第118話 許せないもの
どういうことだ。
母さん。まさか、この時に……
叫ぼうとしても、ヒロには何も出来ない。
ただ、鮮血に染まりゆく母の姿を見ていることしか出来ない。
「母さん!
母さん、やめて! 俺は、母さんを……忘れたくなんかない!!」
――ヒロ。
この女を、この魔妃を、もう決して貴方に近づけさせない。
あまりに身勝手が過ぎるこの女を放置していたら、いずれ貴方にまで危害が及ぶ。
この女はあまりにも、自分の欲しいものを欲しいだけ手に入れたがる。魔妃の力を存分に使って、自分の子も、自分の周囲の人間も……きっと、勇者の末裔たる貴方までも……
そしていずれ、その全てを破壊してしまう。
今の私の力では、殲滅することも、永久に封じることも無理……だけど、ヒロ……
貴方が、大人になって……力を使えるようになるまで……!
おびただしい鮮血の匂いの中、ヒロに流れてくるものは母の想い――その残滓。
酷い苦痛に苛まれ、切れ切れになりながら、最愛の我が子に呼びかけ続けていた。
――ヒロ。
ずっと、大好きよ。
――だから。
どうか 無事に 生きて
それは、ヒロが改めて認識した、母の確かな言葉。
母が何をしようとしているのか、もうヒロには分かっていたが――
止めようとどれほど叫んでも、母には届かない。
そして母は、詠唱を始める。喉から膨大な血を吐きながらも。
発声器官が完全に潰される前に、やらなければならない。その意思が、微かな声音からも感じられた。
『ドナルミ・フォトン……クリス・デ・クラーゴ……』
それは、母がヒロに教えた「おまじない」。
絶体絶命のヒロを救った、勇者覚醒の呪文。
だが、この時母が唱えたものは、ヒロが教わったそれとは少し違っていた。
「力をください 勇気の結晶よ」――ヒロの知るこの呪文の、「続き」がある。
ユイカの異変に気付いたレーナは、その瞬間明らかに血相を変えた。
『そ……その呪文は!?
や、やめてよユイカ! 私、ただ、貴女が欲しいだけなのに!!』
――貴女が欲しいだけ。
そう言いながら、ひとつ手に入れたら次から次へと欲しがるでしょう? レーナは。
どれだけ他者を傷つけても、どれだけ無理矢理奪っても満たされず、ひたすら子供のように求めて、欲しがり続ける。
どうしようもないその性分を、私はずっと見てきた。
最早殆ど聞こえないはずの、母の言葉。
しかしそれは確かな意思となって、血と共にヒロの中へと流れ込む。
――だから、もう、許さない。
ヒロや私の家族にこれ以上被害が及ぶ前に、私が!
『コンペセ・ポルミア・エグズィト……!!』
ヒロは直感で理解した。その呪文が「自らの存在と引き換えに」を意味することを。
そして、それが母の最期の言葉だったことを。
ぶちぶちっ。
生肉が無理矢理引きちぎられるような音が響いたかと思うと――
ユイカの右腕が、レーナの触手を強引に切り裂きながら、何もない空中に向かって伸ばされた。
恐らくユイカ自身の腕力だけで、自らを締めつけていた触手から脱したのだろう。その為に当然、ユイカの右手も縦に大きく切り裂かれ、またしても膨大な鮮血が飛び散ったが。
血まみれの指先から見えたものは――
ユイカの瞳の色と同じ、アメジストの光。
ヒロとは色こそ違えど、それは間違いなく、『勇者』の光だった。
『いやああぁああぁああっ!!!
