アホの村人
アホの村人
バイブ
恐らく明治の頃だと思われますが、或る海辺の村に物知りを自慢するばあさんが住んでいました。
或る日、西洋の何処かの物でしょう、浜にバイブが流れてきました。打ち上げられたのを拾い上げたアホの村人が言いました。
「ばあさん、おら、こんなの初めて見ただよ。こりゃ、何だべ?」
「それはなあ、十手じゃ。」
「じって?じってって何だべ?」
「十手も知らんのか、アホじゃのう・・・」
「確かに、おらはアホだで教えてくれねえだべか。」
ばあさんは悠々と一服して勿体ぶってから言いました。
「十手とはなあ、岡っ引きが肩叩き棒として用いる物じゃ。」
時代劇では岡っ引きが捕物の際、十手を使ったりしますが、実際には岡っ引きは十手を持てない身分でした。ですから、ばあさんの言うことは支離滅裂で全くの出鱈目でした。
「おかっぴきって何だべ?」
「ほっほっほ!岡っ引きも知らんのか、遠山景元の職業名じゃよ。」
この真っ赤な嘘に対しても信じたアホの村人は言いました。
「ああ、幾らアホのおらでもその御方は知ってるだべ!そうだべか、これで、あの有名な遠山の金さんが肩を叩いてたんだべか、おらも叩いてみよ。」
アホの村人がそうするのを見て可笑しがりながらばあさんは言いました。
「それじゃあ、いかん、いかん、取っ手があるじゃろ、取っ手を持って叩くんじゃ。」
「取っ手って、この先が二つに割れた、これだべか?」
「そうじゃ、そうじゃ、それを持って叩くんじゃ。」
「ほほう、な~るほど、弾みがついて叩きやすいだべ。」
「スウィングするじゃろ。」
「うんだ、流石、遠山の金さんの肩叩き棒だべ、効果抜群だべ。」
ばあさんは猶も可笑しがりながら言いました。
「ところで、お前、かかあを満足させてるか?」
「えっ、満足?」
「あっちの方じゃよ。」
「ああ、あれだべか。へへへ、ちょっと不満らしいべ。」
「そうじゃろ、じゃからな、それを使ってみろや。」
「えっ、これをだべか・・・」 アホの村人はバイブを見回しました。「ははあん、な~るほど、確かにそう言えば、おらのと似てるだべ。」
「えっ!」ばあさんは色めき立って思わず声を上げました。「お前、そんなにでかいのか?」
「いや、おら、こんなにはならねえべ。」
「ほっほっほ!そうじゃろう・・・」ばあさんは自然、落ちつきしました。「じゃから、それなら満足させられるってわけよ。」
「ははあん、な~るほど。」
アホの村人は物知りばあさんに感心しきりになりました。
法螺貝
翌朝、磯の岩に腰を下ろして一服している物知りばあさんのところへアホの村人が喜び勇んでやって来て、ばあさんの横に座るなり言いました。
「へへへ、ばあさん、早速、昨晩、あれさ、使ってみただが、かかあの奴、そりゃあ、もう、気持ちよがってな、こんなの味わったの初めてだべ!もう、おめえのなんかいらねえだべ!と、こうこきやがっただべ、ハッハッハ!」
「お前、そんなこと言われて嬉しいのか?」
「へへへ、見ての通りだべ。ハッハッハ!」
「お前、つくづくアホやなあ・・・」
「ハッハッハ!そう褒めねえでけろ。」
ばあさんがすっかり呆れていますと、波打ち際に法螺貝が打ち上げられました。
「あっ!でっけえ貝だべなあ!」
好奇心旺盛なアホの村人は、法螺貝を拾って来て、ばあさんに言いました。
「これは何て貝だべ?」
「それはアワビじゃ。」
「アワビっていうと、おらたちがとても買えねえ、あのたけえ奴だべか?」
「そうじゃ、お前の食ったことのないかかあのあそこみたいなな。」
「えっ、ほんとだべか?」
アホの村人は法螺貝の中を夢中で覗き込みました。
「空か?」
「うんだ。」
「貸してみろや。」
ばあさんは法螺貝を矯めつ眇めつ眺めてから言いました。
「こりゃあ、凄い代物じゃぞ。ほら、よく見てみい、法螺貝じゃ。」
「えっ、さっき、アワビって」
「それも何が凄いって陣貝と言って室町時代に宮本武蔵が源義経の陣営へ向けて攻撃の合図に使った物じゃ!」
この分かり易い滅茶苦茶な出鱈目に対してもアホの村人は信じて興奮して言いました。
「すげえだべ!すげえだべ!あの宮本武蔵がだべか!」
「そうじゃ、わしゃ、何でも知っておるのじゃ。」
「すげえだべ!すげえだべ!」
「ほっほっほ!」
上機嫌になったところで、ばあさんは言いました。
「よっしゃ、一つ、あの、捕鯨船に向かって吹いてやろうかな。」
「楽しみだべ、楽しみだべ。」
「ウォ~ウォオオ~ウォオオ~!」
「すげえだべ!すげえだべ!すげえ、ええ音だべ!」
アホの村人が拍手して喜んだ、丁度その時でした。ズドーン!という物凄い轟音と共に磯に向かって砲丸が飛んできました。
「ドッカーン!!」
爆音と共に二人は吹っ飛んで瀕死の重傷を負ってしまいました。
近視のばあさんの言う捕鯨船は、軍艦だったのです。
翡翠
