歴史の話1
今ではもう省みられることのない歴史について語ろう。
2度目の放射能事故が発生して中央政府が機能停止宣言をするまでの間に起きた様々な出来事は、今もなお多くの人が忌み嫌い、そのことに触れることすら避けられている。
学校の授業でも詳しくは学ばない。
狭い虫かごにエサを与えないまま、虫を詰めるだけ詰める。
それを人間でやった実験場。
そう悪趣味な表現をする海外の研究家もいる。
授業であまり詳しく触れないのも当然だろう。
子供たちがそんなことを学んでどうするというのだ。
しかし事実を知る方法はある。
端末からアーカイブにアクセスすると、当時の記録を閲覧することができる。
その方法は誰でも知っているが、あえてその記録を見ようとする人はほとんどいない。
おそらく葛葉では僕ぐらいのものだろう。
僕だって体が震えてしまい、映像の再生を止めてしまうことがある。
しかし数分後には震えが収まらないまま映像の再生を再開しようとする。
例えば今日見た映像は、大勢のやせ細った人がカメラに向かって何かを叫んでいる。
良く見ると男性と女性の区別がつくが、皆同じような顔をしている。
最初は1人が叫んでいたが、やがて他の人も叫び出した。
何を言っているのかは分からない。
無断で撮影していることに抗議をしているのかもしれない。
または助けを求めているのかもしれない。
表情からは何も読み取ることができない。皆、無表情だからだ。
こうした断片的な映像が整理されないまま置かれている。
当時の報道やSNSなどの文字情報もある。
海外の研究家が収集し保管した共有資料だ。
誤解のないように言っておくが、僕も好き好んでこうした資料を漁っている訳ではない。
見ていると怒りと悲しみで心がいっぱいになる。目に涙を浮かべながら資料を読むことがある。
アーカイブを見ていると時に感情が昂ぶって、素っ頓狂な声を上げてしまうこともある。
それから我に返ってそばに誰もいないことに気づく。
僕はにぎやかな中央を離れて森のそばに1人で住んでいる。
そういうみっともない姿を誰かに見られない為に、離れて住み始めた訳ではない。
そもそもアーカイブを見始めたのは、森に住み始めてからだ。
僕をおかしな人間だと思わないでほしい。
「愛せなければ通り過ぎよ」
僕の好きな古の言葉だ。
普段の僕は自分を脅かしそうなものに近づくことはない。
何事もなく平穏無事に毎日を終えること、それが僕の最大のミッションと言ってもいい。
刺激を求めている訳では決してない。
これから語ろうとする歴史はとても愛することができる代物ではない。
しかしなぜ黙って通り過ぎることができないのだろうか。
あえて説明を試みるとしたら、こういうことに似ているのかもしれない。
何か大きなものが燃やされた跡を見つけたとする。
何度か通り過ぎる内に、何が燃やされていたのだろうかと気になり始める。
黙って通り過ぎるには、あまりに大きな焼け跡だからだ。
次第にその中に何があるのか、立ち止まって灰の中を探してみようと思い始める。
燃え残った欠片から何が燃やされたのか判るのではないかと考え始める。
焼け跡を見た瞬間に沸き起こる飢餓感、何かしなくてはいけないと自分を駆り立てる焦燥感、そこにいたくないのに同時に留まらせる不思議な切迫感。
燃え残ったものを見つけて、ほんのつかの間、安心感を得たいのかもしれない。
しかし知りたいのだ。
それは本当に燃やされるべきものだったのか。
そしてすべては本当に失われてしまったのかということも。