第455話 ラーメン大好きメル子さんです! その十三
六月の日差しが照りつける中、黒乃とメル子は必死に大通りを歩いていた。
「暑い……熱い……」
吹き出た汗が白ティーに染み込み、体に張り付いた。裾を掴み、左右に振って風を送り込んだ。
「ご主人様! はしたないですよ! ご主人様も一応乙女なのですから、恥じらいを持っていただかないと」
「恥じらいなど、この暑さで溶けて消えた……」
二人が歩いているのは、秋葉原への道である。完全に舗装されたアスファルト、横を通り過ぎる車の群れ、風を遮るビル群。なにもかもが……暑い。
「都会はこれだからなあ」
「しかし、五十分もかけてわざわざ歩こうと言ったのは、ご主人様ではないですか。今日はどのようなラーメンを食べるのですか?」
黒乃は突然体をクネクネさせ始めた。
「今日食べるのは〜京都ラーメンどすえ〜」
「京都ラーメン!? だれの真似ですか!?」
二人がやってきたのは秋葉原駅の北東、首都高の沿いの通りだ。
「ふぅふぅ、いつもはうっとおしいだけの首都高も、夏の間は頼もしい傘になりますえ〜」
「この暑い中、京都ラーメンとは楽しみです! きっと京都らしい、あっさりとしたお味なのでしょうね! しかし、なんでしょうか、あのラー油がどうとかいうお蕎麦屋さんは」
「ああ、あれは関係ない」
小さなビルが立ち並ぶ細い道の一角にその店はあった。派手めの赤い看板、竜があしらわれたガラス窓、黒い塗装の壁。そして、店から伸びる行列。
「ここですか。『ロボ福菜館』ですね! 京っぽさはまったく感じませんが!」
「ふふふ、確かに」
黒乃とメル子は炎天下の中、列に並んだ。食券機でチケットを購入し、テーブル席に着いた。店内は黒を基調とした作りで、シックな雰囲気を匂わせていた。
「やはり、店内も京っぽさはないですね」
「京にこだわるね……ん?」
すると、黒乃のテーブルの隣に白髪を結い上げた黒いセーラー服の美少女が腰を下ろした。
「うわー、メル子見てよ。すごいべっぴんさんの女子高生がいるよ。京都っぽいよ!」
「ご主人様! 学生さんをジロジロ見たら、逮捕されますよ!」
「ヒェッ」
「中華そば、お待たせいたしました!」
いよいよ店員ロボが、黒乃達のテーブルに丼を持ってやってきた。
「きました! きました! どのようなラーメンなのでしょうか!? 淡麗な透き通ったスープでしょうか!? お吸い物のような出汁主体のスープでしょうか!? ……って、ええ!?」
メル子は目の前の丼を見て仰天した。
「黒い!? スープが真っ黒です!」
丼の上には山盛りの輪切りネギとモヤシ。その下には幅広のチャーシュー。その下から覗くスープは、宇宙のように真っ黒だ。
「京都なのにスープが黒い!? 特濃醤油スープです! なんですかこれは!? どこが京都ですか!? 京都らしさゼロ! 店長! 出てきてください、店長!」
「こらこら、落ち着きなさい」
肩で息をするメル子にコップを差し出す黒乃。メル子はそれを受け取ると、一口含んだ。
「ハァハァ、ご主人様、これが京都ラーメンですか」
「そうそう。実は京都のラーメンは、まったく京都っぽくないのだ」
京都のラーメンは三種類に大別される。
新福菜館を発祥とする特濃醤油ラーメン。魁力屋で有名な背脂ラーメン。天下一品に代表される鶏白湯ラーメンだ。
この三種類に共通する部分はあまりなく、それぞれが独自の色を持っている。しいて言うなら、濃いスープだろうか。つまり京都ラーメンとは、京都という伝統の町の中で、型に囚われずに進化してきたラーメン群なのだ。
「なるほど、わかりました、ハァハァ。常識に囚われていたのは私でした」
「では、いただこうか」
「はい!」
「「いたーだきーます!」」
まずはチャーシューの隙間を縫うようにしてレンゲを丼に差し込み、真っ黒なスープをすくい上げた。
「うわー、宇宙のように黒いです。細かい脂が、星のように輝いています。ズズズ」
二人は漆黒の液体をすすった。
「んん! 濃いーです! 見た目のとおりの濃さです! キリッとした醤油のキレ! しかし脂っこくはないのです!」
「うーん、京都の老舗醤油製造所『五光醤油』の熟成濃口醤油に、豚の旨味が加わったインパクトのある味わい。このスープがもう、メインディッシュ級の豪華さだよ」
そして箸で麺を持ち上げた。真っ暗な宇宙の深淵から現れた純白の麺は、まさに天の川だ。
「きれいです! 中太のストレート麺がスープとの対比で真っ白に見えます!」
「ズズズ。あ〜、この濃いスープに負けない京都は近藤製麺の力強い麺。慎ましい見た目とは裏腹に、芯の通った頼もしいやつだよ」