「ば、ばあさん、捕鯨船は、た、大砲を持ってるだべか?」
「ち、違うんじゃ、わしが見間違えたんじゃ、ありゃあ、捕鯨船じゃなくて、ぐ、ぐ、軍艦じゃった。ほ、法螺貝の音に宣戦布告と勘違いして、う、う、打ってきよったんじゃ!」
「そ、そ、そんなら自爆でねえべか、ば、ばあさん、ええ加減にしてくれねえだべか、と、とんだ巻き添えを、く、く、食っちまったでねえか!」
「ち、知者の一失と言ってな、た、偶には物知りにも、ま、ま、間違いが、起こるのじゃ。」
二人は息も絶え絶えで話し合っているところを漁師たちに助けられ、病院で治療を受け、療養、リハビリ生活の末、三ヶ月で退院しました。
或る日も二人は海を眺めるのが好きですから磯辺に座って寄せては返す波の飛沫に見入っていますと、飛沫の煌めきと共に白い翡翠の原石が打ち上げられました。
アホの村人が興味津々になって、それを拾い上げますと、例によって問いました。
「この石は何だべ?」
「それはなあ、石じゃない、白熱電球の素じゃ。」
「はくねつでんきゅう?」
「そうじゃ、海の遥か彼方のアメリカ大陸に住む発明王トーマス・エジソンが装飾のために作った物でな、完成させるために磨けば、透き通ったエメラルドグリーンに光り輝くようになるのじゃ。」
「へえ~、そうだべか。」
「お前、アホだけに一つのことに集中しやすいから、一つ、どうじゃ、磨いてみないか。」
「えっ、これをだべか。」
「そうじゃ、わしの研磨機をやるから。」
「えっ、くれるだべか?」
「そうじゃ、根気も体力も膂力もないわしが持ってても役に立たんが、お前は根気も体力も膂力もあるから。」
「うんだ、おら、根気も体力も膂力もアホに負けないぐらいあるだで、やってみるだべ。」
「よし、それじゃあ、おまけに仕上げ用のサンドペーパーもやるから一生懸命やれや。」
「うんだ。そんなにくれるなら幾らでも頑張るだ!」
「よしよし、それはよい心がけじゃが、研磨機をやる代わりに白熱電球の素を磨き終わったら、わしに渡すのじゃぞ、よいな。」
「うんだ、それは約束するだ。」
という訳でアホの村人はばあさんから研磨機をもらいますと、自分の生業の畑仕事もそっちのけで上さんがバイブで性欲を満たせることもあって昼夜を舎かず衣帯不解で家に籠って只管、翡翠の原石を磨き、そうして三日後につるつるのエメラルドグリーンに仕上がりましたので、長汀曲浦を逍遥するばあさんを見つけるや、急いで、そこへ駆けつけました。
「へへへ、ばあさん、これ見るだべ。」
「おう、よう磨いた、よう磨いた。」とばあさんは労わるのとは裏腹にこのアホが!と思いました。「お前、これを綺麗だと思わんのか?」
「思うだども、おらビー玉の方が好きだ。」
「び、ビー玉!」
ばあさんは翡翠がビー玉以下かよと思いつつ、「そうか、所詮、猫に小判じゃ、まあ、ええ、ほんじゃあ、研磨機の見返りにそれを渡すのじゃ。」
「うんだ。」
アホの村人は自分が大損していることにも気づかず、ばあさんに快く翡翠を渡してしまいました。
「熨斗まで付けとる。底なしのアホじゃ、ほっほっほ!」
塩
或る日、アホの村人は遠浅の海で泳いでいますと、海月に出くわして驚いて海中にも拘わらず思わず口を大きく開けてしまい、その拍子にしこたま海水を飲んでしまいました。
「うひゃあ、ぺっぺ、うわあ、しょっぺえ!往生こいた、往生こいた」なぞと吐いたり喚いたりしながらアホの村人が海岸に上がって来ますと、ばあさんは笑いながら言いました。
「全く騒々しい。折角、静かに快い潮風に吹かれておったのにお前の所為で好い心持が台無しじゃ。」
「だってよお」と言いながらアホの村人はばあさんの横に座りました。「海月の奴が脅すもんだで海水一杯飲んじゃったで。」
「海月は只浮かんでるだけじゃろ。そこへお前が泳いで行くからいかんのじゃ!」
「そんなこと言ったって、おら、魚でねえだで魚みたいに気を付けれねえだべ。そんなことより、うわあ!しょっぺえだべ!まだ、口ん中が塩まるけだべ!なあ、ばあさん、何で川はしょっぱくないのに海はしょっぺえだべか?」
「それはなあ、川は塩分がないが、海は塩分があるからじゃ。」
「そんな事位、幾らアホのおらでも知ってるだべ。おらが聞きたいのは何で川は塩分がないのに海は塩分があるだべかってことだべ!」
「それはなあ、お前に説明したところで到底、理解できることじゃない。」
「そんなこと言わずに教えてけろ!」
「そんじゃあ、お前、酸性とか中性とか中和とか、そういう言葉を知っとるか?」
「知らねえべ。」
「そんじゃあ、カルシウムとかナトリウムとかマグネシウムとか、そういう元素を知っとるか?」
「げんそって何だべ?」
「ほれ、見たことか、ほっほっほ!」
海女
或る日、アホの村人はばあさんと海岸段丘を歩いていますと、髪を磯髷に結い、腰に磯ナカネを巻いただけの上半身を曝け出した海女たちが磯浜で談笑しているのを発見して抃舞しながら叫びました。
