最後の将棋
全体質疑が終ると、僕のところにもスクールのことを聞きにくる人が集まってきた。
僕は一つ一つの質問に答えながら、その回答を端末を通じて共有した。全ての質問に回答し終わると、少し休憩しようと広場を離れて海の方に向かった。
海はいつもと変わりない。
今日も海は穏やかで水面が輝いている。
葛葉、海、そして僕はあたかも同じ風景に存在しているように見えるけれど、それを1つの絵のようにまとめる意志はどこにも存在しない。ただバラバラに存在しているだけだ。
僕は再び1人になった。
しばらく海を眺めているとゲンジさんが僕のところにやってきた。
「お前はどうするのか決めたのか」
「僕はおそらく葛葉を出ることになるでしょう。1人で旅立つつもりです」
「そうか。寂しくなるな。
お前のことは子供の頃から知っている。とても内気な子供だった。お前は人間と接するのが苦手だったんだろう。俺は心配していたんだ。
でもお前はやさしい子だったから、人間嫌いには育たなかった。今はもうどこに行ってもお前は大丈夫だ」
「総会のような人間が集まる場所はいまでも苦手です。ゲンジさんはこれからどうするのですか」
「さっき要と話してきた。要に命を預けることにしたよ。
捨て駒のような使い道でかまわないから、もしよかったら使ってくれとな。俺はもう充分生きたからな」
「ゲンジさんとの将棋は本当に楽しかった」
「俺の将棋はいい加減でただ自分が楽しむ為に指していただけだ。でもお前が楽しんでくれたのならそれはよかった。
お前は俺に一度だけ勝つ喜びを与えてくれた。俺も感謝している」
「あの時は終盤急にゲンジさんの指し手が読めなくなりました。お見事でした」
「そりゃあそうだ。自分で自分の指し手も読めなくなったんだからな」
ゲンジさんが笑った。
「自由に駒を動かしていると、一生に一度ぐらいはそういう奇跡みたいなことがある。ほとんどはつまらない結果になるけどな」
「ゲンジさんは勝っても負けても楽しく将棋を指すから、実質ゲンジさんはいつも勝っているみたいなものですよ」
「まあな。名よりも実をとってきたのが俺の人生だ。でもいいことばかりじゃない。恥ずかしい思いも沢山した。若い頃のことを思い出すと胸が張り裂けそうになるよ。
でも年をとって分かったことがある。時間が経つと良い思い出になる、恥ずかしく思わなくなる、そんなことはうそだ。
今でも若い頃にしでかした恥ずかしいことを夢に見て、夜中に飛び起きることがあるんだからな」
「みんなそうですよ。僕だって恥ずかしい思い出があります」
「いいじゃないか。お前はまだ若いからまだまだ恥をかける。俺はもう充分だけどな」
ゲンジさんが高笑いをした。
「今はもう若くなくなってほっとしている。
自分に対して多くのことを望まないでいられるようになる。また他人からもあまり期待をされないで済むしな。若い頃よりも楽に生きられるようになった」
「私が子供の頃、大人の世界は厳しいものだということを言いたがる人が沢山いました。それを聞いて私は世界がとても怖いところだと思っていました。
でもゲンジさんは一度もそんなことを言わなかった。私はゲンジさんを見て育って、もう少し楽に生きられるかもしれないと思いました。
そういえば、ねえ、あの歌を歌ってくださいよ」
「お前の好きなあの歌だな。いいぞ」
共に年をとっていこう。
季節がいくつ通り過ぎても。
共に年をとっていこう。
お前の幸せを祈ってる。
お前が悲しい時は俺に半分分けてくれよ。
お前が楽しい時も俺に半分分けておくれ。
共に年をとっていこう。
お前の幸せを祈ってる。祈ってる。
「前から聞こうと思っていたんですが、この歌はどこで習ったんですか」
「習うもなにも俺のオリジナルだからな。最初は歌いたい気分になったから適当に歌っただけだった。
でもお前が何度も歌ってくれとせがむから、その度に適当に思い出しながら歌っているんだ。でもきちんと思い出せないから、毎回ところどころが違うだろう」
ゲンジさんが豪快に笑った。
「というより出だしのところ以外は毎回全然違いますけどね」
僕はこの人からおおらかさを学んでいたのだ。
この人のユーモアのある包容力、寛容性、そして楽天性を。それを分けてもらえていなかったら、僕は相当辛い人生を歩むことになったのではないか。
「もうお前も俺も結論が出ているようだ。厄介ごとの正面で睨み合っていても、どうにかなる訳じゃない。
どうだ。もしお前さえよければ最後に1局指さないか」
「こちらからもぜひお願いします」
「お前はひどい顔をしているからな。そんな顔で旅立つつもりか。最後にもう一度お前を負かして、すっきりした顔にさせてやる。
何に悩んでいるのか分からないが、一旦悩みはそこのスープカップの中にでも入れておけばいい。気が向いたらまた遊んでやればいいだろう」




