第117話 母の記憶と魔妃の執着
――母さん。
混濁する意識の中、思わず唇から漏れた呟き。
その言葉に、ヒロは自分で驚いた。
まさか――あの人が、俺の……?
だが、確かにそうだ。
背中まで伸びた長い髪は、ヒロと同じく燃えるような緋色。
意思の強そうな、アメジスト色の大きな瞳。色こそ違えど、その瞳の形と大きさはヒロとそこまで相違はない。
男子かと見まがうほど、凛々しく力強い眉。
瞳と同じ色で用意された薄紫のフリルドレスは、鮮やかな髪や眉と妙に不釣り合いにヒロには思えた。無理矢理着せられたようにも見える。
――そんな『彼女』の様子を、じっくり眺めまわしながら。
レーナは、愉しんでいた。今と同じように。
『ね~え、ユイカ。
どうして、私の言うこと、聞いてくれないの?
どうしてそんなに、私を否定ばかりするの?』
聞こえてきたのは、レーナの猫なで声。
それが現実のものか、それとも過去のものか。朦朧としたヒロにははっきりとは分からなかったが――
今確かに聞こえた名前は……『ユイカ』。
母……さん。
やっぱり、俺の母さんなのか。この人が。
レーナの言葉に、『彼女』は明確に拒絶を示していた。
傷つけられながらも、いや傷ついているからこそ爛々と輝くアメジストの瞳。
その光はヒロの目にも、鮮烈さと共に焼き付けられる。
『……受け入れられるわけがない。貴女こそ、一体何度言えば分かるの?
貴女は自分の子供に一体、何をしているの?
貴女がレズン君にしていることは、ただの虐待よ。それは回り回って、いずれ周囲に……一番近くにいるあの子に
……ぐっ……!!』
首元をさらに締めつけられ、痛みに呻くユイカ。
そんな彼女に対し、歌うように問いかけるレーナ。
若さより幼さを強く感じる声音は、今と変わらない。
『……ユイカ。
貴女は私の夫を奪った。それは仕方がないわ、あの男はとっても愚かで傲慢な人間だったから。
でもその上貴女は私の大事な大事な、レズンちゃんにまで口出しして……
さすがに私も怒っちゃうわよ?』
今と変わらず、にっこり笑いながら語るレーナ。
それでもユイカは決して自らを曲げなかった。
『だから散々、小賢しい嫌がらせをしてきたのね。
傲慢なのはカスティロスだけじゃない。貴女も同じよ、レーナ。
たかが誕生日会だのでハブられたりドレスを裂かれたり泥だらけにされたりした程度で、私がどうにかなるとでも思ってたの?』
聞こえてくる母の言葉に、ヒロは動揺せずにいられない。
――そんな。
俺が何も知らないところで……母さんは、そんな目に?
俺はそれさえ知らずに……それどころか、何もかも全部忘れて……
これまで、ぬくぬくと……生きて……
『そうね、意外だったわ。あれほどやっても貴女、全然平気だったんだもの。
どれだけドレスを台無しにしても貴女は、どこまでも堂々としていた。ボロボロのドレスさえも自分の一部だとばかりに。
どれほど男や魔物に襲わせても、全員返り討ちにしてしまった。それほど貴女は強い人。
だから大勢の人々を魅了できるのね……この私でさえも』
そんなレーナの言葉を、ユイカはバッサリ切り捨てる。
『気持ち悪い。
貴女のようなクズに惚れられたって、嬉しくもなんともないわ。
同じことはあのカスにも言ったはずだけどね。ホント、似たもの夫婦』
敢えて下品な言葉を使いつつ、レーナを罵倒するユイカ。
ヒロがこれまで何となく抱いていた優しい母親のイメージからはややかけ離れていたが、それでもヒロには分かった。
――母さんは敢えて、酷い言葉を使っている。レーナを挑発するかのように。
そんなユイカの言葉に呼応したのか、レーナの微笑みがほんのわずかに凍りつく。
それでも、その歌うような口調は変わらない。
『本来なら私は、貴女を恨んで当たり前。
なのに貴女はその上、私の心まで奪った……とっても、とおっても、魅力的な人……』
ヒロは一瞬その意味が掴めない。いや、掴めてはいたが理解したくなかった。
本来なら憎んで然るべき存在である母さんに、レーナは心を奪われた
――つまり、そういうことか。
――レズンが俺をどう思っていたかを考えれば、ありえない話じゃないよな。
だがそんなレーナの想いさえ、ユイカはバッサリ切り捨てた。皮肉めいた笑みと共に。
『そりゃあ、どうも。
でもね。私は決して、貴女のものなんかになりはしない。
私は勿論――他の誰も、貴女のものになりはしない。そう、レズン君だって――
決して貴女の思い通りなんか、なるはずがない。
だってみんな、貴女のものじゃないもの!』
唇の端から血を流しながら、それでも決して意思を曲げないユイカ。
そんな彼女に対し、レーナはキョトンとした表情で、首を傾ける。
ヒロとの問答でもそうだったように。
『う~ん……
やっぱりユイカの言ってること、私にはよく分からないわぁ~?
