第46話 プロジェクト・ヘイル・メル子 その三
暗がりの中、黒乃とメル子はボロアパートの扉を開けて、部屋の中に転がり込んだ。ドサっという音を立てて床に倒れ込む。
「くあー、もう一歩も歩けない」
ニコラ・テス乱太郎が作ったゴキブリロボによって、ご主人様設定を書き換えられてしまったメル子とアンテロッテ。二人を直すために、富士山にいるというトーマス・エジ宗次郎の元へ向かったのであった。
初めての登山(しかも富士山)で足が破裂しそうだ。よく登り切ったと自分でも思うが、メル子のためにと気力を振り絞った。
「ご主人様、大丈夫ですか? でもさすがに私も疲れましたよ」
黒乃に続いて、メル子もヨロヨロと部屋に入ってきた。自慢の和風メイド服もヨレヨレだ。
「アイザック・アシモ風太郎先生も、バスでボロアパートまで送ってくれてもいいのにさ」
「あれだけ協力してくださったのに、そんなことを言ったらバチが当たりますよ」
「わかってるよ、わかってる。感謝してます。それにしても腹減った! メル子、なんか作って〜」
メル子は冷蔵庫を開けたが、まともなものはなにも入っていなかった。毎日新鮮な食材でご主人様に料理を作ることをモットーにしているため、買い置きはさほどしていないのだ。
「なにもないですね。小麦粉とゴマ油とネギしかないです」
「まじで? じゃあ、ローピン作って」
「なんですかそれは? 下の畑でなにか採ってくるので、お待ちください」
メル子は駐車場に下りていった。そこには以前からメル子がプランターで作っている家庭菜園があるのだ。暗い中、目から光を出しながら野菜を収穫した。
大事そうに野菜を抱えて部屋に戻ってきた。手に持っていたのは、泥に塗れたキュウリである。
「え? キュウリ食べるの?」
「これしか育っていないのですから、しょうがないでしょう。アンデスキュウリは半月で収穫できるのです」
メル子は流しでキュウリをザブザブと洗った。ツヤツヤとした肌のキュウリが光を反射している。キュウリを皿に乗せ、マヨネーズと味噌を添えた。
「うーむ、まさかキュウリまるかじりとは」
黒乃はキュウリの先に味噌をつけてかじりついた。パキンと音を立ててキュウリが裂けた。
「モグモグ、悔しいけどうまい。瑞々しくて香りがスーッと鼻を抜けるな」
マヨネーズをつけてかじる。マヨの酸味がアクセントになり、そのまますべて胃の中に落ちていった。
「でもさ、キュウリって栄養ないんでしょ? これだけじゃ寂しいよ〜」
「なにを言っているのですか。キュウリは栄養豊富ですよ」
「え? でもテレビで世界一栄養がない野菜として、ギネスに登録されてるって言ってたけど」
黒乃はテレビの言うことをそのまま信じてしまうたちのようだ。メル子は後ろを向いてなにかをぐいぐいとこねている。
「ギネス登録されているのは、世界一『カロリー』が少ない野菜としてです。カリウム、マグネシウム、ビタミンC、ビタミンKは豊富に含まれています」
「ほえー、知らんかったー。キュウリさんありがとう!」
黒乃はバリバリとキュウリを胃に流し込んでいった。青虫になった気分だ。
「で? どうだったの?」
「なにがですか?」
「マリーとはどうだったの?」
「マリーちゃんがご主人様だった間のことですか?」
「マリー『ちゃん』? ちゃんて!? なんでそんな親密になってるのよ」
黒乃はキュウリをかじりながらメル子の話に食いついた。
「マリーちゃんはいい子でしたよ。でも甘えんぼさんでしたね」
「ほう? 話を聞かせてもらおうか。でも甘えんぼさんで私に勝てると思うなよ!!」
黒乃が興奮するので、机がガタガタと揺れた。メル子はなにかをオーブンに入れると椅子に座った。