「うわあ!若いおなごたちが素っ裸でたむろってるだべ!」
「海女が収穫に満足して喜び合っとるのじゃ。」
「おら、ちょっと近くへ行って覗いて来るだべ!」
「このスケベが!勝手にしろ!」
アホの村人がばあさんの言葉も聞かずに磯の方へすっ飛んで行きますと、ばあさんは暫くアホの村人が岩陰に隠れて海女たちを覗いている様子を傍観していました。
すると、海女の一人がアホの村人の白粉顔に気づいて皆を誘うや否や一斉に海女たちがアホの村人のぐるりを囲み、アホの村人を非難したり、からかったりし出しましたので、ばあさんは面白くなってきたと思い、猶も傍観していますと、海女たちがアホの村人の着物を脱がしにかかりましたので、やれやれ!と乗って来て、あとはもうアホの村人が散々な目に遭うのを心行くまで楽しんだのは言うまでもありません。
褌だけ締めて脱がされた着物を携えてよれよれになって帰って来たアホの村人の白粉顔は海女に海水をかけられた上に指でやりたい放題弄られたのでしょう、幼児が絵の具で出鱈目に塗ったように所々剥げてぐちゃぐちゃになっていました。
けれども、アホの村人の表情は和んでいて満更でもなさそうでした。
「おい!なんじゃ、無茶苦茶にやられたというのに、にやにやしおって!」
「いや、ばあさん、実はおら、間近でおっぱいを沢山見られたもんだで、メロメロになってしまったんだべ!」
「呆れた奴じゃ、ほっほっほ!」
地球儀
或る日、アホの村人はばあさんと突堤を歩いていますと、波のまにまに浮いている地球儀を見つけました。
「あっ、マリモだ!」
「アホ!あれの何処がマリモなんじゃ、あれは地球儀じゃろが!馬鹿も休み休みに言え!」
「あっ、そういやあ、フレームが付いてるべ。」
「そうじゃろ、ちょっと取って来い!」
「取って来いって泳いでだべか。」
「当り前じゃ、お前、あのカモメみたいに空を飛べるのか!」
「そりゃあ、飛べねえだども白粉が取れてしまうだべ。」
「男のくせに・・・お前、前々から気になってたんじゃが、色男の積もりか?」
「へへへ、いやいや、只、好きで塗ってるだけだべ。」
「物好きやなあ・・・ま、それは勝手にすればいいが、どうじゃ、足から浸かって平泳ぎで取って来んか。」
「平泳ぎでって服が濡れてしまうだべ。」
「そんじゃあ、服を脱げ!」
「脱げって脱いだら体が濡れてしまうだべ。」
「脱がなくたって濡れるわ!そんなことより、お前、地球儀を見たくないのか!」
「そりゃあ、見てえだども・・・」
「じゃったら、つべこべ言わずに取って来い!か~つ!」
背中を叩かれ、活を入れられたアホの村人は、勢い、頭から海に飛び込みました。
結果、言うまでもなく全身ずぶ濡れになった上に白粉が剥げたりドロドロになったりして酷い顔になって這い上がって来たアホの村人は、地球儀を自分から手渡され、突堤の縁に腰を下ろすばあさんの横にくしゃみをしながら座りました。
「ほっほっほ!ご苦労じゃった。こんだけ陽が照っておれば、寒いのは少しの間じゃ、直ぐ乾く。」
「随分、乱暴でねえべか、ばあさんよ。お陰でおらのトレードマークの白粉顔が無茶苦茶だべ。」
「ほっほっほ!それはすまんかった。」とばあさんは笑いながら謝った後、例の法螺吹きが始まりました。「それはそうと、こりゃあ、驚くべき代物じゃぞ。何が驚くって油性ニスがしっかり塗り込んであるから、お前の白粉顔と違って全然、浸食しとらん。ほれ!」
アホの村人は自分の目がぼやけているのかと思って刮目して見るのですが、陸域なんだか海域なんだか、さっぱり区別がつきません。
「しかし、もっと驚くべきことは古代ギリシャの哲学者クラテスが発明した世界最古の地球儀であるということじゃ!」
「そ、それはすげえだべ!」
アホの村人は訳も分からず感心しました。
「何でもよく知ってるじゃろ、わしは。」
「確かにばあさんは世界一の物知りだべ。」
「ほっほっほ!」とばあさんは上機嫌になったところで言いました。「おい、日本はどれだか分かるか。」
「えっ、おらには分からねえだべ。」
「ほれ、これじゃよ。」
「えっ、このちっちゃい染みみたいのがだべか。」
「そうじゃ、一斑を以て全豹を卜すで、これだけ見ても如何に世界が広いかが分かるのじゃ。」
「うんだ、おら、さしずめ井の中のアホ大海を知らずといったところだべか?」
「まったくじゃ、ほっほっほ!」
蜃気楼
海が鏡面のように凪ぎ、砂浜に陽炎が立つ、暑い昼下がり、沖合の海上に大きな帆船の蜃気楼が現れました。それを岬の出鼻で、ばあさんと眺めやっていたアホの村人が言いました。
「ありゃりゃ、舟が空中でひっくり返ってらあ!」
「あれはなあ、幽霊船じゃ!」
「えっ!幽霊船!」