だって、レズンちゃんは私の大事な大事な子ども。父親があんなにダメなら、母親がちゃあんと、色々教えてあげなきゃダメでしょ~?』
『貴女のやってることは全然違う。
暴力を受けた子供をただただ過剰に甘やかして言いなりにして、自分の思い通りにしようとしているだけ。それは子供を歪ませるだけよ。
その証拠に、レズン君は他の子たちにも暴力をふるい始めている』
『だってそれは~、ヒロ君を守る為だって言ってたわよ~?
レズンちゃん、優しいから』
『今はそうかも知れない。だけどその傲慢はいずれヒロをも
……ぐっ……!』
ユイカの首に巻きついていた蔓がぎゅっと絞め上げられ、その言葉を封じる。
同時に細められる、レーナの眼。その奥の瞳はひたすらユイカを見つめながら――
何も見てはいなかった。
『なのにどうして、私を拒むの?
どうして、私を、受け入れてくれないの?』
まるで子供をあやすように、ユイカに囁くレーナ。
しかしユイカはそれでも折れない。
『そうやって……
相手を見ようともせず、自分を受け入れてもらうことばかり考えているからよ!』
レーナもまた、何を言われたのか理解できないという表情のままだ。
鋼より強い意思を決して曲げないユイカ。そんな彼女の言葉を理解できず、理解しようとせず、ひたすら自らの意思を主張するだけのレーナ。
お互いの意思が全く交わらず、完全に一方通行のまま。
――まるで、今の俺とレズン、そのままだ。
このやりとりをぼんやり聞きながら、ヒロはそう思ってしまった。
そんな中、母の叫びはなおも響く。
『貴女はこれまで一度でも、レズン君が本当は何をしたいか、何になりたいか。考えたことがあった?
いいえ……貴女とあの父親のもとでは、自分が本当は何者になりたくて何を成し遂げたいのかなんて、考えることさえ出来ないかも知れない。レズン君は!』
それに対し、当然の如く答えるレーナ。
『考える必要なんてないでしょう?
だってレズンちゃんは、私の大事な子だもの。
あの子が何かをしたいなら、私が全て叶える。それが親の役目だもの。
父親があの子を否定するなら、母である私があの子の望みを全て叶える。
それが私の……』
『違う!』
ユイカはどこまでも、レーナの言葉を真っ向から否定する。
『貴女のやっていることは、違う。
貴女はレズン君を愛してはいない。子供を自分の思うがままの人形にしたいだけよ!』
そんな彼女の言葉に――
遂に、レーナの表情が凍りついた。
中途半端に笑みをその顔に貼り付けたまま、震え出す大きな眼球。歪む口元。
『……どうして、貴女は……
私を否定ばかりするの……
私のやることなすこと、私の存在、私の言葉。貴女は全てを否定する。一体、どうして?
どうして私を、受け入れてくれないの……
どうして私を、愛してくれないの!?』
その瞬間、レーナの触手は一気にユイカを絞めあげた。
あまりの強烈な拘束に、さすがの彼女もそれ以上抵抗できない。
悲鳴を何とかこらえながらも、ギリギリとその身を潰されていくユイカ――
――母さん!!
ヒロがどれほど叫ぼうとしても、声は決して母にもレーナにも届かない。
その眼前で、肉が潰れ骨が砕ける音が一斉に響きわたる。
『あはは、あは、アハハハハハハハハ!
やっぱり、とっても……気持ちいい。
勇者の力を持つ者をいたぶるのは、どこまでも気持ちいい!
ユイカ。貴女は私にどこまでも快感をくれるの。両親からも誰からも、勿論あの夫だって決してくれなかった快感を!
ねぇ、もっと聞かせて、ユイカ。貴女のその痛みの声を!
私を愛してくれないのなら、そのかわり、その声をもっともっと聞かせて!!』
『ぐ……
あ、あ、ヴアアアアアァアアアアァアアアアアア!!!』
母のものとも思えない、獣のような絶叫。
だがヒロはその刹那、意識の奥底で何かを聞いた。
それは、とてもとても微かな声だったが
――
――ヒロ。
それは確かに、息子たるヒロに呼びかける、母の声。
死の淵まで追い込まれた母が、身体の底から振り絞ったであろう声。
肉声ではない。この時の母は恐らく肺も声帯も潰されかけている。それぐらいはヒロにも分かった。
だからこれは――
――ヒロ……ごめんね。
これから、母さんのやること……どうか、許してほしい。