日常
放課後の教室には、誰もいなかった。
正確に言えば、俺―泉谷渉―のほかには、だけど。
部活動加入率九十五%を誇る我が高校、旭丘第三高校にとってみれば、残りの五%は誤差のようなものだ。放課後の教室には誰もいてはいけない。ましてや、各種大会を控えた六月の暮れであればなおさらだ。そんな雰囲気が、この学校には漂っている。
俺は、部活動をやっていない。入学当時に入っていた文芸部も、すぐに退部してしまった。もともと部活動加入の隠れ蓑として利用するつもりで、その活動内容には全く興味がなかったし、一年生に割り当てられる部室の掃除だとか、図書館の補助業務といったものがどうにも面倒くさかったからだ。幽霊部員という選択肢もあったかもしれないが、幽霊部員になるには、先輩部員からの説得を一定期間拒み続ける過程を経なければならない。そんな忍耐は、俺にはなかった。
梅雨の時期の晴れ日は、ジメジメした空気に夏の暑さがミックスされているから、下手をすれば真夏よりもたちが悪い。放課後のチャイムと同時にエアコンが切れた教室にも、じわじわと外気が忍び寄ってきて、俺は居場所を追われるようにして教室を出た。
県立高校にしては大きめのグラウンドから聞こえる掛け声を背に、そそくさと校門を抜け出した俺が向かう先は、自宅ではない。俺は、帰宅部員としても優秀ではないのだ。
向かう先は、本屋―公文堂書店―だった。公文堂書店は、日本の三大書店といわれるうちの一つであり、漫画やアニメといったサブカルチャー系の品揃えの良さを売りにしている。昔は公文堂といえば、エッセイとか文学に強いという印象だったのだが、他社との競争が激しくなったのだろう、最近になって若者向けの新たなジャンルへと方針転換をした。それが功を奏したようで、今では公文堂書店の顧客層の半数近くが十代から二十代の若者が占めている。
元々旭丘市には大きな書店はなかった。しかし、近年ベッドタウン化が進み、市の人口が増加していることを踏まえ、ようやく公文堂も重い腰をあげた。そうして、二年ほど前にできたのが、この公文堂書店である。
俺はスポーツ誌、女性誌、文庫本のコーナーをかいくぐり、漫画・ラノベコーナーに直行する。漫画・ラノベコーナーは、別のコーナーとの間にガラス張りの仕切りが設けられており、他よりもより広いスペースが確保されている。最近になってできたこともあり、公文堂書店の特色が余すところなく発揮されている。
俺は、所狭しと並べられているラノベの中の一冊を取り出し、コーナーの端に設置されているベンチに腰掛けた。ベンチは各コーナーにいくつか設置されており、土日以外であれば大抵は座ることができる。立ち読みならぬ「座り読み」オッケーというスタンスなところも、公文堂の魅力の一つだ。
俺は、手に取った異世界モノの本のページを開く。最初の数ページは、文字ではなくイラストが描かれている。耳の長い少女と剣を持った少年がゴリラのような怪物と対峙している、そんなシーンだ。耳の長い少女はおそらく魔法を操るエルフ族だろう。少年が振り上げるその剣は、金色にまばゆく光り、それ自体が主人公であることの証のように見える。
さあ、今日はどんな展開が待っているのだろう。鳴り響く剣戟に、乱れ飛ぶ魔法の数々。その中を猛然と駆け抜ける主人公。きっと主人公はあの耳の長い少女を助けるために生命を賭すのだろう。
ラノベを読んでいる間だけは、現実世界が遠く離れる。目の前にあるのは、異世界の住人たちが繰り広げる非日常的なドラマだ。それは、ときに熱く、ときに切なく、ときには思わず吹き出してしまうような日々だ。ラノベを読んでいる間は、誰も俺を邪魔しないし、誰にも迷惑をかけることがない。異世界は俺の居場所であり、これからもそうであり続けるのだ。
そういうわけで、俺にとって、ラノベを読む時間は一日でもっとも重要で濃密な時間なのであった。