「そうじゃ、幽霊が舵を取ってるから水面じゃなく空中に浮かんで尚且つひっくり返るのじゃ。つまり、人間が舵を取る船とはあべこべの現象が起きるのじゃ。」
「へえ~、そうだべか・・・」
「そら、幽霊は足がないから空中を浮いて移動するじゃろ。それと同じで空中に浮くのじゃ。」
「だども幽霊は逆立ちして移動はしねえべ。」
「当り前じゃ、そんなしんどいこと態々するものか。」
「それじゃあ、幽霊は何で船を態々ひっくり返して移動するんだべ?」
この質問に流石の法螺吹きばあさんもちょっと弱りましたが、こう答えました。
「それはなあ、弱って海面に腹を出して逆さまに浮遊する魚と一緒で幽霊も弱っとるから幽霊に憑かれた船もひっくり返ってしまう訳じゃ。」
「あっ、な~るほど、それなら辻褄が合うだべ。」
或る時も海女さんは何であんなに長い間、潜っていられるだべと聞かれて海女さんは天と書いて天さんと言うじゃろ、つまり天の人じゃからじゃよと説明したところ諒としたことがあったので、「全く、このアホを誤魔化すことは幼児を誤魔化すよりたやすいことじゃ。」とばあさんは呟きました。
「えっ、何か言っただべか?」
「いや、只の独り言じゃ、ほっほっほ!」
平家蟹
或る日、アホの村人はばあさんと入江に沿って歩いていますと、珍しく砂浜に出て這うように横歩きする平家蟹を見つけました。
「あっ、ヤドカリだ!」
「ヤドカリ?ヤドカリ如きで驚くことはないじゃろう。」
「だども」とアホの村人は言いますと、平家蟹を摘まみ上げました。「これ見るだべ!人間の顔した貝殻を纏ってるだべ!すげえでねえべか!」
ばあさんは目を近づけて見るなり言いました。
「アホ、これはヤドカリじゃない。平家蟹じゃ。」
「えっ、カニだべか?」
「そうじゃ、その昔、壇ノ浦の戦いで敗北し藻屑と消えた平氏の亡霊の恨みが乗り移って斯様な苦虫をつぶしたような怒ったような顔が甲羅に刻み込まれて平家蟹になったと言うのじゃが、これは人間が勝手に作り出した伝説でな、でっち上げに過ぎん。現にここは壇ノ浦ではないのであってじゃの、この平家蟹は壇ノ浦以外の日本各地に存在し、海外にも分布しておるのじゃ。而もじゃ、地質時代と言ってもお前には分からんから有史以前、つまり壇ノ浦の戦いより遥か遥か昔に化石になった平家蟹は既に人間の顔をした甲羅を持っておったのじゃ。」
「ということは何だべ、平家蟹は壇ノ浦の戦いの前から平家蟹だったんだべな、それはおかしくねえだべか?」
「じゃから平家蟹と名付けられたのは壇ノ浦の戦い以降であってじゃの、わしの説明をちゃんと聞けや!」
「怒らねえでくれろ、おら、アホだで、よう分からなんだべ。しょうがねえべな。」
「確かにしょうがねえわな、馬の耳に念仏じゃ、ほっほっほ!」
地動説
或る日、ばあさんとアホの村人は砂嘴にある森のほとりでキャンプをしていました。
かわたれどき、東の地平線から朝日が昇るのを見てアホの村人は言いました。
「地球が太陽より下へ落ちてゆくだべ。」
「えっ、お前、まさか地動説を知ってるのか?」
「ちどうせつって何だべ?」
「ほっほっほ!お前、地動説を知らずに地球が落ちてゆくと思ったのか。」
「うんだ。」
「お前、かなり変わっとるなあ・・・」
たそがれどき、西の地平線に夕日が沈んでゆくのを見てアホの村人は言いました。
「地球が太陽より上へ昇ってゆくだべ。」
「お前、地球がエレベーターみたいに上がってゆくように感じるのか?」
「うんだ、すげえ感じるだ。」
「お前、ほんとにアホな上に相当、変わっとるなあ・・・」
「うんだ、おら、スーパーが付くくらいアホだで。」
「確かに自称するくらいじゃからなあ・・・ほっほっほ!」
望遠鏡
或る日、ばあさんとアホの村人は断崖絶壁の上から海を眺めていますと、ばあさんが懐に忍ばせておいた望遠鏡を取り出しました。
「これはなあ、あの地図作りで名高い伊能忠敬が用いたという代物でな、望遠鏡づくりの達人岩橋善兵衛の手になる由緒ある名品じゃ!ほれ、その証拠にここに岩橋と焼き印がしてあるじゃろ。」
見ると、漆も塗ってない竹筒の表面に彫刻刀で「いわはし」としょぼくひらがなが刻まれています。にも拘らずアホの村人は感心して言いました。
「確かにいわはしとあるだべ。こりゃあ、さぞかし、遠くまで良く見えるんだべなあ・・・」
「ああ、勿論じゃ、ではでは試しに覗いてみるかな。」と言ってばあさんは遥か水平線に望遠鏡を向けて接眼レンズを覗き込みました。
「何か、見えるだべか?」
「ああ、見えるとも、これはわしらはよっぽど、ついとるぞ!」
「何だべ!何だべ!何が見えるだべ!」と単純極まりないアホの村人は早速、興奮し出しました。
「何だと思う?」
「ばあさん、勿体ぶるでねえ、おら、アホだで想像つかねえで早く言ってけろ!」
「ああ、そうじゃったな、あのな、聞いて驚くな!漁船だ。」
「ちょっと、ばあさん!冗談こくでねえ!漁船なんか珍しくも何ともねえべな!」
