第116話 激痛の彼方に
がんじがらめに拘束されたまま、巨大蜘蛛に噛みつかれたヒロ。
意識が途切れようとしたその瞬間、身体は水面に勢いよく叩きつけられた。レーナの高笑いと共に。
「ごぼっ……がは……っ!!」
呼吸もろくに出来ず、そのまま水底へと沈んでいく。
血みどろになった身体の周囲には不自然なほど泡がたち、傷つけられた肌にまとわりついていく。
レーナの言葉を信じるなら、この池は彼女が作り上げた魔力の池。どんな傷でもたちどころに治してしまう――
確かにその言葉どおり、あれだけ酷かった刺傷は恐ろしい速度で元通りになり、激痛も次第にひいていった。
しかしそれは、さらなる地獄の始まりでもあった。
意識が完全に途絶えるその寸前、ヒロに絡みついていた蔓が一気にぐいっと上へと引っ張られる。
魔力によって強制的に治癒された身体を、無理矢理引きずりあげられるヒロ。
全身ずぶ濡れのまま、再びレーナと蜘蛛の前に晒された。
「うふふ……やっぱり思ったとおり、すっごく可愛い姿になったわね♪
これはレズンちゃんもきっと、喜んでくれるわ~!」
とても満足げに、ヒロを上から下まで眺めるレーナ。
身体の傷そのものは治癒しても、破られてボロボロの執事服は修復されずそのまま。しかも半分以上が血に染まり、ヒロの身にぐっしょりと張り付いている。
ちぎられたブラウスや解けたリボンの間から、蔓はしつこくその中へと入りこみ、肌の上をずるずる這いずり続けていた。
蔓の先端はやがて獣の舌にも似た何かと化し、明確な意思をもって胸元や腰骨、さらに太もものあたりまでを舐め回す。
蛇のように一気に伸びたかと思うと、先端から白い粘液を噴きだしてはヒロの髪や頬を汚していく。
血で汚れた胸元のスカーフから、どろりと滴る粘液。濡れたブラウスの上から、ちろちろと胸を舐める舌――
それは彼にとって、酷いトラウマをまたしても呼び起こさせた。
「る……ルウ……っ!」
恥辱に震えながらも悲鳴を必死でこらえるヒロ。
しかしそれでも、無意識のうちに呟いてしまう。ルウの名を。
それすらもレーナは嗤う。
「どんなに助けを呼んだって、誰も来ないわよ~
貴方はずっと、レズンちゃんのもの。レズンちゃんもずっと、私のもの。
だから貴方たちはずっとずーっと、私だけのものになっていればいいの。
そう、いつかのユイカのようにね!」
――そうか。
ヒロの中で、再び怒りが燃えたぎる。
――多分、この女に母さんは同じことをされた。
それで母さんは痛めつけられて、ついには命を落とした。
それで何故、俺がその記憶をまるごと失っているのかまでは分からない。でも……
この女はまさに今、それを自分から白状している。レズンはもとより、俺や母さんまでも巻き込んで支配するのが当然と考え、全てを見下している。
そんな、魔妃の名すら汚すほどの幼稚な精神性で。
――だけど、それを知ったところで、どうなる?
今の俺に、何ができる?
レーナの言う通り、このままじゃ俺もレズンも餌食になるだけだ。
何とか……どうにかして、俺の力を使えれば……
そんなヒロの眼前で、巨大蜘蛛の8つの眼が、ギロリと赤く光った。
まるで待ち構えていたかのように、再びヒロへと突進を開始する化蜘蛛――アラーニャ。
一気にヒロに襲いかかった蜘蛛は、そのまま蔓を引きちぎるかの如き勢いで水面にまで強引に彼を引きずり降ろし――
「ぐ……あ、ああぁあああぁああっ!!」
そのままヒロの右ふくらはぎ、左太もも、そして左肩に連続で噛みついた蜘蛛。
眼前に噴き出す赤。そのたびに蜘蛛の8つの眼球はぐるぐると揺れた。その奥で泣いているレズンの顔と共に。
裾から無理矢理引き裂かれ、ズボンはまるで片側だけの半ズボンのようになってしまい。
可愛らしかった上着も左肩からビリビリ食いちぎられ、一気に半分以上が消失してしまった。
最早ヒロの身を守るものは薄手のブラウスと、辛うじてセーラー部分が残った執事服の残骸のみと言っても過言ではない。
「ふふ。さっきより、と~っても可愛らしくなったわよ♪
勇者の力が発動さえすればと、そう思っているでしょう?
大丈夫よ~ユイカの時もそうだったから。ほぅら、こうすれば!」
そんなレーナの微笑みと共に、蔓はその動きを変化させた。
ひと息にヒロの両手両足に絡みついたかと思うと、一気にぎゅっと拘束を強める蔓。
息が止まるかというほどの激痛が全身を走ったが、それはまだ始まりにすぎなかった。
――骨折させる気だ。
ほぼ直感でヒロは悟ったものの、これだけがんじがらめにされていてはどうしようもない。
弱弱しい悲鳴を上げながらギシギシと悶えるばかりが精一杯で、そんな自分がとてつもなく情けなかった。
そして、次の一瞬。
「――!!」
最早、叫びすらあげられなかった。
ベキボキという鈍い破砕音と共に蔓は一気に締まり、ヒロの両手両足の骨がほぼ同時に砕けていく。
――ルウ……
じいちゃ……っ!!
激痛で気絶出来れば、まだ楽だったろう。
しかしすぐにその身体は再び池に落とされ、強制的に回復させられていく。
勿論ヒロは意識を失うことすら出来ず、四肢をもがれた上その四肢を無理矢理蔓に引っ張られる痛みにそのまま苦しむことになった。
手足を繋がれ全身を両側から引き裂かれたとしても、これほどの痛みになるだろうか。
――い……嫌だ。
もしかしたら俺はここでずっとこんなこと、続けられるのか。
かあ……さ……!
ごぼごぼと執拗に、身体にまとわりつく泡。
しかし流石にこの骨折まではすぐに回復できないようで、激痛と息苦しさは魔による強制回復力を凌駕し、ヒロの意識を急速に遮断していく。
目の前が赤くなり、紫になり、しまいには無数の黒い点で覆われていく。
――あぁ。
お……れ、は……
こんな、ところで……?
そして、視界の全てが黒く覆われ。
ヒロの意識が完全に途絶えようとした、その時だった。
――……させない。
闇の奥から微かに響いたものは、誰かの声。
誰だろう、思い出せない。でも、確かに聞き覚えがある声。
――手出しは……させない。
声と共に闇の中から、とある景色がうっすらと浮かび上がってくる。
見えたものは、先ほどまでヒロがつるし上げられていたのとほぼ同じ、水と植物に満たされた魔の空間。
最奥に居座り、微笑みを絶やさぬ魔妃――レーナ。その姿も殆ど同じだ。
しかし――
空間の中心に囚われているのはヒロではなく、別の人物。
ヒロと同じく、エメラルドの衣装をまとってはいるが、それは執事服ではなくドレスだった。
しかも、大きく裾が広がりふんだんにフリルがあしらわれた、豪華なプリンセスラインのドレス。
誰かの花嫁だろうか――と一瞬ヒロは思ったが、すぐに違うと気づいた。
美しいはずのドレスは半分以上が血にまみれ、裾の部分は太ももが見えるほど大きく切り裂かれていたから。
ヒロと同様に傷つけられ、ヒロと同じように蔓に囚われているその女性は――
「……かぁ……さ、ん?」