第21話 出店準備します! ばぶばぶ!
黒乃がウイルスに感染し、自宅待機になってから三日目の最終日。ほぼ体調は戻っているのだが、メル子に昼までは寝ているようにと指示をされた。当のメル子は朝早々にどこかへ出かけてしまったようだ。
窓の外を眺めると雲の位置が非常に高く、早く流れている。爽やかな日差しが窓から差し込み、インドア派の黒乃ですら外へ踊り出たくなる陽気だ。
黒乃は窓を開けて空気を入れ替えようと思い、上体を起こそうとしたその瞬間……。
「うわああああ、メル子だあああ!」
窓の下側からメル子が迫り上がってきた。窓をコンコンとノックするメル子。ボロアパートの二階の窓の外に、どうやって立っているのだろうか。
「ご主人様、開けてください。メル子が帰ってきましたよー」
黒乃は慌てて布団から飛び出し、窓を開けた。
「メル子! なんでそんなところにいるの!?」
窓から覗き込みメル子の足元を見ると、なにかの台の上に立っているようだ。足が伸びたり、ジェット噴射で飛んでいるわけではないとわかりほっとした。
「オーナーのクッキン五郎さんから、キャリアーを借りてきたのですよ」
キャリアーは電動の台車で、荷物の運搬に利用される。昇降リフトが付いているので、二階での積み下ろしにも対応している。原付免許を持っていれば、誰でも公道を走行可能だ。
ちなみにある種のロボットは、バイクの運転の際にノーヘルが許可されている(頭が硬いので)。
メル子がわざわざ窓から登場したのは、寸胴鍋を部屋に運び入れるためだった。
「二階まで階段を上るのは大変ですからね」
「またすごい鍋だな。これ家で使うの?」
「お店で使う用です。部屋で前日に料理を仕込んでおいて、当日キャリアーでお店まで運ぶのです」
メル子は寸胴を持ち上げて窓から部屋に入れた。大小二つの鍋があるようだ。
「なるほどね。これを買いにいってたんだ」
「いえ、大工ロボのドカ三郎さんが余ったモリブデンを打って鍋を作ってくれたのです」
「大工は鍋打たんじゃろ……ロボットすげえ」
蓋を開けてみると、中にはお玉やら巨大しゃもじやらの調理器具と食材が詰まっていた。メル子は黒乃の看病をしつつも、仲見世通りの出店の準備も進めていたのだ。
「ごめんね、一人で準備させちゃって。今日からは私も手伝うからさ」
「もちろんです。じゃんじゃんバリバリ働いてもらいますよ」
午後からは早速二人で準備に取り掛かった。実際の出店日にはまだ一週間あるが、明日プレオープン(練習のためのオープン)するらしい。
メル子は早速料理の仕込みに入っている。巨大鍋をコンロに置き、テキパキと切り分けた食材を放り込んでいく。小さな体には似合わない豪快さだ。
一方黒乃に与えられた最初の仕事は『店の名前を考える』だ。物事には必ず名前が必要である。そのものを表す相応しい名前が。
『メル子レストラン』、『メルコズハウス』、『メル子堂』、『メイドロボ食堂』、『メイド喫茶メル子』、『逆襲のメル子』、『メル子と黒乃の愛の巣』。
相変わらず自分のセンスのなさが嫌になる。
しばらく床を転がりながら名前を考えていると、鍋からいい香りが漂ってきた。
「なになに、なに作ってるの?」
「カルボナーダです」
「カルボナーラ!? イタ飯じゃん!」
「アルゼンチンのシチューのカルボナーダです。野菜も肉も米もたっぷりで美味しいですよ」
トマトベースの酸味のある香りがたまらなく食欲をそそり、黒乃はフラフラと鍋に近づき蓋を開けようとした。
「こらっ! つまみ食いはダメですよ! これはお客様用です」
すかさず持っていたお玉で手を叩かれてしまった。
「ミァー! ごめんなさい!」
手をさすりながらメル子を見ると、なにやら別の食材の準備をしているようだ。
「あれ? プレオープンはシチュー出すんだよね?」