嫌、嫌、嫌ぁあっ!! 私の中から、ユイカが……貴女が……消え……』
狂乱しながら泣き叫ぶレーナ。
しかしそんな彼女をも、容赦なく光は包み込んでいく。
魔妃を消滅させるにはほど遠いが、確実にその記憶を封じ、魂の一部を削げ落とす光が。
だがその刹那、ヒロの見ていた景色もぼんやりと薄れ始めた。
当然、母――ユイカの姿も。
あぁ。
もう、全てが分かった。
こうやって母さんは、レーナから自分に関する記憶の殆どを消して、亡くなったんだ。
レーナの暴走を止める為に、『勇者』としての力をほぼ全て出し尽くして……魂術のフルパワーを使って。
その封印の力があまりに大きすぎた為に、レーナだけでなく俺やじいちゃん、父さんの記憶まで消えてしまった。
多分そこまでやらなければ、この女を止めることは出来ない。母さんは直感したんだろう。
ヒロの脳裏にふと蘇ったものは、魂術に関する祖父の言葉。
――魂術の使用は危険も伴う。
下手に使えば精神をすり減らし、気絶してしまうこともザラと聞く。
……体力に見合わぬ強い力を不用意に発動させれば、寿命を縮めてしまう恐れすらある。
あの時じいちゃんは、どんな気持ちでそう俺に教えてくれたんだろうか。
母さんの記憶は、じいちゃんにも殆どないはず。だけど、娘である母さんを愛していた記憶もろとも失ってしまったのは、じいちゃんも俺と同じだった。
――敵そのものではなく、敵の中の悪を憎み、愛する者たちを守ろうとする魂術。
それは誠に尊い志のもとに放たれる術ではあったが、あまりに強大すぎるが故、多くの勇者たちがその命を落とした。
消えてゆく母の姿。蘇る祖父の言葉。
その時、限界寸前だったヒロの身体の中から――
猛然と力が溢れ出す。
――そうだ。母さんはこうやって、俺たちを守ってくれた。
自分の出来る限りの力を使って、自分の命どころか存在さえ犠牲にしても、俺や家族を守る為に……
母さんだって、俺や父さん、じいちゃんたちと絶対離れたくなんかなかっただろう。
それは、あの「おまじない」を教えてくれた時のふんわりとした温かさを思い出せばすぐ分かる。俺の中にほんの少しだけ残っていた、母さんの記憶の残滓。
それが、俺に教えてくれる。あの時の母さんが、どれほど無念だったか。
どれほどの想いで、レーナと相討ち同然となったか。
でも、もう大丈夫だ。母さん。
俺はちゃんと思い出した。母さんを。
母さんが俺を守ってくれたから、今俺はここまで来れた。
ルウに出会えて、じいちゃんからも話を聞けて、会長にもサクヤにもソフィにもスクレットにもたくさん支えられて……レズンの本当の気持ちも知って、その家族がどんなものだったかも知って。
苦しいことも山ほどあったけど、やっと分かった。
だから、必ず――
「……ぐ……
俺……だ、って……」
記憶と共に、再び戻り始める意識。
と同時に当然、ヒロの全身を駆け巡る苦痛。そして、四肢に食い込んだ無数の蔓の感触。
こともあろうに、着ていた服はいつの間にやら襟元から大きくちぎれて脱がされかけ、両肩から二の腕までがすっかり露わにされていた。
蔓により中空に引きずり上げられたヒロの身体。宙ぶらりんになった両脚からは、滝のように水が流れ落ち、真下の水面に輪を描いている。強制回復の魔力を秘めた水が。
うっすら見えてきたものは、そんな自分を上から見下ろし、愉しむように薄ら笑いを浮かべているレーナ。
それはそのままヒロの中で、かつてのレズンの嘲笑と重なった。
頭の奥でこだまするものは、かつて何度も何度もいたぶられながら、レズンに投げかけられた言葉。
そして、それを嗤いながら見ていた同級生たちのにやつき。
――なぁ、ヒロ。
ホント、これだけやってもお前は大して抵抗しないんだから、いいザマだぜ。
なんたってお前は昔からずっと、怖がり泣き虫弱虫、だもんなぁ?
その言葉どおり……俺はずっと、レズンやその仲間たちに抵抗出来なかった。
レズンのことを、ずっと友達だと思っていたから。レズンを傷つけたくなかったから……
俺はずっとそう思っていた。だけど、そう思い込みながら逃げていたんだ。
本当は、レズンと向き合うのが怖かったから。もっと言うなら、本当のことを知るのが怖かったから。
その意味で、あいつが俺を「弱虫」と罵ったのは正解だったんだ。
でも――俺は、ルウと出会った。
俺に真正面から「好き」だと言ってくれて、どこまでもどこまでも鬱陶しいくらいに俺にくっついてきて。
ルウと会えたことで、俺は周りにいるじいちゃんやスクレットやソフィ、サクヤに会長……色々な人の愛情や優しさに気づけた。
俺がずっと心を閉ざしていたせいで見えなかったものが、次々と見えてきた。
苦しいこともたくさんあったけど、レズンの本当の気持ち、そして――
母さんが最期に何を思っていたのか。これ以上ないくらい、はっきり分かった。
だから。
俺だって……もう、負けないよ。母さん。
母さんが絶対、負けなかったように。
「俺だって……
絶対に許せないものぐらい、あるんだ!!」