第373話 ラーメン大好きメル子さんです! その十一
「ご主人様、大丈夫でしょうか?」
白いメイド服を着たメイドロボは、自分の帯を握りしめて歩くご主人様を肩越しに心配した。ご主人様はメイドロボに先導されてフラフラと歩いた。行き交う人の群れを、右へ左へかき分けて進んでいく。
ここは池袋駅構内の地下通路だ。タイル張りの殺風景な通路をひたすら歩く、歩く、歩く。
「人ごみは浅草で慣れていると思ったけど、池袋駅はぜんぜん違うなあ……」
「人々の顔が違いますね」
池袋の利用者数は新宿に次いで世界第二位。圧倒的な数が広大な駅構内を蟻の行列のように這い回る。深い地の底から真昼の陽射しが照りつける地上に抜けた時には、黒乃の顔はすっかりと青ざめていた。
「ふぅふぅ、浅草の町って基本みんな笑顔で歩いているんだけど、池袋はみんな怒ってるような顔をしているよね」
「それは言いすぎだとは思いますが、言わんとしていることはわかります」
——池袋。
東京都豊島区に存在する日本屈指の繁華街。百貨店、家電量販店が軒を連ね、飲食店は星の数ほど。東にはサンシャイン60がそびえ立ち、駅というポンプから押し出された観光客やサラリーマンを、巨大ビルに向けて輸送している。
とにかく人、人。無機質なコンクリートブロックの中に詰め込まれた人々こそが、池袋の本質だ。
「そんな池袋になにをしにきたのでしょうか?」
「ふぅふぅ、もちろんラーメンを食べにきたんだよ。『油そば』をね」
「油そば!? なんですか、その体に悪そうな、ボディに良さそうなお料理は!?」
油そばは、二十世紀に東京都武蔵野市にて創業された『珍々亭』が発祥とされる麺料理である。
「珍々亭!?」
「そ、珍々亭」
「では今日はその珍々亭にいくのですか!?」
「いや、珍々亭は武蔵野で遠いから、いかないよ」
「せっかくですから、元祖の珍々亭にいけばよいではないですか」
「いやだって、珍々は遠いもんよ」
「中央線に乗れば、珍々まですぐではないですか」
「ご主人様、珍々嫌いだもん。あ、違った、中央線嫌いだもん」
珍々議論を繰り広げながら、二人は歩いた。道をいく人々は目を丸くして白ティーのお姉さんとメイドロボを振り返った。
池袋西口を出てすぐ、西一番街の入り口にその店はあった。
「『東京ロボ組総本店』、ここですね。ずいぶんド派手なお店ですね」
「確かに」
真昼にもかかわらず煌々と光り輝く『油』のネオン。ガラス張りの向こうにはコの字型のカウンター。座席はすべて埋まっており、必死にそばをかっこむ客達の頼もしい背中が見えた。
黒乃とメル子は店内に入った。
「ハイテク食券制ですね」
「うん、メニューは油そばと辛味噌油そばのみ」
「シンプルですねえ。では基本の油そばにいたします」
メル子は券売機の『油そば並』のボタンに指を伸ばした。しかし黒乃はその手をペチンとはたいた。
「ミァー! 痛い! なにをしますか!?」
「並じゃだめだよ。Wをいきなさい」
「ええ!? 二倍の量ではないですか。そんなに食べられませんよ」
黒乃はニヤリと笑った。問答無用でWのボタンを二回押した。
「大丈夫、油そばはその名に反して意外とするりと食べられてしまうのだ。それにWでも値段は同じなんだよ」
「ふとっぱら! それにトッピングも色々ありますね」
次の瞬間、黒乃は券売機のボタンを乱れ打ちした。
「ご主人様!? なにをしていますか!?」
次々と吐き出される食券の数々。メル子はその枚数に度肝を抜かれた。
「油そばはトッピングが命。恐れてはならぬ」
「やりすぎでしょう」
壁際の丸椅子に座り数分もすると座席が空いた。店員に促されカウンターに並んで座った。
「ご主人様、いまだに油そばがどんなお料理なのかがわからないのですが……」
「では説明しよう。油そばとは汁なし麺の一種なのさ」
通常のラーメンはスープの中に麺が浸かった状態で提供される。しかし油そばは、スープの代わりにタレが入っているのだ。そこにラー油やお酢などの各種調味料をかけ、よく混ぜてからいただく。
「なるほど、スープの代わりにタレが入っているのですね……あ、きましたよ!」
「おー、きたきた」
二人の前に黒い丼が置かれた。中にはたっぷりの麺。その上には刻みネギ、メンマ、チャーシュー、海苔が添えられていた。麺からは湯気が勇ましく立ち昇っている。
「わー、これが油そば……」
メル子は丼を覗き込んで仰天した。思わず立ち上がって叫んだ。