「ほっほっほ!悪かった、実はな、漁船を拿捕しようと、そのちっこいのに横付けになっておるでっかい方がすげえんじゃよ!」
「何だべ!何だべ!教えるだべ!早く教えるだべ!」
頗る興奮して来たアホの村人の息遣いを肌でもろに感じたばあさんは、悪乗りしてまたもや法螺を吹き出しました。
「なんとな、七つの海に船出したどんな強者どもも残らず聳動させてしまうという泣く子も黙る大海賊、あの黒髭ことティーチの乗る『アン王女の復讐号』じゃ!」
「はあ?何だべ?それ?」
「あっ、無学のお前には知る由もなかったか、えーと兎に角じゃ、お前にも分かり易く言うと、世界一の大海賊が乗る無敵の海賊船なんじゃよ!」
「へえ~!そりゃあ、すげえだべ!早くおらにも見せてくれろ!」
「ちょっと待っとれ!わしが描写してやるから!えーと、おっ!あーあーあー!あんなに乱暴働きおって!何もそこまでして全部漁獲を横領せんでもええじゃろうが!非情じゃのう、弱い者いじめはいかんいかん、あっ、然るに黒髭の奴、ドクロマークの三角帽とトレードマークの顎髭を誇らしげに大きな口あけて高笑いしとるわ、その姿たるや、アイパッチを付けた顔と言いフックを付けた腕と言い義足を付けた足と言いオウムを乗せた肩と言い、いやあ、如何にも海賊中の海賊!大海賊の名に相応しい風格をしておるわ!」
「おい、ばあさん!もう、分かったから早くおらにも見せてくれろ!」
「おう、そうじゃったな、じゃがな、その前に肩を揉んでくれないか!」
「えー!何でだべ!」
「肩こってるからに決まっとるじゃろ」
「何でこんな時に!もう!意地悪いったらいけねえべ!」
「やか?」
「うんだ。」
「それじゃあ、見せてやらん。」
「そんな殺生なこと言ったら駄目だべ!もう分かっただ!揉めばええんだべな、揉めば見せてくれるんだべな?」
「ああ、そうじゃ。」
「そんじゃ、仕方ない、揉むべか・・・」
アホの村人は上さんにしょっちゅう肩を揉まされて肩を揉み解すことに慣れていますから、ばあさんは直ぐに心地良くなって来てもう良いだろうと思ったところで言いました。
「はあ、ありがとう、すっかり解れたよ。助かった助かった。じゃあ、見せてやろう。」
「ほんとだべか!へへへ」とアホの村人は喜んでばあさんから望遠鏡を受け取りました。ところが、どの方角へ向けても船が全然見当たりません。それどころか近くの物しか見えません。
「あれれれ?何にも船が見えねえだべ・・・」
「そりゃ、そうじゃろ、海賊は用が済んで帰ったし、漁船はしょうがないからまた、何処かへ猟に行ったんじゃろ。」
「そんなアホな、ええ加減にするだべ、ばあさん!おら、とんだ骨折り損のくたびれ儲けだべ!」
「すまんかった、ほっほっほ!」
蛸
或る日、ばあさんとアホの村人は桟橋で釣りをしていました。
ばあさんは根と呼ばれる岩礁地帯、早い話が魚が沢山寄って来る良いポイントに釣り糸を垂れているので目当てのチヌを始めキスを次々に釣り上げていましたが、アホの村人は岩礁のない悪いポイントに釣り糸を垂れているので一向に当たりがありません。
「ばあさん!全然釣れねえべ!」
「ポイントが悪いからじゃ!場所を変えてみろや!」
「うんだ、分かったべ。」
アホの村人は納得して場所を右の方に変えてみて釣り糸を垂れました。
すると、暫くしてから竿先に重みを感じましたのでアホの村人は、ぐいっと釣竿を引き上げますと、波光と見紛うばかりの煌めきを放つ青磁の花瓶が海面から現れました。
見ると、花瓶の取っ手に釣り糸が引っ掛かっていて中を見ると、何やらぬめぬめした物が蠢いています。
「ばあさん!これなんだベ!」
花瓶の中を覗き込むアホの村人にばあさんは歩み寄って行き、アホの村人が一旦、顔を上げたところで言いました。
「そりゃ、蛸じゃ。」
「ああ、蛸だべか、こりゃあ、ええもんが釣り上がったべ!」
「それより、お前、壺の方が値打ちが有るぞ!」
「おら、壺より蛸食いてえで蛸の方がええだべ。」
「蛸壺で蛸を獲ったようなものじゃな。」
「うんだ!どうだ!すげえだべ!」
「蛸の糞で頭に上がるか。」とばあさんがシニカルに言った、丁度その時でした。蛸が漏斗から外に向かって墨を吐いたものですから白粉を塗ったアホの村人の真っ白な顔がシャネルズ時代の鈴木雅之みたいに真っ黒になってしまいました。
「うわあ!とんでもねえ蛸だべ!おらの白粉顔をどうしてくれるだべ!」
アホの村人は恨み節を叫びますと、花瓶ごと蛸を海に投げ捨ててしまいました。
「アホが、ほっほっほ!」
馬と貝
或る日、アホの村人は浜辺で農耕馬を散歩させていました。
ばあさんはその様子を潮干狩りをしながら眺めている内にジャックと豆の木の噺を思い出しました。
「あいつ、アホじゃし、貝には目がないから貝と馬を交換するかもしれん。もし、そうなりゃあ、一攫千金の大儲けじゃ!」