麺によってスープが持ち上げられ、すすることによって空気といっしょに舌に飛び込んでくる。空気を存分に含んだスープは、口の中で醤油の香りを爆発させ、鼻を爆撃した。
「くぅ〜、なんだこれは。すすればすするほど香りが増してくる! ますますすすりたくなる!」
「電子頭脳にガツンと響く香りに、ワクワクが止まりません!」
二人は夢中でスープをすすった。
「ご主人様! このおネギがすごくおいしいです! なんですか、このおネギは!?」
「これはね、九条ネギね」
九条ネギは京都の伝統野菜だ。青い部分が多いいわゆる葉ネギの一種で、ネギ特有の臭みがなく、甘味が強いことから、ラーメンに大量に乗せるのに適している。
「九条ネギ、うまっ! もうネギだけかじりたいうまさ。これを濃いスープといっしょに口に入れたら……ズズズ。たまらん!」
「白いモヤシと白い麺、緑の九条ネギに、漆黒のスープ! 雅です! 風雅です!」
ご主人様とメイドロボは麺をすすり、スープを飲んだ。大判のチャーシューは宇宙に花開く銀河だ。丼という丸い世界は胃袋というブラックホールに飲み込まれ、事象の地平面へと消え去った。
「ご主人様……ここは京です。しっかりと京を感じました……」
「ふいー、ごちそうさまでしたどすえ〜」
その時、二人の鼻腔が抹茶の香りを捉えた。
「ん? なんだこの抹茶ラテの香りは?」
その香りの発生源を辿ると、隣の席の女子高生が、桜吹雪の扇子を扇いでいたのだった。
「まったく、鏡乃はんは暑苦しおしてかなわしまへんな〜」
「え!? 鏡乃のお知り合い?」
「ロボヶ丘高校の生徒さんでしょうか?」
その言葉に、女子高生は動きを止めた。そして扇子をパチンと閉じると言った。
「鏡乃はんと違うんどすか? ああ、わかった。あんたが噂の黒乃はんどすなぁ」
結い上げた長い白髪、漆黒のセーラー服、切れ長の目。そして漂う抹茶の香り。メル子はあることに思い至った。
「ご主人様! この子が茶道部の部長の茶鈴ちゃんですよ!」
「ああ! 鏡乃を相撲でぶん投げたっていう(446話参照)」
この女子高生は茶柱茶鈴。通称茶々様。浅草市立ロボヶ丘高校の三年生であり、茶道部の部長だ。
「あ、えへえへ、鏡乃がお世話になっています。えへえへ」
黒乃はヘコヘコと頭を下げた。
「美人に弱い!」
「こちらこそ、鏡乃はんには楽しましてもろうてます。そやけど、そっくりで間違えてもうたな〜」
その言葉に、黒乃はきょとんと丸メガネを傾けた。
「え? そんなに似てる?」
「え?」
「え?」
茶々様は扇子を開くと、自分の首筋を扇いだ。
「それにしてもお二人はん、京ラーメンの真髄がわかってへんようどすなぁ」
「真髄?」
「どういうことですか?」
すると、店員ロボが茶々様のテーブルに皿を運んできた。
「きたわぁ。ここではこれ食べへんことには、はじまらしまへん」
「ええ!?」
「なにこれ!? 黒い!?」
それは黒いチャーハンであった。皿に半球形に盛られたそれは、艶かしく光り輝いていた。
「まるで、利休はんが作った黒楽茶碗のようどすなぁ」
「ちょっと、なにを言っているのかわからないな」
「こら、この店の大名物『ヤキメシ』どす」
茶々様は茶杓で抹茶をすくうように、レンゲで黒い半球を削り取った。そして三口に分け、ゆっくりと味わいながら飲み込んだ。
「子供のころから変わらへん味どすなぁ。京を思い出しますえ」
「茶鈴ちゃんは、京生まれなのですか?」
「もちろんどすえ」
茶々様はヤキメシを食べ進めた。まるで茶を点てるかのような優雅な動作に、黒乃とメル子はうっとりと見入った。
特製醤油ダレで味付けをされた米は、チャーハンというよりヤキメシと呼ぶに相応しく、あえて具を抑えめにすることで醤油の香ばしさと米の甘さを際立たせていた。
「余計なものを省くことで、ほんまに見したいものを際立たす。利休はん好みのヤキメシやわぁ」
茶々様の所作により、黒を基調とした店内がまるで千利休が作った茶室『待庵』のような侘びた雰囲気を醸してきた。
「ほえ〜」
「はえ〜」
茶々様はヤキメシを米粒一つ残さず平らげた。皿を二回回し、そっとレンゲを添えた。
「けっこうなお手前で」
黒乃とメル子は炎天下の秋葉原を、浅草目指して歩いていた。
「メル子はん」
「なんではりましょ、ご主人様」
「なんか……すごい子どしたね」
「どすね……」
黒乃は思った。鏡乃が戦おうとしている相手の大きさを。鏡乃は茶々様率いる茶道部を倒して、相撲部を復活させなくてはならないのだ。
メル子は思った。猛烈に抹茶が飲みたいと。
「メル子はん」
「なんではりましょ、ご主人様」
「ロボーバックスで、抹茶ラテ飲んで帰りまひょか!」
「よかどすな!」
二人は汗まみれの手を繋いでロボーバックスに飛び込んだ。