「なんの勝負なのですか。マリーちゃんはお嬢様なので、身の回りの世話は全部私がしましたね。あまり自分では動きません」
「ケッ、羨ましいねえ、お嬢様は」
黒乃は横を向いて座り、足を組んだ。
「ご飯はあーんして食べさせましたし、歯も私が磨いてあげました」
「それ、お嬢様じゃなくて赤様だろ!」
「それからお風呂は一緒に入りましたね」
「なんだと!!!!?」
黒乃は衝撃のあまり椅子から転げ落ちた。口に咥えていたキュウリが喉に詰まり咳き込んだ。メル子は紅茶を淹れ、黒乃を落ち着かせた。
「マリーと一緒にお風呂入ったの?」
「入りました」
「なんで!!!!!??」
「うるさっ。アン子さんと毎日一緒に入っているということでしたので」
「私とは一緒に入ってくれないじゃん!」
「いや、ご主人様は大人なのですから、一緒に入る必要はないでしょう」
「チクショー!」
黒乃の顔がナスのように青ざめてきている。
「で? どこから洗ったの?」
「これ、事情聴取始まっていますか? 腋の下から始まって、足の指の間まで洗いましたよ」
「はん! 私だったらケツの穴まで洗ってもらうね!」
「それは自分で勝手に洗ってください」
黒乃はプルプルと震えながらティーカップを手に取った。紅茶の水面が波打っている。
「そういうご主人様はどうなのですか? アン子さんとは一緒にお風呂に入ったのですか?」
「一緒に入ったよ! アン子にケツの穴洗ってもらったし、私はアン子の下乳をスポンジで磨いたよ!」
メル子はじーっと黒乃を見つめた。黒乃は視線に耐えられなくなり目を背けた。
「あーそうだよ、入ってないよ! ここで入ったら裏切りかと思って我慢したよ! ストッキングの匂いは嗅いだけど!」
メル子はふぅと息を漏らした。
「悔しい〜! マリーの鼻の穴に唐辛子突っ込みたい」
「ご主人様、マリーちゃんは子供ですよ。まだ甘えたい年頃なのです」
「私なんて今でも甘えたい年頃だからね!」
なにやらいい香りが部屋に立ちこめた。メル子はオーブンから皿を取り出し、トングでつまむと黒乃の皿に乗せた。
「はい、スコーンです。生地を発酵させる時間がなかったので、あまり膨らんでいませんが」
スコーンはスコットランドのお菓子で、小麦粉、塩、砂糖、バターで簡単に作れる。
「モチモチしてて甘くてうまい。素朴な味だなあ」
「落ち着きましたか?」
「うん。それで夜はどうしたの?」
「一緒のベッドで寝ましたよ」
「チクショーーーー!!!!!」
黒乃はスコーンを撒き散らしながら叫んだ。ナスのように青かった顔が、トマトのように赤くなっている。
「私とアン子は別の布団で寝たのに!」
「下の部屋には大きなベッドが一つしかないのですから、仕方がないでしょう」
「ハァハァ、そうかそれは仕方がないな」
「マリーちゃん、ずっと私を抱きしめて寝ていましたよ。可愛かったです」
「身体中の毛を剃り尽くしてくれようか!!!!!!」
黒乃は手に持っていたキュウリを握りつぶした。キュウリの破片が紅茶にドボンと落ちた。
「落ち着いてください。マリーちゃんはまだ子供なのですから。母親が恋しいのですよ」
「ハァハァ、これもう寝取られだよ。中学生にメイドロボを寝取られたよ!」
黒乃はキュウリ入りの紅茶をグイッと飲み干した。
「ボェッ、マズッ。なにこれ……」
「そういえばマリーちゃん、寝ながら私のおっぱいをずっとしゃぶっていましたね。赤ちゃんみたいで可愛かったです」
「%#¥$♪→○÷<々〆」
黒乃は衝撃と疲労とキュウリのあまり、ぶっ倒れてそのまま朝まで目を覚まさなかった。
こうしてメル子を助けるための作戦『プロジェクト・ヘイル・メル子』は幕を閉じたのだった。