ばあさんはそう思いますと、蛤や浅蜊を詰めた袋を持ってアホの村人のところへ駆けつけました。
「ふう、よお、今日は馬の散歩かい!」
「うんだ、なまらしたら駄目だで。」
「おう、そうか、そんな面倒は省いちまったらどうじゃ!」
「えっ、省くって、そんな横着は出来ねえべ。」
「それが出来るんじゃ、ほれ、この貝、みんなやるから馬をわしに譲れや!」
「えっ!それ、蛤だべなあ!」
「おう、そうじゃ、浅蜊も入っておるぞ!」
「えっ!浅蜊もだべか!」
「ああ、そうじゃ、ほれ、見ろ、こんなにたくさん入っておるぞ!」
アホの村人は袋の中を覗き込み、大喜びで言いました。
「うわあ!すげえだべ!これ全部食ってもええだべか!」
「ああ、そうじゃ、散歩の手間が省ける上にお前の大好物をたんまり食えるわけじゃ!」
「うわあ、そりゃあ、おら、無茶苦茶得だべな!」
「そうじゃ、じゃから交換するか!」
「うんだ、するする!」
という訳で、ばあさんは貝と馬を交換することに成功しますと、牛馬売買市場へ馬を連れて行き、博労に根回しして高値で取引してもらい、見事、大儲けにも成功しました。
一方、アホの村人は上さんに生活の糧の大事な馬と貝を取っ替えるアホはお前しかおらんなぞと油を搾られ、間抜け!おたんこなす!ボケ!すっとこどっこい!とけちょんけちょんにどやされた上に殴る蹴るの暴行を受け、更には貝を独り占めにされ、おまけに晩飯抜きにされ、散々な目に遭いました。
驢馬と小判
翌朝、アホの村人は上さんに朝飯を作ってもらいましたが、食べている間にこう言われました。
「あのばあさん、きっと馬を売ったに違いないから、おめえ、金を取り返して馬を買って来い!」
「えっ、それはちょっと、きついべ・・・」
「何、言ってんだ!おめえ、もし、馬を買って来れなかったら昼飯抜きだぞ!」
「えっ、それはまた、きついことだべ・・・」
「何、洒落てんだ!おめえ、馬を買って来れなかったらマジで昼飯抜きだぞ!」
「あ、ああ、分かっただ・・・」
という訳でアホの村人は朝飯を食べた後、渋々出かけて、ばあさんがいると思われる海岸の方へ向かいましたが、途中で、そうだべ、昨日もらった貝より、もっと一杯貝を獲って金に換えてもらえばええべと浅はかにも思いついて海岸に着いてから潮干狩りを始めました。
そこへばあさんがやって来て言いました。
「おう、精が出るな、今日は潮干狩りか。」
「何、呑気に聞いてるだ!おい!ばあさん!酷いでねえべか!おらをまんまと騙したな!」
「騙した?いつ?」
「惚けても無駄だべ!昨日、馬と貝を交換したら、おらが得するって言ってたが、おらが大損こいたでねえべか!」
「ああ、そのことか、そう、そう、わしもぼろ儲けしてから、ちょっと悪かったかなって流石に反省したし、お前の生活が苦しくなっては猶の事、悪いと思ったから実は金を用意して来たんじゃ。」
「えっ、ほんとだべか?」
「ああ、ほれ、ここに小判がある。これで驢馬でも買えや。」
「ロバ~、驢馬じゃあ、かかあに文句言われるだべ。」
「大丈夫じゃ、驢馬は馬より飼育代が断然安いし、丈夫じゃし、大人しいし、柔順じゃし、よく働くから寧ろ馬を飼うより得になるのじゃ!じゃから、そうやって、かかあを言い聞かせてみろや。」
「だども、驢馬を見たらきっと怒るべ・・・」
「怖いか?」
「うんだ。」
「ほっほっほ!意気地のない奴じゃ。しかし、確かにあのかかあ、怒ると山姥みたいになるからな、無理もない。ま、兎に角じゃ、悪いことは言わん、これで驢馬を買え、これはホントにホントの話で後々得するから。」
「ほんとだべか?」
「わしが保証する!」
「そうだべか・・・よし、分かっただ。」
という訳でアホの村人がばあさんを信じて驢馬を買って家に帰って来ますと、案の定、上さんは激怒しましたが、アホの村人の説明を聞いて100パーセント納得した訳ではなかったものの何とか気を静めました。
一方、ばあさんは馬で上げた利益の小判がまだ3枚残っていたので大儲けしたには違いなくアホの村人のためにも良かったのじゃと自己満足しました。
マンボウ
或る日、ばあさんとアホの村人は干潟を歩いていますと、大きなマンボウが打ち上げられているのを見つけました。
「こりゃあ、たまげた!でっけえヒラメだべ!」
「アホ!こんなヒョットコみたいな顔をしたヒラメがおるか!これはどう見たって鮪じゃろ!」
「ああ、鮪だべか。」
「そうじゃ、まだ息をしとって新鮮じゃから刺身にしたら、さぞ旨かろう。」
既にマンボウは死んでいて異臭を放っているのにアホの村人は期待感を膨らませて言いました。
「ほんとだべか!」
「目利きのわしが言うんじゃから確かじゃ。じゃから、お前、今から包丁と俎板と適当な台を持って来い!わしがさばいて、お前に食わしてやるから。」
「そりゃあ、ありがてえだべ!よし、分かっただ!」