「って、なんですかこれは!? 麺と具だけです! 肝心の油がどこにもありません! これでは油そばではなくて、単なるそばではないですか! どういうことですか!? 店長! 出てきてください、店長!」
「こらこら、落ち着きなさい。ちゃんとタレが丼の底にあるから」
黒乃はメル子の肩に手を乗せて椅子に座らせた。肩で息をするメイドロボ。
「ハァハァ、そういうことですか。麺で隠れているだけなのですね。ハァハァ」
メル子は箸を丼の奥まで差し込み、麺を持ち上げた。すると、とろみのあるタレが麺に絡みついているのが見えた。
「さあ、すすってみて」
「はい!」
メル子はタレを纏い光り輝く中太麺をすすった。それは口当たりがよく、するすると喉に吸い込まれていった。
「んん!? 美味しい! キレのある香り高い醤油タレと、甘味のある油の相性が完璧です! しかしあれ? 油そばという名前ほど油っぽくはないですね。むしろ爽やかさまで感じます」
「でしょう? 実はここの油そばは普通のラーメンに比べてカロリーも塩分も少ないんだよ」
「ではいくらでも食べられますね!」
メル子は箸で麺を持ち上げようとした。しかし黒乃がすかさずそれを制した。
「待ちなさい。ここから油そばの本領が発揮されるのさ」
「どういうことですか?」
「言ったでしょ。油そばはトッピングが命。トッピングで味変をしながら食べるものなんだよ」
黒乃は卓上の赤いボトルを鷲掴みにすると、赤い液体を丼に回しかけた。
「それはなんです?」
「うふふ、ラー油」
「ラー油をそんなにかけて大丈夫なのですか!?」
黒乃はラー油まみれの麺をすすった。コクのある油分と辛みが舌を襲った。
「くぅ〜! これこれ。これが油そば。ほい、メル子もかけてかけて」
「はい!」
メル子も真似をしてラー油を回しかける。麺がみるみるうちに赤く染まっていった。
「これは癖になる辛さです。あくまでピリ辛で、いくらでも入っていきそうです」
「ふふふ、じゃあ次はこれ」
黒乃は白いボトルを掴んで回しかけた。
「今度はなんです?」
「お酢」
「ラーメンにお酢!?」
二人はラー油とお酢まみれの麺をすすった。さっきまでのコッテリ感が消え失せ、爽やかさが口の中に広がった。
「あ〜、これはいいですね。口の中がリセットされました」
「そうでしょう。じゃあ次はこれ」
黒乃は卓上の缶の中からレンゲでなにかを山盛りすくい、メル子の丼の中にぶちまけた。
「ぎゃあ! なにを入れましたか!?」
「刻みタマネギ」
「こんなに入れたら辛くて食べられませんよ!」
タマネギまみれの麺を恐る恐る口の中に運ぶ。しかしそれは意外なほどの爽やかさをもって喉を通り抜けた。
「辛くないです。むしろ全体の味がまとまりました。シャキシャキとした食感がたまりません!」
「ふふふ。もはや、そばではなくタマネギを食べにきたといってもいいくらいだ。ほら、もう一杯」
「ぎゃあ!」
メル子は麺をすすりながら、テーブルの上を見渡した。備え付けの調味料とオーダーしたトッピングがずらりと並んでいる。
「しかし、これだけトッピングがあると、どれを入れたらいいか迷いますね」
「そう、それこそが油そばの醍醐味。一口ごとにトッピングで味変をしながら食べるものなんだよ。ほい、刻みタマネギ」
「ぎゃあ!」
黒乃は自分の丼にマヨネーズをぶち込んだ。メル子はパルメザンチーズだ。と思えば柚子こしょうで香りを引き出し、すりニンニクでパンチを加えた。仕上げは半熟たまごでまろやかさを演出する。
「忙しい! 油そばってこんなに忙しいものなのですね!」
「スープがないからこそできる味変なんだよね。卓上調味料とトッピングを駆使して、常に変化する麺をいただく。そう、これは麺の遊園地、食のワンダーランド。我々はこの小さな丼の中に、無限のユートピアを見出したのだ!」
「ちょっとなにを言っているのかわかりません」
黒乃とメル子はお腹をさすりながら店を出た。さすがに麺Wは多すぎたのか、二人は体を支え合いながら線路下のウイロードを歩いた。
「うう、このウイロードは線路という麺に突き刺さった一本の箸だ」
「どうしました?」
ウイロードを抜け、池袋駅の東口に到着した。駅構内からはひっきりなしに人が溢れ出てくる。サンシャイン通りの遥か向こうにはサンシャイン60の威容。
「サラリーマン達は言わば粉チーズ。満員電車というおろし金ですりおろされたパルメザンチーズだ」
「食べすぎましたかね?」
池袋は油そばの丼だ。多様な人種、多様な文化はそのトッピングだ。あらゆるものをぶち込み、あらゆるものを混ぜ合わせた町、それが池袋。
君はこの一杯をすすり切れるだろうか?