。やっぱり、生ハムにはマヨやね」
紅子は薄切りのバゲットを持ってプルプルと震えていた。
「メル子〜、これなに〜」
「生ハムのブルスケッタです! バゲットにオリーブオイルをかけてカリカリに焼き、クリームチーズと生ハムを乗せました!」
紅子は恐る恐る上に乗った生ハムを一口齧った。
「ぶぇ」その途端、ゲロゲロと吐き出してしまった。
「ああ! 大丈夫ですか、紅子ちゃん!」メル子は慌てて介抱した。
「これ〜、くさい〜」
「あらら、子供にはまだ早かったかな」
黒乃は生ハムの匂いを嗅いだ。熟成された生ハムには独特の臭みがあり、ナッツのような香りや、乳酸菌のような香りを強く感じる。一般にスーパーで売っているような国産の生ハムにはない香りなので、初めての人は戸惑うかもしれない。人によっては獣臭いと感じ、食べるのに努力が必要な場合もあるだろう。
しかし、それを含めてのハモン・セラーノなのだ。食べられるか心配な人は、薄切りにされたものがパッケージングされて売っているので、原木を買う前に確認をするのがよいであろう。
「紅子ちゃん、大丈夫ですよ! 癖のないロボレスハムもあるので、こちらにしましょう!」
「こっちなら、たべられる〜」
紅子は喜んでブルスケッタに齧り付いた。生ハムの饗宴は夜遅くまで続いた。
——翌朝。
黒乃が目を覚ますと、メル子がナイフを持って原木を削っていた。
「おはよう」
「おはようございます、ご主人様」
「朝食も生ハムかい?」
「もちろんですよ。原木は三ヶ月をめどに食べ切るのがいいですから」
黒乃は生ハムから漂う香りを吸い込んだ。
「なんだろう、すごくテンションが上がるな。不思議!」
「これが原木の効果です。原木と暮らすということはこういうことです」
——ゲームスタジオ・クロノス事務所。
「みんな、おはよう!」
「シャチョー! オハヨウゴザイ……ナンデスか、ソレは!?」
「……クロ社長、なに背負ってるの?」
「先輩、カチコミですか?」
社員が驚くのも無理はない。社長が巨大な鈍器を背負ってやってきたのだ。
「ははは、これね、生ハムの原木。お昼にみんなで食べよう」
黒乃は背中を見せた。その武骨な塊は、皆に労働意欲という名の脂を注ぎ込んだ。
——夜。
黒乃はハモネロナイフを構えていた。
「えへへ、ご主人様? 生ハムをご所望で?」
「えへへ、もちろんだよ。たくさんカットするからさ、たくさんパスタに乗せてよ」
黒乃は恍惚の表情で原木をカットした。あえて分厚くカットし、噛みごたえを出す作戦だ。
「えへへ、脂身もカットしたから、これでニンニクをフリージェレしてよ」
「えへへ、オカピートォ」
二人は生ハムが山のように乗ったペペロンチーノを、獣のように貪った。
——翌日の事務所。
「先輩、この件はどうしましょう。先輩?」
「ええ? ああ、うん。適当にやって」
「……クロ社長、3Dモデル作れた。ねえ、クロ社長?」
「ええ? ああ、そう。よかったね」
「シャチョー!? 朝からどうしまシタ!?」
「ええ? いや、原木にカバーを被せて家を出たかどうか、気になっちゃってさ」
原木は日々の管理が大事である。温度管理、湿度管理、断面にはオイルを塗って乾燥を防がなくてはならない。
「ちょっと家に帰って確認してくるわ」
「先輩!?」
「シャチョー!?」
「……あとにして」
——夕方。
「メル子、早く帰ろう!」
「はい! 原木が心配で仕方がありません!」
ご主人様とメイドロボは浅草の町を足早に歩いた。小汚い部屋の扉を開けるとたちまち漏れ出す香りに、安堵の表情で応えた。
「あ〜、これこれ。この香りよ」
「えへへ、これがないと落ち着きませんよね」
——深夜。
「くっくっくっく」
黒乃は薄暗い灯りの下、ナイフを持って原木を削っていた。
「ご主人様、ケチケチしないでもっと削ってくださいよ」
「まかせろい」
——朝。
「えへへ、メル子〜、なんかニキビが増えてない?」
「うふふ、そういうご主人様こそ、お顔がむくんでいるようですが」
二人は今日も原木を削る。彫刻家のように、木こりのように。
読者諸君。これが生ハムの原木と暮らすということなのだ。生ハムの魅力に取り憑かれ、生ハムに魔力を吸い取られ、生活の中心が原木になっていく。
我々は生ハムを飼うのではない。生ハムの奴隷となるのだ。その覚悟があるものだけ、生ハムの原木を買いなさい。