アホの村人は喜び勇んで家に帰って、ばあさんに言われた物を持って来ました。
「よし、では、鮪の頭は可食部分が多くて美味じゃからまず頬肉を食わしてやろう。」
そう言ってばあさんはマンボウの目玉の下の肉をえぐり取りました。
「ほれ、これを潮で洗って食え、塩分が効いてうめえぞ!」
アホの村人は嬉しがってその様にして食べました。
「ぐにょぐにょしてるだべ~!何だべ、この食感、おえ~!」
「それがいいんじゃないか、まだまだ有るぞ!」
ばあさんはマンボウの頭部の肉を無理矢理アホの村人に食わせてゆきました。
「さて、5枚おろしにして」とばあさんは好い加減にどんどんさばいて行き、背かみの中トロじゃ!背しもの中トロじゃ!腹なかの中トロじゃ!腹しもの中トロじゃ!腹かみの大トロじゃ!腹なかの大トロじゃ!と法螺を吹く度に戸惑い嫌がるアホの村人にブロックを白身なのに血合を取ってなぞと言いながら柵取りして与えて潮で洗わせて食わせてゆき、締めに、「しもふりのカマしたの大トロじゃ!」と大法螺を吹いて同様に食わせてしまいました。
お陰でアホの村人は甚だしく酷い下痢になってしまいました。
「ほっほっほ!」
全く酷いばあさんです。酷いのばあさんだけではありません。物知りぶる嫌味なばばあに騙されるおめえがアホだからいけねえんだ!と罵るだけで何も介抱してくれない上さんの所為でアホの村人は何日も腹を抱え悶え苦しむ破目になってしまいました。
海亀
ようやく腹痛が癒えたアホの村人は、或る日、ばあさんと松籟に吹かれながら白砂青松の地を歩いていますと、浜辺で成体の海亀をいじめている青少年たちに出くわしました。
「亀が可哀想だべ・・・」
「そう思うなら亀を助けてやれ、然すれば、浦島太郎の噺のように亀に竜宮へ連れて行ってもらえるぞ、ほっほっほ!」
「そうかもしれねえ、そりゃあ、ええだ!おら、亀を助けるだ!」
ばあさんの冗談をほとんど真に受けたアホの村人は、意気込んで海亀をいじめている青少年たちのところへ突っ込んで行きました。
「こら!餓鬼ども!皆して亀さ苛めるでねえ、そんただことは卑怯者のすることだべ!これ、やめねえべか!」
それに対して年長の棍棒を持った18歳の男子が甲羅を叩くのを止めて言いました。
「このおっさん、白粉を塗ってるぜ!」
続いて枝を持った17歳の男子が海亀の足を突くのを止めて言いました。
「ほんとだ!真っ白やん!このおっさん、むっちゃおもしれえ!」
続いて石ころを持った16歳の女子が海亀に投げつけるのを止めて言いました。
「ちょっとこのおじさん、チョ~受けるんですけど~!」
続いておちんちんを出している15歳の男子が海亀にしょん便を掛けるのを止めて言いました。
「すごくね!やばくね!このおっさん、バカ殿感はんぱなくね!」
「うるせえだべ!糞餓鬼ども!とっとと失せるだべ!」
この本気で怒ったアホの村人の気合の籠った一喝に青少年達は驚いて右往左往しながらもふざける余裕がありましたが、睨みを利かした白い顔が一段と凄みを増した時、うわあ!おっかねえだべ!化けもんみたいだべ!なぞとアホの村人の口真似をしながら一目散に逃げてゆきました。
すると、不思議なことに海亀は日本語で話し出しました。
「どうも、ありがとうございます。お陰で助かりました。お礼にあなた様を竜宮へお連れして歓待させていただきたいと存じます。さあ、どうぞ、私の甲羅にお乗りください。」
アホの村人は夢心地になって聞き入っていましたが、ばあさんの言ったことが現実味を帯びて来ましたのでディズニーランドへ行く前の子供のように浮き浮きして来てばあさんに向かって叫びました。
「ばあさ~ん!行って来るだべえ~!」
それからアホの村人が喜んで海亀の甲羅に跨りますと、海亀は海に向かってゆっくり這ってゆき、そのまま波に呑まれるようにアホの村人諸共海中へ消えてゆきました。
「うそじゃろ・・・」
噓から出た実と言うべきか、その経緯を不思議の感に打たれながら眺めやっていたばあさんは、爾来、アホの村人と二度と会うことなく彼が自分に最大の楽しみを与えてくれた人物であったと悟って寂しく死んでゆくことになるのです。
乙姫
竜宮のある宮廷は海底の都にありました。それなのに海をもぐる間も海底の都に着いてからも地上にいる時のように息が出来て水圧も全く感じないことにアホの村人は驚かされましたが、その理由について、あなた様は私の甲羅にお乗りになった瞬間から海底の都人におなりになったからでございますと海亀から聞かされました。それは結構だべ、だども白粉は全部剥げてしまっただべと不満になって海亀に訴えますと、それは地上の白粉だからでございます、竜宮に着いてから海底用白粉を塗って差し上げましょうと言われました。