「ですです」
「そっちのグロいのはなに?」
「これは牛の心臓です」
「うげっ! 気持ち悪い!」
黒乃は心臓という言葉に反射的にビビってしまったが、よく考えれば焼肉屋で牛のハツ(心臓)は当たり前のように食べていた。
「牛の心臓の串焼き『アンティクーチョ』です。ペルーでは屋台で売っているので、仲見世通りにはピッタリではないですか?」
「たしかに」
「シチューだけでは寂しいので、串焼きとセットにして売るのです」
「はー、なるほどねー。よう考えてるわ」
アンティクーチョはワインで作ったタレに漬け込んでおき、実際に焼くのは現場で行う。仕込みはほぼ終わり、後はシチューを弱火でグツグツ煮るだけである。しかし香りといい音といい、黒乃はそれを無視できる状況ではなくなっていた。
「あのメル子さん? あなたのご主人様はお昼ご飯がまだなのですが?」
「出かける前にパンコンチチャロン(ペルーのサンドイッチ)を置いていったではないですか。まだ食べていなかったのですか」
そんな話をしていた気もするが、朝は寝ぼけていたのですっかり忘れていた。
「パンコンチチャロン(ペルーのサンドイッチ)は夜食にするから。今はシチュー食べたいよ」
「カルボナーダはお客様用ですよ。パンコンチチャロン(ペルーのサンドイッチ)を食べてくださいよ」
「だからパンコンチチャロン(ペルーのサンドイッチ)は後で食べるよ。シチューちょうだい! ちょうだい! ちょうだい!」
「駄々をこねないでください。赤ちゃんですか!」
「ママー!」
黒乃は床をゴロゴロしてわがままを言った。ご主人様なのに一番最初に食べさせないとは何事だ、という思いは多少ある。こちとら病み上がりだぞ、という思いはかなりある。
「ばぶばぶ!」
黒乃は床をはいはいしていき、流しの前で作業しているメル子の足にしがみついた。
「ぎゃあ! なんですか。包丁を持っているのに危ないですよ」
「ばぶー!」
「完全に赤ちゃんになっていますね」
黒乃は指を咥えながら寸胴鍋を指差した。
「しょうがないですね。少しだけですよ?」
「バブー!」
メル子は鍋から皿にシチューをよそい、黒乃の前に差し出した。しかし黒乃は不満そうだ。
「さあ、召し上がれ」
「ばぶばぶばー!」
「なんですか。食べさせてほしいのですか。しょうがない赤ちゃんでちゅねー」
メル子は床に膝をつくと、皿を持ち上げてシチューをスプーンにすくい黒乃の口へ運んだ。黒乃はスプーンにパクッと食いついた。
「美味しいでちゅかー?」
「んまんま」
赤ちゃんはキャッキャいって喜んでいる。トマトの酸味の中から芳醇な香辛料の香りが広がり、たくさんの具材の旨味がその後に押し寄せてくる。赤ちゃんはあっという間に一皿平らげてしまった。
「はい。これで満足しましたか? 後は大人しくしていてくださいね」
メル子は調理に戻るため立ちあがろうとしたところ、黒乃に袴の裾をぐいっと引っ張られた。
「ん? なんですか。まだなにかほしいのですか?」
「バブバブ」
「はい?」
「バブッバ!」
「なにを言っているのかわかりません」
「おっぱい!」
「は?」
どうやら赤ちゃんはおっぱいが飲みたいようだ。
「気が狂ったのですか?」
それでも裾をグイグイ引っ張る赤ちゃん。
「いや、出ませんから。上位モデルのメイドロボなら出るのかもしれませんが」
「出なくてもほしい!」
「急に喋り出しましたね、この赤ちゃん」
駄々をこねまくる赤ちゃんにとうとうメル子の堪忍袋の緒が切れ、黒乃はお尻をバチンと叩かれてしまった。
「ギャース!」
「もう、私は準備で忙しいのですからね。今日の夕飯はご主人様にお願いしますよ」
その日の夕食はカレーに味噌田楽を乗せた『味噌田楽カレー』だった。それなりに美味しかった。