しょう
あなたが分岐で悩んでいると、左奥の方向から微かな物音が聞こえてきた。
何かの……いや、誰かの泣き声。人だろうか。そうだとすれば、目覚めてから初めて邂逅する人だ。あなたは逸る心を抑えて左に向かった。
道なりに暫く進む。
件の泣き声は途切れ途切れに聞こえてきて、今しもそのまま途絶えてしまうのではないかとあなたの焦燥を誘った。
歩みに支障をきたす程ではないものの、隧道は緩く下へと傾斜していて、道先はあなたの望む出口に続いていない可能性が高い。それでもあなたは歩みを止めなかった。
泣いている人を助けたいという善良さよりも、むしろ、独りでいたくないという気持ちの方が、動機としては強い。
あなたは眠りに陥る前に誰かと共にいた気がしていたし、たとえ泣き声の主がその誰かではなくともこの謎めいた状況を少しは解き明かしてくれるのではないかと、一抹の期待を抱いていた。
出会ったところで与うるべき答えを持たぬ遭難者同士であったとしても、その時は助け合ってここを脱出すればいい。それは一人きりで出口を求めて右往左往するよりよほど良い条件のように、あなたには思われた。
記憶も覚悟も無い状態での孤独には耐えられそうもないからだ。
あなたは、歩きながら無意識のうちに己の左手が何度も腰の辺りを探ってしまう事に気が付いた。おそらく普段その位置に武器を吊っているのだろう。無くて七癖と言うが、記憶がなくとも癖は出るらしい。あなたは苦笑した。
自分が得意としていた得物は剣だろうか。右の掌にある胼胝を眺めて、あなたはそう推測する。釣り合いを取る癖があるのか、注意していないと歩く時の重心が僅かに右に偏ってしまうのも、その考えの裏付けになりそうだった。
してみると自分は、剣技を生業とする者──騎士、もしくは冒険者なのかもしれない。
それならひとまず、このような洞窟内にいたことの説明はつく。あなたはそう考えた。
つまりここは規模からしてもただの洞窟ではなく、ダンジョンの一種なのだろう。その割には、己が単身丸腰で挑んでいる様子なのが解せないが。
だいたいダンジョンにはつきもののモンスター出没も、目覚めてから一度とてない。期待外れの枯れダンジョンだったのだろうか。
しかし、枯渇していると言い切るには、なんだ、こう──
……相応しくない。
あなたは視界の端で油断無く前後左右を探った。
眼前に出現しないだけで、何がしかの気配はずっとあるのだ。あなたに気取られない為に、遠くで息を殺しているかのような微かな気配が。
薄明かりのもたらす陰影に潜んでこちらを窺っているのではないかと、疑心暗鬼に囚われそうな何かの気配が。
枯れダンジョンかもしれないというあなたの疑念とは裏腹に、洞窟の深度が増すにつれて徐々に場の湿度は上がっていた。そのおかげでそれほど喉の渇きを覚えなくて済むのは有難い。とはいえそう遠くない将来、身体は水分を欲さずにはいられなくなるのだろうが。
洞窟を形成する泥岩には僅かながら水が浸み出し始めている。だがよほど差し迫らない限り、この水はとても飲めたものではないだろう。端の方で泥濘に浮かぶ気泡がぷつりと弾け、硫黄臭が漂った。
この場所は温かく、湿っていて、脈動している。まるで生き物の胎内みたいだ。あなたは少々薄気味悪く感じた。
そう言えば巨大な鯨に呑み込まれた老人の寓話があったではないか。記憶の海底から泡が浮かび上がったかのようにそんな事だけが思い出され、あなたは自分でもそのあまりの荒唐無稽さに鼻を鳴らした。馬鹿馬鹿しい。あれは子供向けの作り話だ。
子供?
再び泣き声が聞こえてきた。今度はかなり近い。改めて聞くとキィキィと甲高く、成人のそれよりは子供の悲鳴に似ている。僅かに失望を覚えながら、薄明かりの中、あなたは目を凝らして前方を見た。五十歩ほど先の天井部分が大きく崩れ、大人ひと抱え分もの泥岩が進路を塞ぐようにわだかまっていた。
落盤があったのか。あれがもし今自分の頭上であったなら生き埋めになってしまう。想像してあなたはゾッとした。
声はその下から弱々しく響いてくるようだ。
犠牲者が誰にせよ、ひとまず救いの手を差し伸べるべくあなたは足早に近寄った。だが数刻作業をした後、あなたは思わず舌打ちをする。埋もれていたのは人ではなかったのだ。