竜宮門前に着いて竜宮門の袴腰をくぐり、アホの村人が甲羅から宮廷に降り立ちますと、その途端、海亀は乙姫に姿を変身させました。海亀は乙姫の化身だったのです。
アホの村人はその羽衣をふわふわさせた天女のような美しさに陶酔して一目惚れしてしまいました。そればかりではありません、宮廷で過ごす内、自分のアホな所を一切馬鹿にせず、人の良い所を重んじてくれる美しい心にも惹かれてゆきました。そして澄み切った紺碧の海を背景に朱塗りが鮮やかで豪華絢爛な竜宮や神秘的で幻想的な海月の光や血管のような赤い枝を張り巡らす宝石珊瑚や様々な模様と形をした魚たちが織りなす宮廷の美しい風景にも魅了されてゆきました。
竜宮では盛んに酒宴が行われました。その都度、美しい娘たちと魚たちの舞や乙姫のもてなしにアホの村人は深く酔いしれて羽化登仙の心境に至るのでした。
そうして時間はゆったりと楽しく流れてゆき、アホの村人が乙姫と出会ってから十日目、取りも直さず地上の時間に換算して丁度百年目の日に乙姫がアホの村人に酌をしながら言いました。
「この海底の都では竜王の跡取りは竜王の嫡男と決まっておりますが、私は知っての通り竜王の一人娘でございます。ですから父は男の子を授かることを願っているのですが、母はもう子を産めない体なのでございます。そういう場合には権力を巡る王侯貴族の抗争、陰謀、裏切りなどを抑止するために竜王の跡取りを決める方法の一つとして竜王の娘である私が態々苛められるために醜い亀に化けて地上に上がり、苛められている私を助けてくださる男の方を痛みに耐えながら待ち望まなければならない仕来りがあるのでございます。」
「つ、つまり、何だべ、おめえさまを助けた者が竜王様の跡取りになれるだべか?」
「跡取り候補に選ばれるのでございます。」
「と言うことは、おらは竜王様の跡取り候補としてここへ連れて来られたってわけだべか?」
「左様でございます。あなた様にしては物分かりがよろしゅうございますね。あっ、こんな言い方、失礼でございましたね、ごめんあそばせ。」
「いや、何で謝るだべ、褒めてくれたんだべ?」
「え、ええ、そうでございますとも、何と言っても醜い亀に化けて地上に上がって試すこと千回目にして初めて私を助けてくださったお人なんでございますからね。そんな竜王にふさわしいお方をお褒めしない筈はございませんわ。白粉顔もとても素敵でございますわ。」
「へへへ、そんなに褒めねえでけろ、へへへ、おめえさまみたいなめんこいあまっこ、いや、お姫様に褒められるとはんぱなく照れるだべ、へへへ、それにつけても千回も試して、おらが初めておめえさまを助けたんだべか?」
「左様でございます。皆さん、情が足りないのか勇気が足りないのか道徳が足りないのか義侠心が足りないのか、それとも事なかれ主義なのか知りませんけれど、無視するか、または多数派に味方しますから苛めに加わってしまうのでございます。」
「そうだべか・・・情けねえことだべ・・・」
「その点、あなた様は全然違っていらっしゃいますわ。流石にここへ来られただけのことはございます。そして十日間、海底の都でお暮しになる間もお優しさは微塵もお変わりありませんでした。ですから私はあなた様に合格点を差し上げます。そしてそう判断した場合の仕来りとしてあなた様を竜王の跡取りとして竜王に推挙させていただきます。よろしゅうございますか?」
「お、おらがりゅ、竜王になれるだべか?」
「はい、きっとおなりになることでございましょう。おなりになりたい?」
「もちろんだべ!」
「では正式に推挙させていただきますわ。」
竜王
という訳でアホの村人は事実上、竜王の跡取り候補ナンバーワンになり、その5日後、つまり地上の時間に換算して50年後に竜王が崩御しました。生前、竜王は乙姫を始め他の者と同様にアホの村人を気に入っていましたので彼をわしの亡き後、竜王に即位させよと遺言し、それを受けて最大の決定権を持つ竜王妃は、迷わずアホの村人に王位を継承させ、更には相思相愛の彼と乙姫を結婚させ、王妃の位を乙姫に譲りました。
斯くして人の良さを買われて竜王になったアホの村人は、乙姫と固く結ばれ、子宝にも恵まれ、仮令、ハーレムと化す酒池肉林の場でも徒心は抱かず、乙姫への愛は終生変わることはありませんでした。そんな人が良くて裏切らないアホの村人の血を彼の嫡男である王子を始め王族は受け継ぎましたので皆のための清き政治を行って海底の都は末永く平和に栄えることになりました。そしてアホの村人が乙姫と結婚した時に頭のてっぺんに結ったバカ殿みたいなチョン髷も王族男子は彼らのシンボルとして受け継ぎました。
ところでアホの村人は今でも英雄として実物大の銅像になって海底中央公園のど真ん中にある高台に据えられた玉座にバカ殿その物のチョン髷を誇らしげに鎮座ましましています。それも海水に常時晒されても浸食しない特注の海底用白粉を顔に塗ってもらって・・・